第26話

「何か煎れるよ」

「……お構いなく」

 楚良より先に立ち上がった一條がキッチンの方へと回り込むのを見れば、もう半ば睨んでいるのではないだろうかという視線の鋭さで見つめられたが、まあ彼女から背景を聞いてみれば当たり前だとも思った。


 彼の秘書がどうかは知らないが、父親の身からしてみれば娘に近い男が我が家の様にキッチンに立てば問題視したくもなるだろうから。


「お嬢さん」

「父は何と言っていたんですか。…本当に絵は描けなくなったんですか?」

 藤森が一條について問いただす前に彼女からの質問が降って、躊躇したのだろうか一度言葉を止めた男が視線を楚良の方へと戻した。


「刀司さんは昨日会った後から、全く。画室に近づきもしないのは初めてで」

「絵も描かずに何をしているんです。他にやることないでしょう?」


 楚良の漏らした言葉に思わず藤森が口元を抑え、そして一條は目をそらしておいた。なる程、彼ら二人は似たものなのか、親子だけに。


「お父上の…御爺様の所に行って、最近のお嬢さんの行動についてお聞きしようと」

「で、追い返されたんでしょう。その後は?」

「――――……お嬢さんが、以前の様な事になってしまうのは、絶対に避けたいと」


 以前の、と言われれば僅かだけ彼女の指先に力が入った様だった。どちらも、そこから言葉が続かない。

 一條が新しい三つ目のカップに紅茶を注ぎ入れ、ソーサーへとそれを乗せる。ミルクも砂糖も添えずにそれを静かに藤森の前へと置いた。その動きに最初に瞳を向けたのは楚良で、藤森は有り難う御座いますと口の中だけで告げる。


「私は人を見る目がありません。誰かさんのせいで私に寄ってくる人間が皆金目当てになってしまって、それを見分ける事も出来ません。父はそれを心配しているのでしょうが。父の正体を知る前に出会っています」

「見る目が無いとご自分でおっしゃっていますね。その男が、嘘、を吐いていないとは限りませんよ」

「御本人を前に本当に失礼ですね。私は人を見る目はありませんが、兎を見る目だけは違えたことがないんです」


 サチの方へと歩き出した一條に彼女の声が追いかける様に掛かる。カタンと小さな音に、サチを抱き上げた一條が振り返れば、彼女が立ち上がった所だった。


「そもそも一條さんとはそう言う関係ではありませんし、よくご覧下さい。どう見たってあれが近付く為に利用されている兎に見えますか。兎をよほど大切に扱わなければあんな毛並みになりませんし、兎の為に良い環境を望むならこの場所は理想的でしょうから――――」

「お嬢さん」

「どうせ私より兎を見る目は無いんですから文句は聞きませんよ」


「そうではなく。……此方の方は、お嬢さんの恋人では無いと」


 どうぞとばかりに手で指し示されて、一條の腕に抱かれているサチが視線を集めている事に落ち着かないのか耳を立てる。

 紅茶のカップを前にしたまま、楚良を見つめて居た藤森が酷く怪訝そうな顔をしてその兎と一條を交互に眺めた。


 思わず溜息が漏れたのは一條、兎の耳がその吐息にぴろりと揺れる。


「見る目がないのは其方じゃありませんか、茶々とさっちゃんを遊ばせに来て下さってるだけです!」

「普通年頃の男女が一緒に旅行に出たり家にいればそう思います」

「あれは会社の慰安旅行です。そうでなければ私が兎の傍を離れる訳がないし、茶々が入れない様な場所には行きません。その位の相手を選ぶ権利は私にだってあるでしょうに」


 相手の察しが悪い様に言っているが、サチを抱いたままそれを眺めている一條にしてみれば、藤森の言う事の方が説得力がある。

 会社では殆ど上司部下の関係に留まっているが、もし私生活まで知られれば100人いれば99人ぐらいは藤森の言う通りに特別な関係だと思うだろう。あとの1人は余程ひねくれているか楚良ぐらいだ。

 ただ彼女の言う通り、一條が彼女を連れていくなら兎も一緒に楽しめる所を考える、それは間違い無い。


「一條さんは兎仲間です。さっちゃんが茶々と仲良しなので会わせて下さっているのに、そんな誤解をされた上に父の名声だか遺産目当てだなんて思われているなんて、きちんと一條さんに詫びて下さいませんかね?」


 はっきり言い切られてそれこそ一條も切ない気持ちになって来たが、珍しく怒った風な楚良にサチの耳がぺたりと寝てしまった。身体はこわばっているし、目は見開いているし、一條の足下にいた茶々も同じ様な顔をしているしで、緊張感は直ぐ分かる。


「僕は構わないよ。誤解が解けたなら」

「まだ、解けた訳では」

「まだ疑っているんですか?!何がそんなに疑わしいと言うんです」

「お嬢さんがそこまで言うなら――――信じない訳では」


 父親の秘書という立場では、娘の傍に男がいればそれは怪しいとは思うのは自然だよと楚良に教えてやりたいが、多分それは火に油になるのを一條は心得ている。

 茶々が警戒しているのに気付いた楚良が、一條の足下に蹲っていた自分の兎を抱き上げて尻を支えた。


「なら父にそうお伝え下さい。以前の様にはなりませんし、私は父を許しません。今回も父に声を掛けられたせいで…藤森さんが父に報告したせいで、余計な情報を」

 一度耳を立てた茶々のそれが大きく動いて、楚良が緩やかに兎の顎を撫でた。本当に魔法の指先なのか、再び耳の緩んだ茶々は目を細めてすっかりリラックスしている。


「父の金目当てと言うなら、不用意に近付いて来る貴方方のせいです。私が離れたのはそれも理由だと、祖父から聞かなかったのですか」

「存じております」

「なら近付かないで頂いた方が100倍マシです。私は兎が守られれば文句はありません、そのためには名の売れている父には近付いて頂きたくありません」


 本当に彼女は父親に容赦がないと聞いているだけで一條にも分かる。その事情は深くは分からないが、余程関係は悪いのか。

 ならば何故寝室に画集を置いたままにしているのかが分からないし、何だかんだ言って藤森にしても風呂を貸してやったり通報を避けたりはしている。


 一條にしてみれば彼女のやる事がちぐはぐなのは今更だが。多分それは父親の方も理解しているのではないだろうか。


「お嬢さんの兎は価値のあるものです、それが目的という事も――――」

「物呼ばわりするのは辞めて下さい。私にとって一條さんは、ちゃんと兎を家族と見て下さって、ちゃんと世話をしている貴重な人だったんです。……私にもお金を要求する事なんて一度もありませんでしたよ」


 楚良は静かにそう告げて、自分の兎の方へと目を下ろした。先程までは楚良の剣幕に警戒していた茶々なのに、今は彼女の方へと鼻先を近づけている。

 一條には彼女を見るより兎を見ている方が、彼女の事を良く知れると思うのは気のせいだろうか。茶々は彼女を案じているし、事実を告げているだけの声色にも思えた彼女を慰めている様にも見えた。


「過去形にしないでくれないかな。これから先も一切無いよ」


 兎の方へと目を下ろしている彼女の方へと近付いて、少しだけ屈めばサチが鼻先を伸ばして茶々のそれへと近づけた。鼻先を合わせる様な仕草は親愛の証、それさえ見れば楚良に笑顔が出るのも容易く理解出来る。

 兎同士の仲が良好でそれを飼い主同士が望んでいる事を、それこそ彼女は一目見れば分かる能力があるのだから。


「それを信用しろと?」

「信用しなくても構わない。僕は彼女の財布に興味はないけど、彼女の住んでる環境を利用してた事に変わりはないからね。今まで散々助けて貰って、彼女の縄張りにお邪魔させて貰って、流石に何も貰ってません利用してませんなんて言わないよ」


 サチが腕の中から身体を伸ばして逃れようとしているのは、多分楚良の頬へと口付けたいからだと一條にも直ぐ分かった。

 楚良がいつもと違う時に傍に寄りたいのは飼い主と同じか、そういう所まで似なくていい。


「彼女はもう成人しているし、一人でちゃんと暮らしてるよ、その彼女が許してくれてるなら僕はそれに従う。親の権限で彼女の交友関係を制限できる時期はもう過ぎたんだって、そう伝えて」

「――――…貴方はお嬢さんの事情は知らないでしょう」

「事情は知らないけど、空木さんにとって事情を知ってる人間より、サチの飼い主だって方が安心できるみたいだから。事情とやらを知るのは彼女が許してくれた時でいいかな」


 双方の腕の中でいっぱいに身体を伸ばして鼻先を付き合わせていた兎達を見つめていた楚良が、自分より高い場所にある一條の顔を見上げて兎を見るときのそれの様にふっと笑みを漏らした。


「よくご存じで」

「僕も充分君に毒されてきたよ」

 本当に。空木楚良という女性を語る時には兎と芸術は絶対に欠かせないし、それを無視するならば生活は破綻しているし頼りなくも見えるだろう。だがその生き方を一條も最近理解できてきたと思う。


 彼女はその2つに本気なだけなのだと。自分の好きな事、興味のある事、人生を賭けたいと思う事、それが好きだと言うだけの話だ。他人に良く見られたいとか、取り繕うだとか、そういう事に欠けている。

 よく言えば素直だし、悪く言えば馬鹿だ。一條はそんな楚良をある意味では尊敬していた。


「お嬢さんは理解して頂ける友人を見つけたと」

「友人…」

「どちらかと言うと、茶々の友人の飼い主だよね」

 嗚呼それだそれがしっくりくるとばかりに兎を抱いたまま手を叩いている楚良に、もう本当に言葉通り、毒されている。


 彼女が一番大切にしているものの傍に居ても良いという許しは、多分何より強いからそれでもいい等と思っている時点で感化されすぎているのは一條も自覚していた。

 だがそれは、言葉通り彼女の中で最も彼女に近い位置なのだろうから。


「刀司さんにはそう伝えて置きます。ママ友が出来たと」

「藤森さんはその顔で言うので冗談か本気か分かりません」

「一番しっくりくるでしょう。ただ、……何かあったらちゃんと刀司さんにもお父上…御爺様にも報告して下さい。以前の様な事は、私もお断りしますよ」


 手をつけていなかったカップの中身を傾けた藤森が二人の様子を見つめて深く溜息を吐き、そして椅子を引いて立ち上がる。

 何が何でも楚良の意思を無視する風ではないと理解出来れば、彼女も少し落ち着いた風に身体を緩めた様だった。兎の目もいつの間にか、うっとりと閉じかけている。


「刀司さんもあの頃より少しは変わりましたよ」

「拗ねて画室に入らないなんて真似する人が変わった様に思えません」

「昔なら私に来させるより自分で来ていたでしょうから」


 楚良が足下へと茶々を下ろせば、何で下ろすのとばかりにショックを受けていた様だったが、直ぐに自分を取り戻して一條に下ろされた兎と二匹纏めて水のあるスペースへと駆けていく。


「貴方も寄越さなくなったら評価して差し上げます。お帰りなら傘を」

「いえ、車がありますので。お借りしたものは送らせて頂きます」

「処分してくれて構わないよ」


 いえ、と、小さく漏らした藤森が緩く首を左右に振った。濡れた髪は下りたままだが、スーツでなくともその冷たげな顔は変わらない。

 慇懃無礼なのか不器用なのか、短い時間では一條にも判断が付きがたい。楚良が一足先に玄関の方へと向かい、リビングの扉を開くのを見ながらカップを片付けようとダイニングテーブルへと近付いた。


「一條と言ったか」

「そうだよ、一條貴之。彼女と同じ会社の、…まあ、同僚かな」

 上着の内側へと一度手を入れて直ぐに先程しまった名刺ケースを取り出す。いつ商売に繋がるか分からないからと、持ち歩きが寧ろ常習化しているそれを取り出し、彼の方へと差し出せば両手で丁寧に取られた。多分自分と同じ様に身に染みついている。


「今、お嬢さんの傍に男がいるのは不安だったが、認められているのならばいい。他のには気をつけておく様に」

「――――今、ってどういうこと」

「必要だと思うならお嬢さんが自分から話すだろうが。…どうしても分からなければ連絡をくれていい。兎では番犬にならんからな」

 犬扱いするのは辞めてくれないかと言おうと思ったが、確かにまだ自分が話してもらっていない事は沢山ある。


 彼女は若いがその生い立ちから複雑な事情があるのは、一條でなくとも羽柴でさえいぶかしがる程だから当然だろうが。

 一條にしてみても楚良や茶々に何かある様な事ならば、手段は多い方がいい。

 名刺を上着に納めようとしたが、普段のスーツと違ったかの様に一瞬手が宙を掻いた藤森が溜息、見つけたポケットの中へと名刺を納めてリビングを去るその背中を見送る。


 サチと茶々が帰る男を見送っていて、多分これは楚良の事も待って居るのだろう。今のうちにカップを片付けてしまおうと、二人分のカップを手にキッチンへと引っ込んだ。


「靴に新聞紙詰めて下さっていたんですね。有り難う御座います」

「まあ、殆ど乾かなかっただろうけど…何だかんだ靴って一番気持ち悪いから。君も旅行から帰って直ぐなのに大変だったね」

「その言葉は一條さんに捧げます。他人の喧嘩に巻き込まれるなんて、一番疲れるでしょうに」


 一條が洗い物をしているのに気付いたのか、楚良が其方へと寄って隣へと立った。カップを手渡してみれば、食洗機の中へと丁寧にそれが納められる。

 身長の高い男に見下ろされれば楚良がその視線に気付いて、何かという風に首を傾げて見上げた。


「落ち込んでる?」


 問いかけられた楚良が彼の言わんとする事に気付いて、小さく喉の奥で息を詰めた。家事を手伝う事は日常的ではあるが、カップ数個など手間にもならないことも知っている。

 旅行帰りに兎を引き取りに来てみればこんな事に巻き込んだだなんて。旅行の最中にも色々と迷惑をかけた自覚しかないから、本当に呆れられても仕方が無い。


「落ち込んでいます…」

 正直に漏らせば横の男が吹き出す声、本当に笑い事ではないのだけれどもとばかりに其方を向いてみればタオルで手を拭っている男は本気で笑っている様で。


「何を笑っているんですか、もう最近一條さんの笑いのツボが分かりません」


 そう言えば父親と会った直後に微妙な気分になっていた時も、分かりやすいという理由で笑われていた事を思い出した。

 今回もそうなのだろうか、確かに分かりやすく落ち込んでいるのは認めざるを得ないし、兎達にもチラチラと見つめられていたのも認める。でも今は多分顔を背けて口元を抑えている一條の方が絶対に注目されていると思った。


「君がサチを構ってる時の茶々ちゃんと同じ顔してるよ」

「的確に微妙な顔の例を出さないで下さい」

 飼い主が別の兎を構っているのは嫌だけれども、相手が仲良しの兎だし、必ず後で撫でてくれるのは分かっているから少しぐらい我慢してやって良いかな。短時間だけ。


 あの時の顔ほど分かりやすくは無いと思うのだけども。


「一條さんは助けてもらっているなんて言いますが、どう考えたって私の方がご迷惑をおかけしている様にしか」

「君は先回りが得意だから気付かないだけだよ。――――そうだな、君がそこまで言うなら、身体で返してもらおうかな」


 はいどうぞとばかりに楚良の方へとタオルを差し出しながら、抜群に女受けのするその顔を僅かに屈めた一條に、楚良が一瞬口元へと拳を置いてからまた瞳を上げた。

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