第18話
窓の外は木々が落ち葉を落としていて、その色の複雑さは自分の好きなものだと思う。
刀司伽藍とは全く逆、無名の現代アーティスト達の作品は館内にまばらに置かれ、人を集める彼の作品とは違って一つ一つの作品の前には誰も立って居なかった。
渡り廊下の縁に静かに置かれた彫刻の前で、楚良はその彫刻の見る先を見つめて息を吐く。本当に、知っていたらこんな場所には来なかったのに。
館内は暖められていて、窓の傍でも秋の気配は忍び寄って来ない。山間にある美術館だから外は会社の辺りよりは寒いだろうかと色付く木々へと瞳を移して目を細めた。
バスへと戻って絵でも描こう、と、溜息を吐き出しながら身を翻す。少なくともこの場所に、自分が今見なければならない物は無い筈だ。
「空木さん、此処にいたんだね」
恐らくメインのホールの方は人が多いだろうからと、その場所を避けて出口の方へと向かおうとした楚良の背中に不意に声が掛かり、ゆるりと振り返ればその長身は探さずとも直ぐに目に入る位置に居た。
秋の景色に溶け込む様な上着と、その長身は本当に映える。いつもの様に僅かな微笑、集合場所に集まった時に女性社員が私服姿の一條に萌えると言っていたか。
見慣れる程度にはプライベートでも親しくさせてもらっていると思えば、其方に申し訳ない気分になる。
「もう見終わったんですか?」
「人に流されてたら余り見られなくて。まあ全部には目を通せたから良いんだけど」
大きな窓は彼の頭より少し高い位置にまで伸びて、本当に額に入る一枚の絵の様に見えた。是非このままのポーズで描かせて頂きたいのだけれども、それこそ他人に何を言われるか分からないので諦める。
せめて写真をと、もぞもぞスマホを出している間に、直ぐに長身が傍まで辿り着いた。
「他の方はまだ中ですか?」
「うん、ろくに見られなかったからもう一周してくるって。陰島とかは物販の方に行ったかな」
この辺には人は殆どいないのに中はそんなに凄いのかと、一瞬だけ美術館の外へと楚良が目を向けたが駐車場とは反対側のせいか殆ど人気は無い。
瞳に入る範囲には木と池だけだと思っていれば、窓に移る一條の姿。額縁に収まる様でやはりこれを逃すのは惜しかった。
「写真を一枚撮っても良いですか?」
「ん?この辺で撮影禁止の物は無かったから大丈夫だと思うよ」
「窓の傍に立って頂ければ」
「――――僕なの?」
彼女がカメラを起動させていて、何事かと思えばそんな事。そう言えば彼女の傍にいるとたまに請われる、絵を描かせて欲しいと。
色々と期待したい所だが、手足のバランスだとか、造作だとか、完全に物に対するそれだったので深く突っ込むのは都度辞めた。
この辺にと言われて窓の傍に立った一條から彼女が数歩離れ、全身が入る様にカメラを向けて小さくそのスマートフォンから音がする。
「窓との対比が完璧です」
「お役に立てて嬉しいよ」
対比が完璧とはどういう事なのだろうかと溜息を吐きたいが、多分熱く語ってくれるので寧ろ辞めておいた。好意を持っている身では空しくなるだけに違い無いから。
撮れた写真を確認している彼女の傍へとまた近付いてその手元を見下ろしながら、先程見た絵の事を思い出す。細い指も、すっきりとした首筋も、全て彼女の物だろうと思うのだけれども、あの顔だけは別物だ。
問いかけようとした一條はしかし、あれを見たことは一生秘めると誓った筈だと思い返す。興味や何かで片付けてしまう事はこの距離を諦める事と同意だ。
「まだ少し時間もあるし、売店でも見にいく?」
「私は特に。でも、一條課長が見にいきたいのでしたらお付き合いしますよ」
私の事は構わず等と彼女が言うかと思えば、楚良は珍しく一條の誘いを断りをしなかった。周りに知っている人間がいないからだろうか、それとも手持ち無沙汰なのだろうか、此処最近の付き合いで一條に過ぎるのはそんな消極的な思いばかりだ。
「此処の物販はユニークな物が多いから、少しは君の目に叶うものがあれば――――」
あれば良いのだけれど、そう言いかけた一條の口はしかしそのまま語尾を消す様にして止まった。売店の方へと身体を向けた楚良が、しかし歩き出さずに止まっていて瞳は前を見据えている。
その姿を見ていて反応の遅れた一條がその視線を辿れば、渡り廊下の先にダークブラウンのロングコートが見えた。まさにロマンスグレーというのが似合いで、白くなった髪を隠しもしていない初老の男性はその上質なコートの端を靡かせながら迷いもせずに二人の方へと歩を進める。
その顔を知らないという二人ではないし、芸術に関わっていなくともその男の顔は知っている。この場所で見るなら最早間違いが無いと一條が息を飲んだその隙に、ぴたりとその革靴は彼女の前で足を止めた。一條など目に入っていないかの様に、間違い無く彼女の前で。
刀司伽藍。今この時も来館者の視線を集める絵を描き続けるその人だった。
「……来て、くれたのだね――――」
「ここに来るとは知らなかったんです。…躊躇無く声を掛けるのは辞めて貰えませんか。特に他に人がいる所では」
僅かな迷い、躊躇、その男が間を持って問いかけた言葉はしかし、楚良の口から零れた言葉に再び黙り込む結果になった。
それは明らかに彼らが既知である証拠。ならばあの絵はやはり関係のある物なのかと、口で商売をしている一條でさえ何を言えば良いのか分からない。
「済まない。お前が来ていると藤森から聞いてだな…、それで」
「私より来館者の方にお会いになれば良いのに。神崎さんはいい顔をしないでしょう」
「神崎とは別れた、お前が出て行って直ぐに」
この会話は何だと一條が思う、まるで浮気か不倫で別れた男女の様ではないか。明らかに歳が合わない、否、もしかしたら年齢など関係無いという話ではないかと。
彼女の視線はやはり合わない。その男とも合っていない。いつしか彼女は窓の方へと身体を向けていた。
「少し話せないか」
「申し訳ありませんが時間が迫っておりますので」
「済まなかった。また行かないでくれ、頼む――――!」
身を翻して出口の方へと向かおうとしたのだろう、彼女の様子に一條が刀司に軽く頭を下げたが追いすがる様な声が響いて彼女が緩やかな動作で振り返る。
膝丈のスカートがふわりと揺れて、また足に沿う様にして戻った。その顔は表情を無くしている様な、少し呆れた様な、僅かだけ含む侮蔑の様な。
「ならば会いに来なければ良かったのに。せめて母に詫びられる様になってからにして下さいませんか」
彼女の口からは主に羽柴相手には冗句の様な罵声は漏れるが、それは相手の許容を見極めたものだ。
少し困った様にしながらも人の頼み事は断らず、他人に対しては感謝の言葉を忘れない様なそんな声色も今は無い。
行きましょうかと彼女が一條に声を掛け、また直ぐに身を翻して歩き出せば躊躇がありながらもそれに逆らう気は一切無かった。
楚良の冷たい声に臆したのかそれとも内容に足が止まったのか、それ以上追いすがる事もなく刀司がその場所に立ち尽くしているのが視界の端。数歩で追いついた彼女の身体に並べばやはりその表情は色を無くしているかの様に見える。
「おい、あれ刀司伽藍だろ!?お前達何か話してたのか」
彼女に何か言葉を探してそ名を呼ぼうとした瞬間に正面から小走りに羽柴が駆けてきていて、その後ろに他の主任や課長達の姿も見える。
人混みから抜け出してきたのだろうか、一瞬だけ其方から視線を外した楚良の顔が歪む。
「絵の感想を聞かれただけだよ」
答えたのは楚良ではなく、何事もなかったかの様に告げた一條に皆が其方へと視線を向けた。
隣に居た彼女さえやや驚いて見えるのは、それが嘘だと彼女にだけは分かった為だろうが、楚良にしてみれば一條が嘘を吐くなんて思わなかったという表情のそれだ。
「仕事に関係する様な事は話さなかったのか?」
「向こうから話しかけてくれたのに此方が仕事だって切り出すのも野暮だしね。わざわざ人気の無い所で話しかけたのは時間も無かったんだろうし」
「嗚呼、くそ、本当にお前らは運がいいな」
彼女はどうだとは言わなかった、羽柴達から芋蔓式に他の人間達も気付いたのか狭い渡り廊下にわっと人が押し寄せてきて、一條がさり気なく楚良の背中に手を添えて出口の方へと促す。
彼女が首を上げ見上げる視線には困惑が含んでいる、勿論それを一條は知っていたがあえて人に囲まれている場所で説明する気もない。
刀司伽藍を見ようと押しかける人並みを抜けて、羽柴達からも隠れる様に建物の外へと出た一條が軽く息を吐き出してその傍らを見下ろせば、彼女の視線は直ぐに逸らされた様だった。
「先にバスに戻っておこうか。何か飲み物が欲しかったら買ってくるよ」
「いえ――――。……」
珍しく歯切れが悪いし、表情も表情だ。彼女が何を迷っているかなんて一條にも手に取る様に分かる、本当にそれはいつもの彼女とは少し違う風に見えてあからさまで、ちょっと可笑しくなってきた。
勿論彼女には不躾だし、怒るだろうと思っているのに唇の端がむずむずする。
「もう、何を笑っているんですか」
「何でも無いよ、珍しく分かりやすい顔してるなって」
「それは何でもなくないです。……どうして羽柴課長に嘘をついたんですか、それこそ仕事に繋がったのに」
駐車場をバスの方へと歩きながらついに笑い始めた一條に、先程まで難しい顔をしていた楚良がつられる様に肩から力を抜いた。彼女から問われたことは予想済みどころか、明らかに顔に書いてあった事だ。
それこそ営業経験がない人間でもあの状況に遭遇すれば分かるだろう。
「君がそれでもいいって言うなら今すぐ名刺を渡してくるけど。そうじゃないでしょ」
それは、と、言いかけた彼女の口がまた続く言葉を無くして静かに閉じた。
楚良にしてみれば、どうして一人の所を狙って声を掛けてくれなかったのか、とでも言いたい気分に違いないだろう。
「君がして欲しい事は何でも言ってくれれば良いけど、君が言いたくない事を言う必要はないよ。これでも隠し事が得意だっていうのは、君も知ってるでしょ」
サチを会社で隠し通してきた彼である、その意図を直ぐに悟った彼女が一度美術館の方へと瞳を向けて、そしてまた一條の方へと瞳を戻した。
「…同情を、買うつもりではありませんでした」
「君がそういう人間じゃないのは分かってるつもりだけど」
「こんな風にご迷惑をおかけするつもりではありませんでしたし、気を遣って頂くのも申し訳ないと」
彼女は詳しく話せない立場にあるんだろうと適当に一條が辺りを付ける。もしかしたらそれこそ本当に、年の差があれだけあるのだし男女の関係を隠しているのかと過ぎって、胸の辺りが痛むとしても。
「それが嫌だとか迷惑だとか、僕が言った覚えはないけどね」
「流石に御本人の口からは漏れないかと」
「君、また誰かから何か言われたの?」
そういうわけでは、と、彼女がまた口から零してその言葉の前の間を悟った。丁寧に噂の元も潰したと思っていたが次は羽柴と噂になって、彼女を直接取り囲む様な輩が一人残らず消えたかと言われれば怪しい。
「可哀想なフリで同情引いてるとか言われたの?」
「見てきたかの様ですね!?」
「言われたんだ」
「甘えすぎていたのは反省しています」
バスの傍には運転手が立って居たが、二人が帰ってきたと分かればドアを開けてくれてエンジンの切れたバスへと二人が乗り込む。
彼女は奥の席にいたのを乗り込む時に見ていたから、自分の席から真新しいペットボトルを取って其方へと向かった。
「甘えすぎてるって、君に甘えられた覚えが僕には無いんだけど」
隣へと座りながらその姿を見下ろし、本当に彼女に色々な事を吹き込むのは辞めて欲しいと思う、羽柴には勘ぐられるし彼女には未だに泊まりに来る兎の付属物の扱いだし、このまま放っておいて自分がどこかで強引な手に出そうな未来しか見えない。
あの程度で甘えて居るなんて自覚を持たれては本当に困るし、自分の立場でいえば分かりやすい形でやってくれまいか、位には思っている。
「君がそのうち誰かに唆されて、もうサチを茶々ちゃんに会わせないとか言い出さないかと本当に心配だよ」
「認識を改めておきます」
兎を引き合いに出せば少し迷ってはいたものの、また肯定を表して頷いた様だった。バスの後部座席、彼女の視線は窓の外へと流れて小さく息を吐く。
はい、とペットボトルを差し出せば先程よりも間を置かずに礼が零れた。
「――――……父です」
彼女がペットボトルの蓋を開いて、そして一口飲む間ずっと沈黙が落ちていた。彼女が落ち着いてくれるなら深く事情など聞かなくても良いと思っていた一條の耳に、肉体関係ではなく肉親関係を表す言葉が響いて、隣へと目を下ろす。
今、何と。
「父親?」
「そうです。…刀司伽藍は雅号で、本名は空木御津臣と言います」
「お父さんだったんだ…」
「年齢的には祖父でも通りますが父です」
そっちじゃなくて、等とは一條の口からは零れない。そうか父だったんだと本気で安堵している一條がまさか恋人関係を疑っていた等と露とも思わず、楚良は流石に年齢が外れすぎだったのは理解するとばかりに繰り返す。
「………一條さんは…」
いつしか彼女の呼ぶ声が、休日や会社を離れた時のそれになっている。ん?と近い距離を見下ろせば、腕の触れそうな近い距離で一條を見上げて居た。
「どうして私の言葉を嘘だと思わないのでしょうか。刀司伽藍はプライベートは隠してきた人です、…親子の証拠も示して無いのに」
「嘘なの?」
「いえ、…嘘ではありませんが」
実はやはり愛人だったという方向を案じて問いかけてはみたが、彼女は首を左右に振った。流石にあの状況を見て他人だとは一條でなくとも思わない。
だというのに、彼女は自分の言葉が信じられないと告げているのか。確かに急に言われて見れば疑う人間もいるだろうが、正直疑う様な要素は無いと思っている。
それをまるで信じられないものの様に彼女が言うのが、寧ろ彼にとっては不思議だった。
「家族の問題はデリケートだから、言いたいときに言いたい人間に言えば良いんだよ」
気を遣ってくれていると言った手前、彼女が本当は黙り込みたい所を無理矢理に喋っているのではないだろうかと思う。
本当に偶然にあの場所であんな出会い方をしたというショックの方が大きいのかもしれないと。
「…知られたくありませんでした。皆、――――…前の様には、接してくれなくなるので…」
とかく彼は有名人で、時折資産について話される事もある。そういう目的で彼女に近付いた人間が皆無だったとは確かに思えない。皆というなら本当に皆なのか、彼女の年齢を考えれば確かに刀司伽藍という名を聞いて若い男女が熱を帯びるのも仕方が無いかもしれない。
あの時躊躇無く声を掛けるなと言っていたのは、その経験のせいなのだろう。
「兎も居ないし、初旅行なのに父に会うし、踏んだり蹴ったりです」
「知らなかったとは言え、よかれと思って僕も勧めた口だから、本当にごめんね。次は茶々ちゃんとサチも連れて楽しめる所に行こうか」
「一條さんのせいではありません。自分の運のなさが悲しいです。こういう時に兎をもふもふしないと元気が出ません」
本当にペット付きのプランなら彼女も頷いてくれるだろうかなんて、そんな餌で釣るのはどうかと思っていた一條に彼女の手が宙を掻く。
エアもふもふは初めて見たなと思えば、まだ初日の午前中だというのに末期なのか。
「僕をもふもふしてみる?」
問いかけてみれば彼女が一條の方へと視線を向けて、そして徐に髪の中へと両手を差し入れた。
「毛質が固いです……」
「残念」
正直彼女から触れられたのは初めてではないだろうか、しかも両手でがっつりと。ただでさえ距離が近いというのに、さらに近付いて頭を捕まれれば心臓が跳ねる。
「でも我慢出来なくなったらまたもふらせて下さい」
「人前では辞めておこうか」
「誰も見てなかったら良いんですか?」
「勿論良いよ。僕も君のお腹の匂いでも嗅がせて貰おうかな」
「流石に素材も匂いも違い過ぎるかと思いますが」
毛皮が恋しいですとその不埒な願いは彼女にさらりと流されて、やっと彼女の両手が離れて目の前のスケッチブックの方へと戻された。彼女をひっくり返してその肌に顔を寄せるなんて、想像するだけで危険な気分になるので流されておいた方が良い。
「君が心配しなくても、サチはいつでも連れて行くよ」
スケッチブックに何を描こうか珍しく迷っているのか、普段直ぐに動き出す手は白紙の前で止まっている様で、瞳が外を眺めていた。
声を掛けてみれば外から中へ、その黒い瞳が一條を見上げて小さく唇に笑みを浮かべる。
「それを許して頂けて、本当に嬉しいです」
いつだって彼女から歩み寄って来る事はない、ただひたすらに一條の方が許されている様なそんな気さえする。彼女は許しなどと言うが、こうして口に出さなければ彼女はいつまで経っても会いたいなんて言い出さない。
こんな風に安堵したかの様な表情を浮かべるのに、何故だろうかと一條は思った。
早く席を立たなければまた二人で居るだの何だの言われてしまうのに離れがたくしていれば、彼女がスマートフォンを無言で差し出す。
何と思えばリビングを映したカメラの映像で、相変わらず無類の兎好きとしか思われていないとよく分かった。
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