第17話

「お前は本当に仕事と兎にしか興味ないな」

「隣に来るやいなやディスらないでくれませんか。大体美術館がオプショナルに含まれてるなんて聞いてないんですが」


 バスの一番後部座席の窓側、誰も隣に座っていないのを良い事にスケッチブックを広げていれば、その端が邪魔だとばかりに上げられて横に上司が滑り込んできた。

 その口が紡いだ言葉には溜息、そして瞳がやっと羽柴の方へと向く。


「デザイン会社の研修で行くのには別に不自然じゃないだろ」

「全員じゃなくて希望者だけだと聞きました、バスもスカスカじゃないですか。…希望した覚えも無いんですが?」

「主任以上は強制だからな」

「いつから私は主任になったんですかね?」

「新人教育も含めて」

「他の部署の新人は来てないみたいですが?」


 本当にこの人は調子が良すぎる、どうせ暇つぶしに連れて来ただけだろうと言いたげな楚良が、直ぐに溜息を吐いて座席前方のネットに入れてあった筆箱から色鉛筆を一つ抜き出した。

 どうせ羽柴には何を言っても通用しないし通じない。


「こういうのもデジタルにすればどうだ?タブレットなら簡単だし場所も取らないだろ」

「此方の方が集中できます。本当なら絵は全てキャンバスに向かいたい所ですが、それこそ手間が鰻登りなので」

 彼女が今紙に写し取っているのは紅葉の森だろうか、温泉宿は樹木に囲まれていて、落ち葉が堆く積もっていたから楚良の感性を刺激した。


 一條が環境が変わると書きたくなるかもと言って一式詰めてくれたのに本当に感謝をしているし、実際その通りになった。あの日、鞄から何からリストアップしたのは彼だし、服や小物に至るまでお任せしたのは楚良だ。服もさらりとアドバイスをする辺り、本当に女性の扱いに慣れているのだろうと思う。

 楚良が自分で考えた事なんてそれこそ絵の媒体を水彩にするか色鉛筆にするか程度で、人が自分をどう見てどう感じるかなんて分からないから殆ど言われるがまま。必要がないと思う物は僕が出すよなんて言われたが、正直彼の財布を傷ませる訳にはならないので理由を聞いた上でそれらは全てカードでのお支払いである。


 サチは今頃茶々と仲良く過ごしているのに違いない。その様を見たいというのに、スマホの遠隔カメラで確認するというのが精一杯なのが悲しすぎる。


「しかし、本当に見違えるな。普段からその格好で良いだろ」

「出会った瞬間にセクハラされたので今回限りです」

「いやあれは確かに悪かった」


 いつも身体の線が出ない様な衣服を好んで着ている彼女だし、淡い色の服を着ている事が多いのだけれども、今日は黒がメインのノーカラーだし何より上半身がぴたりと肌に沿う様な服だ。

 見事な曲線は服の上からでも分かるし、ウエストで絞られた秋用のコートを羽織っても分かるその姿を見た瞬間、羽柴が正直に君の身体はエロかったんだななんて口に出してしまったのは許さないし許されない。

 鳴海がノータイムで弁慶の泣き所に蹴りを入れていて、羽柴がその場所に蹲っていたのであえて楚良が何かするまでもなかったが。


「私も旅館でゆっくりしたかったです。温泉街の酒饅頭も美味しそうでした」

「お前はそっちより絵の方が喜ぶと思うだろ?俺が言い出したのはそうだが、一條もどうせならって言ってたしな」

「一條課長が」

「鳴海と一條がそうだっつーなら俺が断るのは無いだろ」


 一応あの飲み会以来、不用意に課長や主任の中には入らない様に課長2人が上手く予定を調整しているのは知っているし、有り難く楚良も従っている。

 Chevalierの打ち合わせもできる限り会議室ではなく席でとか、オープンな場所で等に変更したが何故か一條との事は下火なのに羽柴との噂になっている事に納得がいかない。

 さっさと別の人が現れて欲しいのだけれども、新人というのはどうしてもそういう対象になりがちだから諦めろとか言われて本当に悲しい。すっかり楚良のイメージが男の間を漂う人間になってしまった。


「お前は絵画の方に興味はないのか?」

「興味がない訳ではありませんが…」

「何だ歯切れが悪いな。刀司伽藍が嫌いなのか?生きてる日本人画家の中じゃかなり評価を受けてる方だろ」


 ほら、とばかりにどこから取り出したのか、羽柴が美術館のパンフレットらしい細長い三つ折りの紙を取り出した。

 それを横目で見やった彼女が、また色鉛筆の色を変えて落ち葉に色を入れ始める。


「私は一人の絵より沢山の人の絵を見たいんです。あの美術館は8割彼の絵ですからね、心が躍りません」

「そう言ってくれるなよ、建物も内装もしっかり作ってあるからそっちも見てくれ」

「羽柴課長がでも作ったんですか?」

「年齢が合わんだろどう考えても。まあ俺の知り合いだ、多分お前の目に叶う」


 左様ですかと彼女が頷いてからまた色鉛筆を交換した。この反応だし一度行ったことがある系統かと思ったが、多分気乗りがしないという方が正しく感じる。

 彼女からは刀司伽藍が嫌いかどうか、という返事は返ってきていない事に気付いて軽く羽柴が瞬いた。


「なあ、お前」

「何ですか。――――中では自由行動で良いんですよね?」


 問いかけようとしたその言葉が止まったバスに途切れて、色鉛筆とスケッチブックを前の籠に差し入れた彼女がまた軽く溜息を吐く。

 早く下りて下さいとばかりにぐいぐいと楚良に肩を押されて羽柴が立ち上がり、皆が下りる一番最後に楚良が下りた。


「バス、酔わなかった?」

「乗り物にはそこそこ強い方です、営業部の方も乗っていたんですね」

 バスの外には本当に数人だが人影がいて、その中でも一際背丈の高い一條から声を掛けられれば瞳が向く。

 楚良は一番後ろへと羽柴に最初に押し込まれた口で、誰が乗っているか等把握できても居なかった。そう言えば主任以上どうこう聞いた気がする。


「主任以上はみんな来てるよ。初公開の絵もあるって言うから楽しみにしてる」

「そう言えばそんな事を…」

 スニーカーではなく珍しく革靴の彼女はいつもよりは少し背丈が高く見えるが、それでも一條からしてみればつむじの見える距離だ。


「それが空木は気乗りしないらしいぞ」

「――――えっ、そうなの?嫌いだった?」

「そういう暴露をしていくのを辞めてください、刀司伽藍に失礼ですよ」


 羽柴が後ろから声を掛けてもやはり決定的な答えは返って来ない。バスの添乗員が皆にチケットを渡して行くのも直ぐに終わる人数で、彼女が一度それを見下ろして裏も確かめて居た。


「私は外から見てきますね」

「集合時間は覚えてるよな?建物からは離れるなよ」

「修学旅行生の扱いを受けた気がしました。ごゆっくり」


 僕もと言いかけた一條の上着の襟が羽柴に捕まれて、長身が蹈鞴を踏んだが彼女は背中でそれを見る事は無いだろう。

「お前旅行だからって別部署の部下に構うなよ」

「上司ばかりの中に一人で居るのは可哀想かなって」

「だったらお前がまず距離を置けよ。空木じゃなくて自分の部下を構ってやったらどうだ?」

「僕の部下って陰島ぐらいしか居ないんだけど」


 今の話じゃないと溜息を吐いた羽柴に連れられて、白を基調に作られた建物の入り口から入れば、中もやはりモダンな作りをしていた。存命の画家の絵を多数扱う美術館とだけあって、古臭くは感じない。それでもどこか懐かしい様な気がするのは、柔らかな照明のせいだろうか。


 この仕事に関わるからには勿論絵画や彫刻を含めて、芸術全てに興味が無いとは勿論言わない。建築内装まで手がける大手会社だ、手広く色々な分野に手を出している刀司伽藍の名前も勿論知っていた。

 齢はもうすぐ60だと聞いたか、30代頃から名前を知られる様になった彼は今や押しも押されぬ牙城を築いた画家だ。もしかしたら彼女にはその有名さが寧ろ倦厭する原因になるのだろうかと、一度一條がチケットへと目を下ろした。


 羽柴には間違っても言えないが、彼女の寝室には刀司伽藍の画集もあったし、見るのも嫌な程に嫌ってはいないと思うから、羽柴がどうかと言った時に悪くないのではと勧めたのだけれども。


「案外画風が合わないのかも知れないけどな」

「――――ん?何が?」

「空木だ。刀司伽藍は反対色を多用する画家だろ?」

 告げられた言葉に入り口辺りの絵へと瞳を向けた一條が、そのはっきりとした色の対比に瞳を細める。

 反対色とはまさにこの絵の様に、色相環で色を見た時に反対にある色の事だ。赤ならば緑、青ならば黄色。料理の見栄えもこれが基本になるから一條には好みの画法だった。


「空木は補色を多用していくタイプだからな。淡い色も好みでどうしても絵面は柔らかくなる。子供や女には抜群に受ける絵を描くんだが」

「でもChevalierは――――…」

「あれは寧ろあえて分類するなら得意な方だ。そもそも補色ってのは混ぜればグレー、印刷用の不透明なインクだと黒に近付いて行くからな。普段混ぜずに色を乗せる所を混ぜ馴染ませて、体臭に馴染む香水をあえて印刷限定で表現するなんてのは流石に俺もイメージ外だぞ」


 美術館の中には人が多くて、珍しくざわついた雰囲気があった。それが故に声を潜めれば会話も許されるかと、羽柴と一條が話している後ろで鳴海や陰島が絵を眺めている。


「商売で扱うなら断然反対色の方が目を惹く。補色ってのは印象に残りにくいからな、空木みたいなのが1人いると他の奴が苦手な事を任せられるから、その分全員が自由に動ける。ま、反対色も描けない訳じゃないから便利なんだが」


 やはり羽柴の言葉は彼女を賞賛する物、苦手なものは彼も理解しているしそれを冗談交じりに話のネタにする事はあるが、褒めるときはその10倍は褒める。

 こういう所が彼が若くしてデザイン課の上司に収まる事になった所以だが、未だに営業に未練があるというのを最後に聞いたのはいつだっただろうか。


「鳴海がその点群を抜いて上手いからな、あの2人が組んでる限りは隙もないだろ」

 安心しろよなんて言われてその名の男を捜してみれば、じっと静かに絵を見つめている。


 Chevalierに関しては能力というより得手不得手がはっきりと出たと思う、そう言う意味で羽柴は上手く組織に必要な人物を拾ってきたのだろう。

 自分もそろそろ人を増やさなければならない段階に入っているが、彼の様には組織を掌握しきれては居ない。


「羽柴は刀司伽藍の画風は好きなの?」

「嗚呼、好みだな。画風もそうだが、一気にのし上がって馬鹿みたいに売れた癖に未だに信じられない量の絵を描いてる所も嫌いじゃない。とやかく言う輩も居るが、俺は今の絵の方が好きだな、今回発表された四季って奴の今までのシリーズは両手で足りないぐらいには見にいってる」

「確か、秋だけ未発表だったんだよね?」

「そうだ。春は赤子の男女に光と名付け、夏は青年に海と名付けた、そして冬は眠る老夫婦に大地と副題が付いてる。恐らく秋は妙齢の女性で空か雲、宇宙か何かだろうと言われてずっと噂にはなってたが。実際女の絵だと聞いてるがマスコミには一切露出もないし、あの絵だけは撮影禁止だ」


 ほらあれだ、と、美術館の中でも奥の方。人が固まっているのを見てみれば、一條の身長でさえその絵は見えない位置にある。


 それでもその場所だけは驚く程静まりかえっていて、誰もが言葉を失っているかの様でもあった。

 行くぞと羽柴に声を掛けられて其方へと向かう。

 人の波に流される様に他の絵を見ながらその絵の前に辿り着いて、やっと見られるとその絵へと視線を向けたその直後、一條の口からは溜息の様な言葉が漏れた。


「――――――――は…」


 その声は静寂の中では意外に大きく響いて、周り中の人間が迷惑そうに一條を見つめるのに思わず黙礼して口元を抑えた。

 照明の中、然程大きく描かれた絵ではない。どちらかと言うとそれは実際の人の大きさに近い。


 どうかしたのかと羽柴が眉を寄せて一條を見つめて居るが、それに答える様な余裕はその時の一條からは失われていた。

 彼はその絵をもう既に1度は見ている。

 否、正確にはその首から下だけだ。


 そこにあった絵は楚良の寝室に伏せてあった絵。その女の顔は全く違う他人のものになっている。

 それでも間違いないとはっきり分かる、構図は全く同じだし色の載せ方も全てあの絵と同じもの、肢体の美しさもそれが浮かび上がる様な描き方も、布の皺一つでさえ。


 未公開作を彼女は知っていて勉学のために模倣でもしたのか、それにしたって顔を自分の物にする理由もない。皆が溜息を漏らす様なその絵も、あの身体はまさに彼女のものだ、服を選ぶ時に幾つか見繕っただけでも分かる驚く程整った形。



 秋。副題は空。嗚呼その響きも同じ物だと絶句した一條の前で、その絵は静かに皆の視線を集め続けた。


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