第42話

「なあ、空木。お前一條課長の彼女って誰か知ってる?」

「――――……何で私に聞くんでしょうかね」

「お前なら知ってそうだから?」


 何故だ、と、考えながら楚良が手元にあった暖かい日本茶を両手で支える様に取れば、真横から肺の中が空になるのではないだろうかと思う様な溜息が漏れた。

 その溜息が自分宛のものかどうか確認したい所だが、いつも無口の鳴海の口から漏れたものだから聞いたとしても答え等返ってこないだろう。


 目の前に珍しく社員達が座っていて、ううん、と楚良が小さく唸って助けを求める様に横を向いたが寧ろもう一度鳴海から溜息が返ってきただけだった。

 丁度おやつの時間、久々に社食に行くらしく席を立った鳴海に仕事の打ち合わせがてら着いてきたのが悪かったのだろうか、社食には遅い昼食を取っている社員達が案外多くて、その中に巻き込まれる形で相席になったのは企画課やら法務課やらその辺りだろう。

 営業課の社員は皆営業先に散っている時間、そろそろ帰ってくる時間ではあるが。


「何か最近色気凄いじゃん?」

 制服を着ている女性社員にそう告げられれば、いろけ、と楚良が何となく繰り返す。糖分が脳に足りないらしい鳴海が横で三段のホットケーキを食べていて、自分もお茶ではなく食に逃げれば良かったと思った。


「あれは絶対女でしょ。空木は営業と仲良いでしょ?水島とかなの?」

「や、水島は一條課長本人は否定してるって聞いたんだけど」

「えー、水島本人は否定してないってよ。最近また良く一緒にいるじゃん」

「あれはクリスマスまでに決めたい流れだよね」


 営業課長の色気が増したとか、元々そう言う評価を受けやすい人だし、滅法モテるというのは空木にしてみてもよく知っている。色気が増したなんて言われても、元からあったのでは、と思うしかない。


「でも元々定時帰りの方ですし、――――できたというよりいたのでは」

 特に可愛い赤毛の彼女が。


 この間リビングでジャンクフード片手に映画を見ていたつもりが眠りこけていた日があったが、珍しく朝まで一度も目を覚まさなかった。耳慣れないアラームの音が至近距離から聞こえて何かと思えば彼のスマホで、同じベッドで眠っていてどうしたことだろうかと思う前に、兎可愛いと寝起きの頭で現実逃避をしておいた。


 寝起きにあの顔は兎の尻よりは刺激的だなと思うが、一條は一條で暖かかったから良く眠れた等と言っていた。女性になれた人は同衾なんて最早気にさえしないんだろうか、人間2人と兎2匹ではほんとうにぎゅうぎゅう詰めで、軽く二度寝を求めたいぐらいにはショックだったというのに。

 兎の為に温度を絞っているからこの季節では毛布も布団も嬉しい温度で、確かに押しくら饅頭状態は暖かかったのかもしれないが、だからって皆で寝なくても良いじゃないか。


「手に入らない物に焦がれてるんだろ」

「――――鳴海も言うねえ」

 彼に似合わない詩的な言葉が聞こえてくれば、意外そうな視線は一瞬、また皆が誰がどうので盛り上がっている。


 いつもなら二度寝でもしたい位のショックだったのに、本当に彼は全く普段とは変わらない様子で起きて洗面所の方へと行っていた。枯れているかとか相手にその気がないとか自分がどうだと言っても、男性として魅力がない訳ではない。とりあえずモデルでも頼んで絵でも描こうと心に決めて起きながら珈琲を入れていた所に、また一條が戻って来てパンと卵を焼いてくれた。


 女性としての僥倖を感謝しておくべきなんだろうかと考えていた様子を訝しがったらしい一條にどうしたのかと聞かれ、他の女性に申し訳ないと正直に思うところを告げてみたら、とても呆れた顔をされた上に、他の女性は兎まみれで一緒に寝てくれないでしょ、という言葉が聞こえた。そういえばイケメンには残念な人が多いのを思い出したのだ。

 朝っぱらからサチの腹の匂いを嗅いでいたその人だが、その後も一緒に暮らしていればそういう事は本当に溢れていて、その手の緊張感のせいで色気と言われるものが増しているのではないだろうかと思う。申し訳無くて悲しい。


「でも空木さ、お前慰安旅行の時一條課長と一緒にいたじゃん。飲みの後」

「――――酔って眠った私を部屋まで運んで連れて行ってくれた時ですね」

「いや、お前起きてたよ。起きて歩いてた」

「え、そんな筈ないです。…眠ってた、と」


 ぐっすり眠っていたと一條には聞いている。なのに起きて歩いていたというのは何事か、しかも起きて歩いていたのに一條と一緒にいたとはどういう事なのか。

 やっぱり酔って迷惑を掛けていたのではないかと、机に突っ伏したい気分になる。


「覚えてない?」

「――――覚えていません…」

「じゃあうちの子が見たのって……マジなのかも」

「マジって何だよ」


 これ以上何をやらかしたんだとばかりに、口元を抑えて悩む様な表情を見せている女性社員の方へと縋る様な視線を向けてみれば、箸を片手にしていたその社員が一度箸を置いた。

 何だ何だと周りの男性社員が身を乗り出す。もう悪い予感しかしない、逃げだそうかとそろっと腰を上げた瞬間隣の鳴海に肩を押さえられた。

 パンケーキに集中しておいて欲しかった。


「やー。その子も酔ってたから見間違えかもって言ってたんだけど、階段下りてた時に見たらしいんだけどね。一條課長と空木が宴会の後あたりにエレベーターホールの端っこでキスしてたとかいうあれよ」


「――――――――は?」

「え、マジか空木。…ほんと?」


 ほんと、と言われても困る。此方が、は?と言いたいし、もう絶対あり得ないとぶるぶると犬の様に首を振った。

「いや、無いです。覚えてませんし、一條課長にもそんな事言われた覚えは…」

「覚えてないならあるかもじゃん?」


「もしそれが本当なら、一條が、だがな」


 覚えてなくても絶対にないとばかりに、また黒髪が左右に揺れる中でまた隣から声が聞こえて何だとばかりに楚良と皆の視線が鳴海の方へと向く。

 間抜けに口が開いていたのだろうか、直後に口の中に甘い物を突っ込まれて反射的に咀嚼。これはパンケーキだ。


「どういう意味だよ鳴海」

 立場的に下の社員もいれば、呼び捨てにするなら同期の人間もいたのだろうか。楚良の口の中にパンケーキを残したままでフォークを抜いた鳴海が、軽く肩を上下させ口から溜息を吐き出した。


「宴会後なら酔っていたのは空木の方で、一條は殆どシラフだ。その上この背丈でどうやって空木から仕掛けるんだ」


 後ろから手を伸ばした鳴海が楚良の頭を片手で掴み、軽く揺すってみせる。口の中のパンケーキを飲み込むまでは喋れない。揺れれば揺れる程舌を噛む可能性が上がる。

 その言葉を聞いた皆が眉を顰めて黙り込むのに是非同意したい。自分が酔って兎と間違えた等という可能性はなきにしもあらずだが、頬になら兎も角口には病気の事もあるし絶対やらない、そうではないなら向こうから仕掛けられる理由がないから成立しない。


「無いですね。大体一條課長が嘘吐く理由も無いです」


 やっと飲み込めたと口の中身を喉の奥へと消し去ってから、楚良が溜息の様にそう告げて隣の鳴海の方へと目を向けてからまた茶の方へと手を伸ばす。


「いや、あるだろ」

「あるね。一つだけあるね?」

「ある」


「え、何があるのですか。知っているなら教えて下さい」

 少なくとも今までは皆が此処で楚良と同じ様に、隠す理由なんて無いという様な結論になって終わっていたと思う。

 何故自分以外が皆知った顔で此方を見ているのかが分からないと、楚良湯飲みを両手に首を傾げれば何やら皆に溜息を吐かれた。


「一條がお前に惚れてる」

「――――……一体何を言い出すんですか鳴海主任」


 もうこの話は終わりですと言おうとした矢先に再び隣から声、思わず其方を向いたまま凝固した楚良が二度瞬いて首を緩やかに振る。

 どう考えたって一條に恋愛感情なんて無いだろう、大体その対象が自分だというのなら前提にさえならないと楚良が溜息を吐いた。


「もしその情報が本当ならな」

「可能性が0の情報に賭けないで下さいよ。一條課長が可哀想です」

「可能性は0じゃないでしょ?」

「最近空木ならあるかもって思ってきたんだよなあ」

「いや、そういう予想は辞めてください。本当に一條課長に失礼ですよ」


 また彼女の髪が左右に振られて重ねてその意見を否定する。口の中の甘みを暖かな茶で洗い流した楚良が再び皆の方へと向けば何でだよとばかりに視線を向けられている。何でそうなったかは楚良の方がお聞きしたい。


「大体本当にそうなら、私相手に想いも告げられずに酔った勢いでキスした上に、それを隠しているチキンじゃないですか」


 楚良の告げた言葉に目の前に居る社員達と鳴海が同時に吹き出して、もう汚いですとばかりに楚良がテーブル端におかれてあった紙ナフキンを中央へと寄せた。

 皆がそれぞれ1枚ずつそれを取ってついでに手元も吹いておく。


「それこそ、そう言うお誘いも受けた事はありませんし、そんな素振りもありません。相手が絶世の美女なら兎も角、何を躊躇する必要があるんですか」

 本当にそれこそ二人で眠った事さえあるが動揺した楚良よりは余程普通だ。あれはそうだ、兎か何かにしか思われていないのに違いがない。

 そうでなければもっとこう、異性に対するあれこれ等がある筈である。


「本当にねぇの?それとなくでも」

「それとなくって例えばどんな事です?」

「そーだな…。まあ一條課長って慣れてる感あるし、お前二人で飯とか行かねぇの?」

「二人でご飯ってそんなに難易度高いですかね」

「あー。うっちーはChevalierあるもんな…」


 その呼び方は何故か慰安旅行辺りから広まったが、会社でも呼ばれるのか。殆ど毎日二人で食事はしているが、それはまあルームシェア状態ならば仕方がないし、それ以外でというと彼らが言うとおりだ。


 稀に日下部に呼び出されて向こうの会社で打ち合わせをした後などは大抵何か食べて帰るし、そもそも食事時間に打ち合わせが出来ないなら楚良の時間は圧倒的に足りない。

 Chevalierは絶対に落とせない仕事だから営業との連携は必須だし、デスクや会議室でもどちらかが食事をしながらという事が多いのは最早社内でも有名になってきた。


「休日誘われたりとかは?」

「無いです」

「休日が無い」

 言い切った楚良に横から鳴海が付け足して、嗚呼、等と哀れげな声で他の課の従業員に言葉少なく同情された。


「用もないのに呼び出されたりとかさ」

「そんな時間の使い方したら羽柴課長に殺されます。私が」

「これだからデザイン課は!」

 何故か部署全体を貶められて納得が行かない。みんな仕事に熱心なだけだ、ちょっと仕事が詰まると見境がなくなる人間が揃って居るだけだから。


「諦めろ。どちらにしろ遊びに付き合ってる暇がない」


 最後の一切れにテーブルに備え付けられていた珈琲用の砂糖をかけて口の中に放り込んだ鳴海が発した言葉に、楚良がやっと食事が終わったのかと自分も残りの茶を喉の奥へと流し込んだ。


「あ、なんか今月すごいんだって?一條課長」

「デザ課を殺す気だろうな、あれは」

「ご自分で資料を集めている間はまだ生き残れる気がします」


 本当に何のスイッチが入ったのか、今月の彼は異常なペースで仕事を取っていると思う。

 そうでなければ楚良は食事に席を立つ鳴海を邪魔しようなどとは思って居なかったが、なんだかどちらにしても仕事の話は進まなかった気がする。

 こんな事ならデスクでちゃんとしておけば良かったと思うが、一口食べさせられたパンケーキのおかげで今日一日脳みそはちゃんと動きそうだ。

 立ち上がる鳴海に合わせて楚良も立ち上がり、丁寧に一緒のテーブルにいた社員達には頭を下げておいた。


「空木、なんか分かったら教えてね」

「うっちー死ぬなー」

「鳴海も頑張れよ」


 みんな好き好きに声を掛けてくれているが絶対あれは楽しんでいる人達の声だったので、挨拶もせず去って行く鳴海の代わりに手をひらひらと振るだけで答えもなく。

 その長身の背中について返却口に湯飲みを返した。そろそろ営業も返ってくる時間だろうから、いつまでもお茶という訳にもいかない。


「お前、今のいつ頃終わる?」

「2時間で終わります。あとはいつもの推敲分が」

「いいペースだな」


 珍しく直接褒められた言葉に、何やら嬉しくなってエレベーターへと向かうその背中へと続く。珍しく彼が沢山喋っていたと思うが、どうせあれだけ喋るのなら仕事の話が良かった。

 エレベーターに乗り込んでオフィスの入っている階のボタンを押し、一度スマートフォンを取り出して兎の様子を確認しておく。デスクに戻ればPCから視線を外す時間さえ惜しいから、この辺は確認しておかなければ。

 目的階に着くまでのその一瞬で問題が無いかを確認し、歩きスマホは危険なので扉が開くと同時にそれを片付けながら、目的の扉の方へ。


「―――――――っから、どうして直接交渉するのが駄目なんです!!」


 扉のロックを外して鳴海がまずその中へと入ったその戸の合間から、怒鳴り声と言って差し支えのない激しい声が聞こえ、一瞬だけ楚良が足を止めた。

 部屋の中は静まり返り、皆が其方へと視線を向ければ直ぐに営業部の一角だと分かる。

 鳴海が楚良の肩を叩いて促し、その後に続いて楚良が自分の席へと歩き出した。


「ミーティングルームに行こうか」

「聞かれて不味い事なんて言ってませんが」


 声の出所は一條席の隣に立つ勅使河原。座っている一條を見下ろしたその顔が怒りを露わにしているが、それに怯んだ様子もなく一條が手元の黒い手帳を取って立ち上がった。

 お互い立ってしまえば一條の方が目線が上、皆の視線を集めているのも承知の上だろう。


「皆の集中が切れるから。行くよ」

 先に歩き出した一條の背中を勅使河原の瞳がねめつけ、それでもそれ以上その場所で言葉を紡ぐのを避けたのか、何も持たずに勅使河原がその後ろへと続く。ガラス張りとはいえ機密を扱う部署ならば、ミーティングルームの中に入って扉を閉めてしまえば声が届かない。


「怖ぇな」

「全然怖がっていませんよね、寧ろ頬が緩んでますよ」

 席へと着けば隣にいた羽柴から声が掛かり、流石に彼も怒鳴り声など気にするのかと思って瞳を向ければ、頬杖を突いて楽しげに去った方を見やっていた。


「一條に食ってかかるとか滅多に無いぞ?」

「せめてもう1ターンぐらいは怖がってる風を取り繕ってくれませんかね」


 割って入りたいとか同席したいとか顔に書いてあるのはともかく、一條は大丈夫だろうかと遠いミーティングルームを伺ってみたが、顔の僅かに見える一條は腕を組んでその話を聞いている様で、口は開いていない。


「こりゃ向こうは進まないな」

「然程長くならないのでは?終礼もありますし」

「どうだろうな、一條に怒鳴った奴なんて今までいなかっただろ?」

「珍しいっすね、あそこまでヒートアップさせるの」

「させる、んですか?」


 羽柴の言葉に応える様に隣の席にいた社員が告げれば、不思議そうに楚良の瞳が其方を向いた。

「普通はあそこまで怒る前に相手がトーンダウンしてるんだよ」

「流石ですねそれは…」


 もう一度ミーティングルームの方へと視線を向ければ勅使河原の身振り手振りは大きい物の、一條の方は全く動じていない様に見えた。

 正直とてもではないがあの男と二人きりというのは、楚良にしてみればガラス張りと言えどお断りだ。聞こえてさえいなければ、何を言い出すか分からない。


 二人の行方を気にしている訳にはならない仕事だとその途中で思い出して、羽柴と社員の会話を聞きながらPCの方へと視線を戻した。簡単に書いたラフは絵にしてみれば会社のイメージと合わず、他のモチーフを探してデスク周りを視線が動く。

 これだろうかと観葉植物をつんつん叩き、跳ね返ってくるその動きにまたペンを紙へと落とす。


 どの位経ったのだろうかまた部屋の中がざわめいて、目を上げれば二人が同時にミーティングルームから出てきたのが見える。勅使河原の顔は眉がきつく顰められ、元が美形なだけにその表情は普通の人間より険しく見えた。

 一條の表情は余り変わらない、羽柴の方へと視線を向けて軽く挨拶代わりの様に片手をあげて寄越しただけだ。あとで羽柴は内容を聞くのだろうが、多分上司として何らか説得しただけだと思う。


 最近営業の女性社員から、勅使河原を口説いているのは本当かと聞かれたのを楚良が思い出した。しかし以前の様に威嚇されたのではなく、時間がないからあり得ないわよねと確認をされたといった方がいい。楚良の営業での対応から言っても、楚良がそう言う人間では無いと信じてくれる様な社員の方が多くなってきた。


 それにいくら勅使河原と言っても、この会社では断トツという程ではない。寧ろ同じ部署にタイプが違うと言えど一條がいる。恐らく勅使河原のフラストレーションは相当なものだろうと楚良は思った。

 彼は自分がトップでなければ気が済まないし、周りにちやほやされているのが当然の様な振る舞いだった。だから楚良の態度が気に触ったのが切っ掛けだろうし、執着の元だろう。楚良を利用すれば逆に自分が執着される程の美形を演出できるから、それで悦に入っていた節もある。

 それが今は楚良は完全にデザイン課にシャットアウトされて話しかけるのも短時間、ならば楚良が口説いているなんて信憑性がなくなるし、何より今噂の中心にいるのは一條の方だ。


 入社時のあの歓待ぶりもすっかりと新鮮味が無くなって、話はいつも色気が増したと噂の上に契約額が先月の二倍とかいう営業課長の話ばかり。仮にこのままのペースで月末まで走れば、下手をすれば他の社員の四半期分ぐらいは稼ぐことになる。流石の楚良もそんな人間が存在するとは驚きでしかなかった。


 家では相変わらず兎の腹に顔を埋める人だし、兎に寄り添って眠っている寝顔の可愛い人だし、茶々とサチにからかわれている人だ。


 ふと見ればメールに自分宛のものが届いていて、見れば羽柴をCCに入れた自分宛のものだった。送信先はそれこそ一條のもので、中身を確認すれば資料を一つ持ってきてくれというものだった。

 これはついに自分で資料を集める時間まで無くなったのだろうかと案じつつ、後ろの棚を確認して手元のPCからも何枚かプリンターへと印刷を飛ばしておく。ペン立ての端のホッチキスを手に取ってスカートを払ってから立ち上がった。

 いつも会社では余り会話を交わさない様にとデータを要求する人だから、紙でお願い出来ないかというのは本当に珍しい。自分でプリンターに出す時間すら惜しいのだろうかとやや案じながら、楚良が印刷済みの紙と取り出したファイルの中から数枚、中身を確認してからホッチキスで留め、一度デスクへと戻った。


「渡してきますね」

 ホッチキスをペン立てにまた掛け直して、彼へと渡す紙だけを手に羽柴に告げれば、おー、と間延びした声が掛かる。

 羽柴以外が彼のデスクに近付くことは余りないが、持ってきてくれと書かれてあるし、羽柴の時間も貴重だから渡すだけならばとそのまま楚良が一條の方へと向かった。


「一條課長、此方でよろしいでしょうか」

 手渡せば顔を上げた一條が僅かな微笑を浮かべ、座ったまま楚良の方へと向き直る。

「空木さん、今日終わった後時間取れるかな?」


 その手が伸びて資料を受け取ったのを確認し、役目は終わりだとばかりに身を引こうとした瞬間その口から漏れた言葉に楚良の動きが止まる。

「済みませんが…今日は遅くなるかと思うのですが」

 営業部の皆がそれこそ楚良以上に凝固していて、自分も凝視したいのだけれども思いながらも何とか口から返事が漏れる。


「そう?待ってるよ。ちょっとChevalierで話したい事があるから」

「ミーティングルームでも良いですか?」

「そんな堅い話じゃないよ、勤務時間を裂いて貰うのは申し訳ないから、後で連絡頂戴。一度家に帰っておく」

「……何か資料は」

「この間の新商品のラフだけ持ってきて。こっちも幾つか準備して置くから、宜しくね」


 はい、と返事をして失礼しますと頭を下げた楚良の方が、何やら狐につままれた気分になる。家に帰るというのはどちらのだ、そもそも、同じ場所に帰るのだろうからこんな目立つ事をしなくても良いと思うのに。

 とりあえず彼の机からはさっさと離れようと自分の机へと戻れば、隣の羽柴がまた顔を覗かせていて何ですかと顔を向ける。


「お前、OKしたのか」

「ちょっと今日は休憩が多すぎましたし、多分急ぎですよねこの流れだと」

「お前本当に仕事の関係に弱いな。俺が心配になるんだが」


 実際ただ誘われただけなら即答で時間がないと断るが、Chevalierと言われれば羽柴にしてみても無理矢理止める理由が残業というだけでは薄い。

 一條が楚良を使えるのは自分だけと言うのは本当に間違いではないし事実だ。


「家で打ち合わせなんて言われても付いていくなよ?」

「飴くれるって言われてもついていかない様に気をつけますね。今日は今のとチェックが終わったら上がって良いでしょうか」

「一條ならまあいいが。ただ今日の分は上げてから帰れよ、明日また増えて死ぬぞ」

「そこは死守します。持ち帰りで出来る分があったら投げて置いてください」


 分かった、と告げた羽柴がまた顔を戻して楚良もまたPCの方へと向き直る。前の商品のラフなんて今はもうデータしか残していないし、商品は発売済みだし、一体どうしたのだろうかと首を傾げる。

 まあ確かに少々家では時間が合いにくいのかもしれないが、と、小さく楚良が息を吐いた。今日は外でご飯の気分なんだろうか、兎の傍で食べたい所だと思ったが、たまには一條の息抜きをしなければ。いつも作らせるなんて申し訳ない。


「課長は同席しますか?」

「そうだな、悪いがお前だけで行ってくれ。多分今日はトイレまでの外出が限界だな」


 本当なら彼女の外出を咎めたい所だが、何となく羽柴は一條がそうした理由を察して同席は避けておく。どうしても無理かと言われれば言葉通り寸分取れない訳ではないが、何やら付いて行くと一條にどんな顔をされるのか分からない。

 一応彼とはプライベートでも友人だし、その部下に適当な気持ちでは近付かないだろう。


 一條は下心付きだぞと教えてやりたい気分になるが、教えた所で冷たい顔であり得ないとか言われるだけだ。

 大体、切っ掛けと言われるものを作ったのは二人きりで食事に出した自分だろう、反対などといっても本当に今更だと詰られかねない。


 下手をしたら営業に引き抜くとか言われそうだし、このまま走りきれば会社的にも今以上に彼の実績を認めざるを得ない。実績を持って強引に話を進めるならば、どこも断り辛いという所まで来ているから、楚良本人に頑張ってもらうしかない気がした。実際法務も一條があの調子なら、このまま楚良の残業には目を瞑ると言っている位だから。

 男ぶりを上げろみたいに焚き付けてみたが、即結果に出てくる辺り本気だというのがダダ漏れじゃないかと羽柴が溜息を吐く。


 だが羽柴にしてみればデザイン課にのし掛かる契約数が捌けている事の方が印象的だ。その数の異様さに最初は躊躇したものの、締め日は綺麗に分散しているし、内容的な被りも無い。最初は楚良が手を貸してやっているのかと思ったが、彼女は彼女でその数を捌く一翼を担ってはいるが、その分一條に時間を割くことは出来ないだろう。正直彼女の方のペースも異様だから、双方大変恐ろしい。


 経歴の傷だとか、追い抜けると考えているだとか楚良が言っていたが、言ってしまえば一條と勅使河原では経験もレベルも違う。楚良に私的にサポートしてもらう事が無理なら、そもそも手さえ届かないだろう。


 全く楚良の方が双方に気がないと言っても、彼女を勅使河原が落とすのは不可能だろうし、その対抗馬が一條だというのは羽柴から言わせれば哀れすぎて滑稽だ。引き下がればいいのに欲を出すからだと自業自得だと思っているのを差し引きしてもだ。

 勅使河原が何かしようと足掻けば足掻く程間抜けに見える様に一條は振る舞っている。


 本当に彼奴は怒らせると怖いんだよなあと思えば、仕事に私情を持ち込ませる楚良の存在が如何かなんて考えなくても分かると、大きく溜息を吐いた。

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