第43話
終礼終わりで打ち合わせに来た一條が膨大な仕事を押しつけて、この上まだ楚良を連れ出すのかと羽柴が愚痴っていたが、楚良本人の仕事は20時が回る辺りには終わって後は持ち帰りで良いとばかりに共有フォルダに楚良の名前を付けて突っ込まれていた。
変換が面倒だからという理由で皆ひらがなのファイル名で突っ込むのは辞めて欲しい。とても見づらい。
「課長、何か持参する物はありますか?」
机周りを片付けながら、隣の社員にいいなー等と死んだ目で告げられつつ羽柴の方へと声を掛ければ、彼がまたちらりと顔を上げる。当然この部署はここからが本番である。
「明日朝一でメール見とけって言ってくれ。まあ言わなくても分かるだろうが」
「分かりました。ではあとはメールで下さい、明日までに出来るだけやっておきます」
「おー」
紐で固く閉じられたスケッチブックが開かない様に大きな鞄へと突っ込んで、その隙間から机の細々としたものを中へと流し入れる。
最後に上着のポケットにスマートフォンを突っ込んで、肩へと鞄をかけた。
「うっちー、昼までにチェックお願いね。メール送っておく」
「あ、俺のも頼む。直ぐ終わるから、Webの」
皆が口々に声を掛けたのを何とか頭の端に引っかけながら、メールもお願いしますと彼女が告げて、今日はすみませんと謝罪してから楚良が部屋の扉へと足早に歩いた。
スマホを取り出しまずは先程言われた内容を箇条書きしながら、オフィスのドアを抜けてエレベーターホールの方へと歩いた。人が殆どいない時間だから、歩きスマホも許して欲しい。
一條の連絡先を親指で探り、今終わったとメッセージを送っておく。エレベーターで1Fを押して動き出す頃には、一番最初に二人で話したあのレストランを指定するメールが届いて、一度帰るというのはやはり彼の自宅の方だったのだろうと思った。
あのレストランは味がとてもいい。テーブルの間隔が狭くて少し雑多な雰囲気も受けるが、仕事の事を話して大丈夫だろうか。会話が混ざり合う時間なら問題がないのだろう、この辺りの判断は一條に任せようと思った。
最初こそ何度も尾行がついているのに気付いたが、最近は途中で撒かれる事に気付いたのか届け出先のマンションに先回りをしているらしい。郵便物を取るついでに諦めるまでそこで過ごす事にしたが、殺風景な部屋に本当に騙し切れているのだろうかと不安になる。
雨戸は下ろしているし、鍵をこじ開けられた形跡もない。他に鍵を持っているのはビルのオーナーだけだが、それは祖父の知り合いらしいから漏れないだろう。
重いバッグ片手に繁華街へと入って記憶を頼りに道を進み、商業ビルの2Fにあるレストランに辿り着いた。扉を開けば直ぐに店員がやってきて、自分の方が早かろうと待ち合わせである事を告げて名前を言えば、お連れ様がお待ちですと言われて瞬いた。
以前の窓側の席に見慣れたスーツ。会社を出たままじゃないかと思いつつ、案内をされるままに其方へと向かえば、気付いた一條の片手がひらりと揺れた。
「お待たせして済みません」
「今来た所だよ。残業終わりにごめんね」
だからこのカップル席は椅子が近いんだと思いながら、頬杖をついた一條の方へと視線を流して指先が鞄へと掛かる。店員が椅子を引いてそこへと有り難く腰を下ろし、膝の上へと一度楚良が鞄を置いた。
「前の仕事のラフですが――――」
「データ?」
「はい、原画はスキャナーで取った後に破棄したので…。あの、何で今更以前の仕事を?何か先方から問題が」
机の上にスマホを取り出して先程移して置いたデータを表示させ、一條の方へと見える様に押し出した。上着の内ポケットに入っていたペンを取った男が、足下の鞄からノートを取り出して底へとペン先を落とす。
「別に何でも良かったんだけどね、君を連れ出す口実だったから」
「――――――――は?」
ノートではなく、その右端に貼り付けられていた小さな付箋紙に、一條がさらさらと何かを書き付けていて険しい顔で楚良が眉を寄せる。
それは羽柴に殺されるのではと思った楚良に、一條の顔が僅かに近寄って耳元に唇。だから一々近い。
「勅使河原君が尾行してるから、気をつけてね。店の奥の席、見ちゃ駄目だよ」
耳に吐息の掛かる距離で告げられて顔を上げようとしたが、続く言葉にそれ以上視線は向かなかった。
また顔を起こした一條がまるで書類の様に紙を差し出し、それへと視線を落とした楚良が取り出されたメニュー表に紙を一度伏せる。
「またお任せしても…?」
「構わないよ」
ドリンクのオーダーを取りに来たのだろうか店員が側に立っていたから故の行動か、笑顔で受けた一條が差し出したメニューを手に取って店員の方へと半身を向けた。
例えばこの店員が彼の協力者だとかいう可能性は0ではないから、会話は聞かれない方が良いのだろう。ドリンクだけではなく食事のオーダーも手早く決めてしまった一條の声を脇、直ぐに店員が注文を繰り返して去って行く。
「…声は届きませんよね?」
「あの距離なら大丈夫。口元も見える位置じゃないよ」
窓際に向かうこの席は店内からは背中は見えても、手元や顔は見えないだろう。店員が去って紙を表にしてみれば、小さな付箋紙に可愛らしい兎の絵が描かれてあった。
「何でこんな真似を…」
「ミーティングルームで話してたんだけど、勅使河原君がどうしても君とペアで営業に出たいって言うから、ちょっと牽制」
珍しく彼が描いた絵なので小さくともとっておこうと紙から剥がし、スケッチブックを取り出してその中へと貼り付けておく。一応、という風に楚良がそれを二つ折りに開き、筆箱を取り出して机の端においた。
「怒鳴っていたので何事かと思いましたが…そんな話だったんですね」
「デザ課の人間を連れて直接営業をかけるなんて論外だって言ったんだけど聞かなくてね。彼じゃなくても断るのに、よりにもよって君を名指しなんかするから」
「羽柴課長は大喜びで首を突っ込みたがってましたよ。この打ち合わせも含めて、また一條課長が根掘り葉掘りされるのでは」
何を食べたかぐらい覚えて置かないと駄目ですねと彼女が告げるのに、小さく一條が肩を竦める。楚良の手がガラス越しに見えるコンビニの入り口を模写し始めて、一條もその手元へと目を落とした。
「最後は納得したんですか?」
「そもそも羽柴が受け入れないんだから、交渉したいならせめて課長クラスになって出直しておいでとは言ったかな」
「……そんな事言われたら私でも心が折れますよ」
声が聞こえなかったからどんな話をしていたのかと思ったが、そんな事を言われていたのかと、一瞬想像した楚良が溜息を吐く。
「全然折れてなかったよ。空木さんがどうしても一緒に行きたいと言ってるし、前例が無い訳でもないのに何が悪いんだって」
「前言撤回します」
これはブラフに見えるんだろうかとコンビニの特徴的な看板を描いていれば、隣から一條の手が伸びて何かと思う間も無くコンビニのロゴが入れられる。
丁寧に楚良がそのロゴへと影を入れて、一度だけ彼の方へと視線を投げた。
「本当か嘘かは兎も角として例え何と言われても今は僕の仕事で手一杯だろうし、そのほかの仕事は営業に出る必要もないから認めないって言っておいたよ」
「そんな事言った上に今日連れ出したんですか?本当に、もう敵認定されますよ」
「羽柴と話して、一番僕が挑発するのにいい立場だって事になったんだよ」
一体いつの間にそんな話になっているのだと楚良が眉を寄せて、軽く首を振ってまた手元の方へと視線を戻す。
「本当にあの人は何を言っているんですか。危険です、本当に平気で血を流す人ですし、誰かを陥れようと虎視眈々と狙う人ですよ。それを挑発だなんて…」
「相手にならないよ、僕ならね」
視線を外した楚良に小さく笑う様な声が降る。嘲笑ではない、安心させる様な声だと思って其方へと顔を向ければ、穏やかな顔で楚良の方を見下ろしていた。
一條がこう言う物言いをするのは珍しい、羽柴はたまに真っ向から勝負に出る奴などと表しているが、どちらかと言えば普段は争い自体にならない人だ。
「そんな事……」
「確かに、君の事何も知らなかったら君に辞めて貰う方が穏便だったと思う。だけど今はそうじゃない」
楚良が相手に全て任せて後は知りませんなんて言う人間には一條からも見えていない。
彼女の躊躇はそのまま、過去への後悔だ。
楚良の顔が向けられれば頬杖を突いた一條の顔は、囁き声でも充分聞こえる程に近かった。
「茶々ちゃんも、サチも。勿論君も。今は傷付けられるのが我慢ならない」
真剣な瞳だった、その顔でその言葉が紡がれれば受ける楚良とは見つめ合う形となる。
沈黙は一瞬、黒い瞳が一瞬だけ惑う様に瞬いた後に、小さな吐息が楚良の唇から漏れた。
楚良の手がスケッチブックを折り返して中身をたためば、その合間に店員の運んできた飲み物と前菜が置かれる。
一條の前に置かれたのは珍しくアルコールで、店員が去って行くその際までずっと楚良から一條の視線は放されなかった。
これもブラフなんだろうかと楚良が自分のグラスへと手を掛ければ、乾杯、と小さな声がして一條のグラスと楚良のグラスが小さな音を立てて触れあう。
「一條さんがそう思う様に――――」
一口、その中身を口の奥へと流し込んだ楚良が告げる言葉に、グラスを傾けていた一條の顔がまたそちらを向く。楚良の視線は逸らされたまま、右手がフォークを手に取った。
「私も私の周りの方を誰も傷付けたくありません。ましてや、身代わりなどと言うのは、そんな事はさせたくありません」
前菜へと差し入れられたそれは少し迷った後に皿を二枚取り、双方に同じ数だけを取り分けていく。
酒を口にしながらその姿を見つめる一條の視線が、僅かだけ細められた。
「だからもし、一條さんが自分を危険に晒してもし何かがあったら、もう私は誰も何も信じません。会社も辞めますし、兎も手放します」
きっぱりと楚良の口からそう漏れて、そしてその手が皿を差し出せば、その言葉の大きさに一條は視線を外す事も出来ない。
彼女の瞳がやっと一條の方を見つめれば、その瞳は強く、店の照明に光っていた。
「私が一條さんの立場なら、やはり自分が危険だと分かってもサチや貴方には助かって欲しいと思うので一條さんが私の為に何かしてくださるというのなら、それ自体は止める権利はありません。でも、それが。誰かの為に何かをしたいと思うその結果が、人の心を殺す事があるのだという事は、どうか忘れないで下さい」
彼女の言葉は謳う様に響いて、そして耳の中へと滑り込めば静かに一條はその言葉を咀嚼する。
此は彼女の本心だし、本当に彼女は何もかもを手放してしまうだろう。
「私も無茶をすれば簡単に勅使河原さんが引っかかる事は分かっていますよ。羽柴課長は一條さんに万が一があっても大事にはならないと思っているのかもしれませんが、そんな甘言には乗せられないで欲しいのです。どうか一條さんは一條さん自身とさっちゃんを一番に考えていてください」
人気のある場所を選んだのは勅使河原の尾行に気付いたからだし、その牽制の為だったが今更ながらに正しかったと思い知った。
これは全てサチの飼い主であり底抜けのお人好しだと思って居る一條の立場を弁えて、他意無く零されている言葉であって、人としての好意はあっても男としての好意は無い。
それでも彼女に惚れている一條には心苦しくさえ感じる言葉で、二人きりでこれを聞いていたらどうなっていたか分からない。自分に何かあったら心が死ぬなんて、あれほど大事な茶々も手放すなんて、善意から出た言葉なのに刺激が強すぎて泣きたい気持にさえなってきた。
「……本気ですよ?」
余りに一條が沈黙しているせいだろう、僅かに戸惑う様に眉を寄せた彼女が一條の方へと目を向けて首を傾げた。
楚良の好みに合うだろう前菜は口に運ばれてさえいない。
「君に兎を手放すなんて言わせるとは思ってなかったから、不安にさせてたら、ごめん」
「不安になるのに決まっています。あんな、思いは――――」
「うん、ごめん。軽率な事は絶対しないって誓うよ」
楚良は以前自分の軽率な行動で兎を失っているし、自分一人の判断で動いたせいで身動きできない事態に陥っている。その後悔は、何より大きいと一條にも直ぐに分かった。
「でもね、君が一人で立ち向かう必要も、泣く必要もないから。君は一人にならないって、それは僕とも約束して欲しい」
「分かっています。今回は一人ではないと、ちゃんと理解しています」
小さく彼女の唇に笑みが浮かんで、一條はそれこそその唇へと触れたい衝動が抑えられなくなってくる。
そんなことは絶対に出来ないし許されないのは分かって居るのに、こんなことで、本当にこんなことで彼女をどれだけ好きか思い知らされるなんて。触れる事さえ許されない相手をこんなに愛するなんて思っていなかった、止められなければそれこそ的になる事ぐらい何一つ躊躇さえ無い。
「本当は会社を辞めるのが一番穏便だと、私も分かっているんです。…でも、駄目ですね、あの辞表が使われなければ良いと本当に思っています」
楚良は辞表を実際書いて、それを羽柴に預けている。何かあったら使って欲しいと羽柴に渡しているが、彼はそれをその日のうちにシュレッダーに掛けていた。多分それを彼女は知らない。
「君が会社を辞めても僕は逃がさないよ。借りてる相手が困ってるのに、何もできないのは男としてどうかなと思うしね」
「そう言う所が付け入られると思うのですが。羽柴課長も言っていましたが、一條さんってたまに真っ向勝負に出ますよね?」
「格好良いでしょ?」
「え、それ私がコメントするんですか?ノーコメントです」
あっさりと翻されたのにそれを聞いていた一條の唇に笑みが浮かぶ。彼女が料理を食べ始めるのを見れば、大皿に残っていた余りを彼女の皿に勝手に乗せた。有り難う御座いますと口元を抑える彼女は、やはりこの味が好みなのか直ぐに平らげていた。
飲み物で口を濯ぐ間も無くメインが運ばれてきて、楚良がその皿に瞳を和ませている。
一度上体を起こした一條が項で結ばれている黒髪の端へと触れて、さらりと撫でてからまた放した。
殺気の如き視線を一瞬見たが、もう今はそれさえどうでもいい。彼女が愛しくてまらない、もうブラフなどではなく本当に表情を取り繕えてはいないだろう。
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