第47話

「それはありません――――っ」


 瞬間、楚良の口から思いの外大きな声が漏れて、彼女自身も驚いた様に一度口を覆って、しかし直ぐに失礼になると気付いたのか手がするりと下りた。

「本当に良くして頂きました。これ以上の職場は無いと思っています」

「空木は辞めたくない、羽柴は辞めて欲しくないとして、一條と青葉はどうなんだ」

 楚良の言葉に営業部長が扉の方へと目を向けながら、軽く額を抑えた。経理課長の青葉が一度一條と顔を見合わせて、楚良の方へと顔を向けた。


「経歴的には微妙な所ですが…。空木さんがいないと、デザイン課の書類がまとまりませんので…いて下さった方が…嬉しいのですが…」

 経理課長の様子に羽柴は思わず笑い出しそうになり、一條もだから彼女は仕事で認められているのだと言いたい気持になる。

 青葉はどちらかと言うと権力に阿る方だが、彼の言う通りだ。楚良がいなければ領収書なんて何日遅れになるのか分からないし、申請類など出して貰えるかすら分からない。全て事後報告で調整する羽目になるのは明かだった。


「現実問題空木さんが辞めればChevalierは手を離れます。先方はほぼ名指しですので。それと名前は出していませんが、空木さん個人の技法を好んでいる取引先も少なくありませんよ」


 一條の言葉は嘘でも話を盛ってもいない。それこそ営業としても何度か彼女のインスピレーションやら、自称偶然やらに助けられてきているし、その最たるものはChevalierだがその件だけではない。

 羽柴の部署を補う形の楚良の技術は、サポートを好んで依頼者の望みを引き出す手法と共に一條にも営業部にも扱いやすいのは、現場を見ていれば直ぐに分かるだろう。


「梶君、私に言わせて貰えればね。勅使河原の顔の代わりは一條が出来るけど、空木の代わりは現状誰にもできないのよ。でなきゃ課長3人が庇うわけないでしょ。ま、空木がとんでもない悪女で3人ともたらし込まれたっていうなら別だけど?」


 楚良の生活は確かに褒められたものではないし、兎に命も人生も捧げている。人付き合いはかなり下手で、人に誤解させる事も少なくない。

 だが彼女は、誰が見てもとは言いがたいが、少なくとも羽柴や一條、そして経理課長等彼女の仕事に触れる人間が見て分かる程には努力をしている。

 依頼者の資料を細かく読み込んで、部署が円滑に回る様に雑務をこなして、営業の無理難題も嫌な顔一つせず、忙しいからと断らずに聞いてきた。信じられないものを見たかの様に言葉を失っている楚良は本当に鈍いのだろうが、その積み重ねてきた結果が此処にあるだけだ。


「しかしだな」

「梶。そもそも勅使河原を引っ張ってきたのは誰なんだ。時期はずれは空木もだが、空木は前園だろ?」

 問いかけた営業部長の神内の問いかけに、人事部長が黙り込む。

 それを答えるのを躊躇する様に、男の眉が寄せられて視線が逸らされるのは余程不味い人間なのか。

「言えない人間の紹介だから、空木の方を辞めさせようってか」

「事情は分からないでもないけどね。無理矢理取った2人がモメてるとか人事部長の名前には傷が付くし?」


 その口から名前が漏れない事が理解出来たのか、皆上と神内が揃って溜息を吐き、梶がその手を握り締めたのが楚良の視界の端。

 彼にも迷惑をかけたのかと思えば、会社にいたいという自分の台詞が酷く傲慢にも聞こえてこの場所から逃げ去りたい気分になる。


「空木が会社を去るのが一番穏便だと…」

「大変恐縮ですが、その紹介者がなら何一つ穏便に済まないかと思いますよ」


 梶が一瞬言葉に淀んだのに気付いた一條が、楚良の隣へと足を進めてから告げる。まるで図星を突かれた様に人事部長が口元へと手を置いて、深く溜息を吐いた。それを見れば楚良にも分かる、本当に勅使河原は人には言えない様な手でこの会社に潜り込んだのだろうと。

 彼にしてみれば面白い様に話が進んだだろう。何もかも、思い通りに。人事部長の梶にしてみれば、それこそ勅使河原の掌で踊ったことになる。


「そうは言うが、なら実際どうする」

 暫く沈黙していた梶が折れた様に溜息を吐いて問いかければ、それを見ていた二人の部長が視線を扉の方へと向けた。

「確たる証拠なしに辞めさせられる相手じゃないぞ」

「空木から処分とか言い出す辺りそうでしょうね」


 疲れた様にそう告げる梶の言葉に皆上が肩を竦めれば、それを見ていた一條が傍らの楚良を見下ろした。


「必ず自爆しますよ」

「そうは言うが一條、その間に何しかけられるか分からんだろ」

「経理の女性を使ってそれなりに大がかりな事をしたつもりでしょうが、何の被害も出ていません」

「羽柴が瀕死になったぐらいね」

「空木もですが」


 確かにこの件でかなり瀬戸際まで追い詰められたが、結局取引先に何の被害も出さなかったのはデザイン課の力が大きい。

 それは、ここにいる人間達は皆よく分かっている。一番分かっていないのが本人ぐらいだろうか。


「………分かった。問題が起きずにいる限りは、空木の処分は保留にする」

「梶君さっすがー」

「煩い。問題が起きればお前の首も飛ばしてやる」

「そういうのは部下の前では辞めておきましょうね」


 ふふん、と何故か得意げな皆上に忌々しそうに梶が舌打ちをし、その瞳が楚良の方を向けば小柄な背中がぴんと伸びた。

 何を言う間もなくその頭が深々と下がり、有り難う御座いますと楚良が告げれば、梶の微妙そうな顔。

 どうして終始辞めろと言っていた自分が礼を言われなければならないのか、と、言うのがその表情から漏れている。


「まあ、勅使河原の契約数もそれなりなんだろ?このまま問題が起こらなきゃ別に…」

「だといいですね」

「羽柴は身も蓋もないな」

「どうみたって空木が現在進行形で一身に問題受けてるでしょうが」


 スマホを見ただろうとでも言いたげに溜息を吐き出す羽柴に、また楚良が小さく首を振った。確かに営業にしてみれば、顔だけで仕事の取れそうな青年というのは手放し難いのだろうが、どう見たって問題が山積している。

「この問題はアレね、現場に任せた方が上手く行く様ね」

「大事にするなよ」

「相手の出方次第ですね。此方としては空木の心が海より広いので、自爆待ちですよ。此方からは何も仕掛けてないってのに」

 梶の言葉にやはり最後まで従わないらしい羽柴が告げて、こいつはとばかりに部長らに睨まれているが本当に彼が気にした風はなかった。


「何かあったら課長3人が逐一報告しろ。――――今日の話は以上だ」


 とんでもない話を聞いてしまったと苦笑を浮かべている経理課長が、巻き込まれた形で哀れである。

 一番最初に深く頭を下げたのは楚良で、それに釣られる形で経理課長、そして一條羽柴の順番で軽く会釈。する、と、楚良の背中に一條が触れて歩く様に促す。一番に部屋を出たのは羽柴で、扉を開いて待っているのを見ながら楚良がまた部屋を出る際に失礼しますと深く頭をもう一度下げていた。


 パタンと扉が背後で閉じれば、課長三人と楚良が揃って小さく溜息を吐く。


「急に呼び出しかと思ったらこのザマかよ」

「空木さんが一人で処分という話ではなくて良かったです…ね?」

 羽柴が溜息と共に零した言葉に、経理課長が考え込む様に視線を脇に向けていた楚良に声を掛けた。気付いた楚良が顔を上げて、小さくまた頷く。


「皆さんに庇って頂いたお陰です」

「上長が集まって渡りに船で空木もついでにだったんだろうが、運が良かったな。お前一人なら今頃即辞表だったろ」

 羽柴がエレベーターの方へと歩きながら告げる言葉に、楚良の視線が惑う様に揺れた後に、そうですねと口から零れた。


「お前には…苦しい選択だったかもしれんが。父親の事は、その、済まない」


 楚良の様子に廊下で足を止めた羽柴が後ろに続いていた彼女の方へと振り返り、告げた言葉は先程までとは打って変わって歯切れが悪い。

 彼女の様子を見れば直ぐに分かる、多分父親の事をこうして明かされるよりは、静かに会社を去った方がマシだと思っているのは見て取れた。


「いえ、あれは会社に残る為には必要な暴露だったと思いますので。仕方がなかったと…」

「空木さん」

 何かを言いかけた口はしかし一度閉じて、楚良は直ぐに誤魔化す様に首を振る。そして続けられた言葉は怒りも無く、一瞬泳いだ視線は直ぐに羽柴へと向けられたその刹那。


 彼女の名を呼んだのは横に立っていた一條で、何、と皆が同時に顔を向けた瞬間その腕が伸びて風が走り抜けた錯覚。


「――――――――っ痛、ってぇ」

 服の擦れる音と鈍い音、そして直後に羽柴の身体が揺らいで隣の壁へと背中がついた。


「ちょっと、一條課長!?」

 虚を突かれた形で口の中で悲鳴を殺した楚良よりは、経理課長の方が我に返った方が先だった。頬を抑えた羽柴と、拳を解いて振っている一條とを見れば直接目にしたものが信じられなくとも何があったかは明かだろう。


「くっそ、お前、マジで殴ったな?」

「当たり前でしょ。あんな状況で暴露したら根回しも口止めも出来ない。何があってもそれだけはバラしたくなかったなんて聞いた時から分かってた筈だけど。信頼をああ言う形で売るなんて良くもやってくれたね?」


 経理課長にも楚良にも、普段温和な一條が人を殴る様な真似をするというのは初めて見たし、そんな事をする人だとは思っていなかった。

 しかも曲がりなりにも友人をお互い自称している、仕事上では対立することもあるが、それは信頼があってのこと。どちらに声を掛ければ良いのか、楚良の迷う指先が宙へと伸ばされたままだ。


「彼女を残したかったって言い訳は聞かないよ。最短ではあるけど、最良ではなかったのは羽柴も分かってるだろうし、空木さんがその軽い口のせいで会社を辞める可能性だって大きかったんだからね」


 口の中でも切ったのかみるみるうちに頬の腫れた羽柴が、手の甲で口の端を拭った。

 きっぱりと言い切った一條に、楚良が瞳を向ける。彼の言う事は本当に、自分の本心だ。自分は確かに会社に残る事が出来る様にはなったが、一番使いたくない方法でもあった。皆上の言う通り、何でも使えば良いというのなら真っ先に使わなければならない方法を、こうしてぐだぐだと引き延ばしていたのは純粋にそれを使いたくないから、という一点。


 父親の名前で周りを脅して評価を得る等というのは、本当に、選びたくは無かった。


「空木さん」

 殆ど一條が言いたい事を言ってしまったと楚良が呆然と二人の様子を見ていれば、楚良の方へと視線を流した一條に名前を呼ばれて瞳を向ける。

 羽柴に向ける声色とは違って、その名を呼ぶ声は普段の一條と同じ様に穏やかだ。


「何でも許してあげる必要はないし、…怒ってあげないと言い訳も謝る事もできないからね」

「だからってお前が殴るなよ」

「空木さんは優しいから殴ったりしないでしょ。有り難く受けとっときなよ」

 クソ、と、羽柴が小さく毒吐いて楚良の方へと瞳を向けた。手を僅かに伸ばした状態で完全に凝固していた彼女が、やっとその言葉に呪縛が解けたかの様に手を下ろす。


「言い訳するとお前は絶対自分から言い出さないだろ。…あの三人は抱き込んでおいた方が良いと思ったんだ」

「結果そうなってしまった事はもう仕方がありませんし、一條課長の言う通り最良ではなかったかもしれませんが、最短でした。…私が殴るよりは痛かった様ですし、一條課長が全部言いました。もう怒っていません」

「お前に殴られても痛かないからな」

「私よりお二人は経理課長に謝罪した方がいいかと」


 この後仕事はどうするんだとかぼやく羽柴に楚良がハンカチを取り出して差し出しつつ、自分以上に凝固している経理課長に掌を上向けた。

「え、…いや、まあ見なかった事にしておきます」

「いつも思っていましたが、経理課長は菩薩なのでは」

「空木さんが残ってくれればもう何でもいいです…」

 急に自分が話の中心に引き出されて、溜息を吐いた経理課長が諦めた様に呟いた。何か済みませんと謝る楚良が経理課長を促して歩き出し、別に貴方のせいじゃないですと答えた男がその横に続く。


 それを見ながら一條と羽柴が顔を見合わせて溜息を吐いた。しかしその直後、楚良が振り返って二人に微笑し、ありがと御座いますと声も出さずに告げるので。


 思いの外上層部が動きがたい状況だというのを知れたのは、一條にとっては幸運だった。

 そう言う状況では本当に楚良は切られやすいし、羽柴が彼女の血縁の話を持ち出したのは手っ取り早く繋ぎ止める手段として一番良いからだ。それこそ上からの指示での縁故採用なんていうのはそれだけでアドバンテージがあるし、現場を知らない人間には楚良の価値にも気付きにくい。

 あの時刀司伽藍の名前を出した瞬間に黙り混んだ事を考えてもその効果は覿面だが、それと引き替えになるものが大きすぎて一條が躊躇していた中、あっさりとそれを選んだ羽柴に抱く感情は複雑だ。


「羽柴。…月末には数字を出すから、もう少し勅使河原君が踊ってくれると思うよ」

「空木が保たないと思ってたが、案外タフだな」

「兎が無事だからじゃないかな。家もバレてないし」


 告げる一條が家での彼女を思い出す。多分殆ど眠れていないだろうし、ずっと仕事をしているか、兎の世話をしているか、絵を描いて家では過ごしている。

 稀に座ったままでうとうとしていると言われたことがあるが、中々彼女の眠る時間に自分の在宅時間が合わないのが惜しいと思った。もう少し彼女の側にいてやりたいし、警戒した兎の様な生活が緩めば良い。


 頬を抑える羽柴と共に彼女の側へと歩けば、小柄が一度首を傾げて瞬いた。何かと思う間もなく手は大丈夫か、と聞かれれば瞳が落ちる。顔を殴るのではなかったなと後悔は今更、本当に自分は彼女の事になるとどうかしている、と、思った。

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