第48話
あの日呼び出されてから数日、表面上は皆穏やかに暮らしている。デザイン課は仕事量に瀕死だが、少なくとも営業はそこまで荒れてはいない。
「一條、お前もうこれ以上仕事をとっても終わらんぞ」
昼頃、珍しく混んでいる食堂に現れた羽柴と鳴海が一條の座っている席へと混ざってきたと思えばこれである。手元にあった焼き魚の定食をつつきながら、一條が軽く首を傾げてからその二人を見やれば、それぞれカレーうどんとお好み焼きという速度重視の食事だった。
「締め切りがタイトなものは取ってない筈だけど」
「三ヶ月ぐらい誰も仕事を増やさないってのならまだ行けるんだが、来月も仕事は取るんだろ。流石にこのペースじゃないと思うが、何があるか分からんからな」
「少し詰めれば終わるでしょ」
「相変わらずお前のそれは殺意に満ちてるな」
社員証を背中側に回した羽柴と、傍らに置いた鳴海と。手も合わせずにいきなり箸をつけるのを見やりつつ、昨日の楚良を思い出す。スケジュールに空白が無くなりましたとか、とても嬉しそうに告げられたのだが。
「仕事がデカすぎるのばかりで無理だ。大体、俺か鳴海でないと出来ない様な仕事をよりどりみどりにされても困る」
自分の食事に手をつける一條の側にいる社員が、すげえ等と賞賛してくれているが、楚良のあの様子なら多分まだ行ける。
「もう2つ3つ取っておきたいんだけど、どうしても無理?」
「まだ3つも取るつもりだったのか。月末まで休んでろよお前」
「まだ3日もあるのに休むのは勿体ないよ」
「お前仕事以外に楽しみは無いのかよ。空木みたいな事言わないでくれ」
自分が休んだとしても楚良が休める訳ではないし、休む人でもないし、ずっと家にいると寧ろサチや茶々が手の空いている一條と遊びすぎて調子を崩しそうであったから避けたい。遅いなら遅いでもいいが、なるべく規則正しい生活をというのを、乱れに乱れている彼女から教えられた事を思い出す。
彼女自身で反省しているから彼女に説教は無しとして。
「締め日が再来月あたりになれば平気かな?」
「流石に俺も鳴海も無理だと言いたいが、空木が出来る仕事ならまだあけられる」
「空木さんならどんな仕事でも3つと言わずに出来るでしょ。出来るだけ入れていい?」
「お前案外酷い奴だな」
空木に殺されろ等と羽柴が言っているが、多分彼女なら困った様にしながらも嫌とは言わないだろうと思う。
彼女が手がけるならとまだ連絡を取っていない取引先を思い出していれば、鳴海から非難するかの様な深い溜息が聞こえた。
「羽柴課長、デザ課の空木って最近男できたんスか?」
「――――――――は?何言ってんだ、相変わらず兎にしか興味ないぞ」
告げられるその内容に話しかけてきた別部署の社員の方へ、一條と羽柴が同時に視線を向ける。鳴海は聞いているのかいないのか、お好み焼きでご飯を食べていた。あれで太らないのだから体質なのか。
「えー、マジっすか。最近雰囲気柔らかくなったなって皆で話してたんすけど」
営業部の部下が、そうだよねー等と答える辺りはどういう方向で広まっているのだろうかと思う。近くの席の社員が男女問わず興味深そうなのは、此処で下手な事を言おうものなら一瞬で噂が広がるのに違い無い。
「お前ら人間観察が出来る程暇でいいな?雰囲気って何だ」
「入った頃は地味だしお堅そうな割に噂が派手だって言われてたじゃないっすか?でも案外最近よく笑ってるし、デザ課じゃ気安いみたいだし、他の部署にもヘルプ入っても評判いいし。絶対一條課長だって思ってたんスけど」
「僕?」
どうせ羽柴か鳴海辺り、下手をしたら勅使河原の名前が出てくるのだろうと思っていれば、そこに出てきたのが珍しく営業課長の名前で、思わずその本人が声を上げる。
楚良が言い寄っている、という形で噂にはなかったが、付き合っているという方向で噂になった事は一度もなかった。どこかで見られたのだろうかと、一瞬顔には出さずに自分の行動を顧みる。
「あー…いやまぁ、それは」
「何だよ言ってみろ。空木の上司として聞いときたい」
本人を前にか言いよどんだ男子社員が隣の社員と瞳を合わせるのに、多分ロクでもない事なのだろうと羽柴が察する。
鳴海がまた小さく溜息を吐いたのは、多分彼は内容を知っているのだろう。
「慰安旅行で酔った空木にセクハラ」
「は――――――――?」
付け合わせの漬け物を白米の上にのせてお好み焼きと口に一緒に入れて居た鳴海が、言いよどむ社員の言葉に重ねる様に告げた言葉に、羽柴も一條も言葉を止めて其方を凝視。
水のグラスへと手を掛けた鳴海が視線も気にせずそれを一気に飲み干した。
「キスがどうだとか聞いた。状況も体格も逆じゃ成り立たないからな。本人も否定してたが、記憶自体曖昧で、どうだか」
「え、やっぱりマジなんっすか?」
「いやいやいや、一條課長からとか無いでしょ」
「お前どうなんだよ」
まるで高校生のノリの様だと一條が思ってみるが、それより本人の耳に入っているらしい所の方が気になる。彼女からそんな事を聞かれた覚えもないのだが、鳴海が言うとおりに本人否定で絶対無いと思われているのか。
「どうって聞かれても、流石に本人の了承も取らずにはそんな事しないよ」
本人の了承を取れば良いかの様な余地を残す答えに、一瞬羽柴が訝しがったが、周りはそれを否定と取ったのかそうだよねとか納得顔。
「本当にそうなら空木相手に告白も出来ずに酔った勢いでキスした上にそれを隠しているチキンだから無い、と、言ってたな」
空木が、と、鳴海の告げる言葉にぐさりと心臓に突き刺さるものを感じたが、まさか一條が実際にそうだよとここで暴露する訳にもならない。
彼女の言葉が的確すぎて、実は意識があったという方向かとさえ疑った。
「勅使河原のおかげとか、アタック掛けてるなんて言う奴もいたけど、勅使河原って顔だけっすよね。同じフロアに一條課長がいるのに勅使河原ねえ、って感じ」
「あー、分かる。空木が迷惑って話にすぐするけどマジかよって」
「なんか空木って噂になるけど実際口説かれた奴って見ないよな。一條課長とか羽柴課長ってマジで空木にモーション掛けられてるんすか?」
カレーが飛んだ、とか自分の胸元を軽く擦っていた羽柴が、皆の噂を耳にしつつ小さく笑っていた。一條一人よりも羽柴がいる方が皆の会話が気安いのは、彼の人となりという所だろう。
不意に自分達に会話が振られて、二人が同時に肩を竦める。
「空木さんから誘ってきた事は一度もないかな」
「俺も無いな。声掛けられたと思ったら100%仕事の話だ」
「羽柴課長と一條課長に無いなら無いですよね」
「まあ、勅使河原君も良い男だから。ただ空木さんがっていうなら無いかな」
心にも無いだろう事をしれっと口に出した一條に羽柴が視線を向けたが、彼からの視線は返ってこなかった。
本当に学生時代にあの程度で周りが騙されたのは、信じがたい。楚良自身が距離を置いていたとか言うのをおいても、少し身を引いて見れば勅使河原の行動には矛盾が多い。
それだけ過去の楚良が私生活を隠してきていたというのだろう、それこそ父親と絶縁したばかりの頃らしいから必要以上に接触を避けてきたのも原因だろうというのは分かる。
それでもだ。社会人になってみれば大学でやったままのノリなど何一つ通用しないだろうに。年下とばかり接してくるとああ言う幼稚な人間が出来上がるのは、覚えて置こうと思った。
「一條課長って結構空木と外行ってますよね?空木って固いんです?」
少し離れた所にいた女性社員が一條に声を掛けて、あらかた食事を終えて箸を置いていた一條が其方へと瞳を向ける。
本当に少し前まではこんな事を聞かれる事もなかったと聞かれた本人が思いながら、そうだねと軽く首を傾げた。
「仕事じゃないと歓迎会とか理由の付いてる飲み会以外は二人きりじゃなくても絶対に頷かないから相当だと思うよ。こっちが頼んで外で打ち合わせとかChevalierの帰りに昼食なんかって時でも奢らせてくれるようになったのって最近だし、仕事と兎の話は良くしてくれるんだけど、他の話はさらっと躱されちゃうね」
「若いのに案外しっかりしてるんですね」
「ただね、行動はしっかりしてるけど他意無く人を褒めて、それがまたストレートだから慣れてない男だと誤解させる所はあるかもしれない。全く同性を褒める時と同じ感じで異性にも接するのは中々ドキッとするよね」
お前何言ってるんだと本当に羽柴は突っ込みたいが、当の一條は全く照れもせずにさらりと問題発言を突っ込んでくれる。
これは本当に噂が広まるのを前提にしたブラフなのか、それとも本心なのか、彼の内情を知っている羽柴が悩ましく思っている傍らで、周りの社員さえ違和感を感じたのか一條の方へと皆が視線を向けていた。
「で、でも――――、空木って今は兎にしか興味無いんですよね?」
「そうだね。だから空木さんに限って他の男と、っていうのは無いかな」
一々言葉が引っかかると思いつつも、周りが誤解するままに任せて置こうともう羽柴は言葉通りに箸を投げる。横を見れば鳴海が既に食事を片付けていて、茶を片手に椅子へと上体を預けていた。
「あの兎好きはちょっと筋金入りだよなあ」
「兎に人生かけてるよね。若干引くけどなんか空木ならアリな気がしてきた」
「慰安旅行の飲みの時兎がいないって滅茶苦茶悲しそうにしてた」
「あれは無人島に何か1つ持って行くとしたら何が良いかって聞いたら、兎だって言うよ絶対」
「空木さんは多分、それは言わないと思うよ」
皆の興味が楚良の兎に及べば、最早それは別部署でも有名であるとでも言う様に皆が次々に口に出す。
しかしそれにまた水を差したのも一條だった。
「え、何でですか?24時間ひっついてたいタイプですよね?」
「それはね」
「――――――――羽柴課長」
説明でもしようかと口を開きかけた一條が、しかし食堂の入り口の方へと視線を向けて口を閉じると同時に、そこに立っていた小柄が小走りに駆けてきてテーブルへと寄ってきた。
彼女がこの時間に食堂に来る事はなくて、大抵急ぎか大問題かのどちらかだ。
「お、お前も飯か」
「違います。離席中ならスマホぐらい連絡が付く様にしていて下さい。一條課長もいらっしゃったんですね」
お話中失礼しますと彼女が一度軽く皆に頭を下げて、一つ息を落ち着ける様に肩を上下させた。
「どうかしたの?急ぎ?」
「先程桜井印刷でボヤ騒ぎがあったと連絡があったんです。一部機器が故障したので少し振り替えて貰えないかと」
告げた楚良の言葉におー、と羽柴が返事をして、既に鳴海は横の社員証を首に掛けて立ち上がっている。
「幾つか割り振れそうな仕事と印刷所をピックアップしておきましたので、チェックをお願いします」
「月末にやってくれたな…分かった、直ぐ行く。お前スケジュール空けとけよ、まだ一條が仕事取るつもりらしいぞ」
余り人のいる場所にいたくないのか即身を翻そうとしていた楚良に羽柴が声を掛ければ、その瞳が一條の方へと向いて軽く首を傾げた。
「今月は難しいですがどうしてもというなら対応しますね。私に出来る事なら何でも」
「君ならそう言ってくれると思ったよ。――――そう言えば、一つ聞きたい事があるんだけど」
案の定彼女からは拒否する様な言葉は漏れて来なかった。これが二人きりの時は文句を言われるとかいうものではなく、家でも忙しそうにしながらも仕事を減らしてなんて弱音を聞いたことがない。
寧ろ忙しくなればなるほど嬉しそうである。
「何でしょうか」
「もし無人島に一つ何か持って行けるとしたら、兎と一緒に行く?」
仕事の話だろうかと思ってポケットからスマホを取り出しかけた彼女が、しかし続く言葉に皆の視線を受けて何事かと瞬いた。
無人島に兎、と、彼女の唇が呟きつつ首を傾げたがやがてそれが左右に振られる。
「兎は絶対連れて行きません。無人島では病気や捕食者も含めて安全が確保できませんし、餌も安定供給できません。飲料水の確保に難がある上に、湿度や温度も一定ではありませんから。…着火できるものか刃物が無難では」
「――――うん、そうだよね。有り難う」
「…何かの心理テストですか?」
「ちょっと君の兎好きを確認しておきたくてね」
何ですかそれはと楚良が首を傾げたが、羽柴に行くぞと声をかけられて時間が無い事を思い出したのか深くその頭が皆に向かって下がった。
失礼しますと告げた彼女が羽柴と鳴海の背中を追って小走りに駆けていく。
「ほらね?空木さんは兎第一だから。ああ言う好きなものに真摯な所は本当に可愛いよね」
3人が去って行く背中を見送っていた皆の合間に一條が口を開けば、まるで優越感を感じさせる様なその声色に流石に気付かない大人はいない。
彼女にしてみれば何を分かりきった事をなのだろうが、意識はもう仕事の方へと傾いていて振り返りもしなかった為に、視線を一條が集めている事には気付きもしない。
「さて。じゃあ午後も頑張ろうか、ごちそうさま」
空になった食器を前に両手を合わせた一條は視線を一身に受けている事など気にもせず、立ち上がり手元のトレイを持ち上げる。行こうかと声を掛ければ他の社員達も慌てて食事を片付けて立ち上がる。
また昼食を食べ逃しているらしい彼女に、何を作り置きしておこうかと仕事中に考えている一條にまつわる噂はこの日一つ増えた。
曰く、営業課課長はデザイン課空木に気があるのではないだろうか、等と言う事が。
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