第61話


「不便は無かった?」


 リビングに楚良の姿が帰ってきたのを見れば、兎達がまた布団から其方へと走って向かったものの、また距離をとられて切なそうにしている。

 その手に彼女が寝室でいつも使っている大きな抱き枕が抱えられていて、何となく一條が唇を緩めた。


「はい、大丈夫だと思います」

「先に横になってて、左、下にしたら駄目だよ」


 一條がリビングの明かりを落として兎達が物珍しそうに耳を上げる。キッチンの明かりは付いているから、彼はまだ眠る気がないのだろうかと二つひかれた布団の片方へとゆっくりと腰を下ろした。

 床に近い布団に座るのは思いの外動きが多きかったのか、少しだけ傷が痛んだ気がするが薬がしっかりと効いているのかそれ以上の痛みはなかった。

 明日からは少し寝方は考えようと思いつつ抱き枕へと上体を預ける様にして倒せば、兎二匹が寄ってきてはみたものの隣の布団の上。すんすんと鼻をしきりに鳴らしているのはどう考えても自分のせいだと思って溜息が出る。


「大丈夫?」

「兎の鼻には良くないと思います…」

「兎も良いけど自分の心配をしようね、今だけでもいいから」


 自分で布団を被るよりも早く、近くまで歩いて来た一條が隣の布団へと膝をついて楚良の掛け布団を横になった身体へと掛けてやる。自分で被るのは何となく面倒だったとか思っていたから拒否もせず、ありがたく掛けられたままにした。

 隣の布団へと腰を下ろした一條の膝にサチが一番に乗り、茶々は布団で香りがマシになったのか楚良の側へと座り込む。


「明日から送迎するから、今日はなるべく早く眠るんだよ」

「えっ。電車で行けますよ?」

「空木さんね」


 朝も夜も時間が違うからと思えば抱き枕に頭を乗せていた彼女が首を振る。ある程度予想はしていたが、一條にしてみれば頭が痛い。

「何度も言うけどそんな傷じゃないし、運悪く座れなかったら傷が開いて出血死まであるからね?」

「満員電車の時間ではないですし、それは」

「本当に君、駄目だからね。もう自分で判断するの辞めようね?」

「ええー…」


 寝転がる彼女にそう告げながらスマホを片手に画面へと瞳を下ろした一條が、溜息を吐いた。眉を顰めてそこまでの傷ではないと言い訳をしているが、彼女の判断に任せていたら何かあったときには本当に危険だ。


「本当なら会社なんて行けない傷だよ?分かってる?」

「そんなばかな…」

 当然羽柴も今日は彼女が休むものだと思って朝調整していたから、本当に驚いたのに違いない。陰島も愕然としていたし、あれは無理矢理帰さなくて良いのかと彼さえ言っていた。

 本当に彼の父親が言う通り、少し迷惑を掛けてくれた方が信頼してくれていると判じられるものだというのがよく分かった。鳴海も含めて飲み会の時は色々突っ込まれたが、本気で気落ちしている様にも見えたから。


「本当に君は一人で生きていけないレベルなんだから、大人しく従って。早く直したいなら自分で色々やっちゃ駄目だよ、家に居る間はせめて動かないで」

 そのままばたんと布団へと突っ伏した彼女へと座ったままで声を掛ければ、瞳がやや上がって憮然とした表情をされた。


 手を伸ばした一條が忘れているらしい緩んだ髪留めをするりとその先から抜き取る。


「一條さんの評価が酷いです!」

「良い機会だから少し生活を見直すといいよ。あと色んな常識」

「すごく説教をされています」

「君は家庭が特殊だしお父さんも常識離れしてるんだろうけど、君程酷くないから」

「そこまで言わなくても!?」


 抱き枕へと身体を預けている彼女が言われる度にショックを受けているのが兎にも分かるのか、側に座っている茶々が慰める様にその髪先へと顔を埋めている。

「自己判断で動く前に僕に聞いて。良いね?」

 問いかけると言うよりは命じる強さで楚良へと声を掛けてみれば瞳が一條から逸らされて暫し、少しの間の後にこくんと頷いた。


「私がどんどん駄目人間になっていくのですが。もう一條さんがいないと生きていけないレベルになってしまいます」

「そう、それは良かった」


 少しだけ彼女の方へと近付いて、その頭を手を伸ばして撫でれば兎のそれの様に瞳が細められる。

 良くないですなんて言っているが、本当にいっそ何も出来なくなって自分を側に置くしか無いとでも言えば良いのにと一條は思う。何となくその日は近い予感もしたが。


「僕はちょっと明日の仕込みをしてくるね。眠れないなら起きてて良いけど、横にはなってるんだよ」

「分かりました」

「茶々ちゃん、駄目だよ」


 サチを避けて立ち上がろうとした一條が、そろそろと彼女の身体の上へ布団越しに茶々が乗ろうとしていたのを見つけて撫でながら声を掛けた。

 何が?とでも言わんばかりだったが何となく察したらしい茶々がかけていた前足を下ろして、歩き出した一條にサチと共についていく。


 部屋の中が暗くなれば外の様子がよく分かり、上向きならば月も見えるだろうかと思ったが、寝返りは良くないと思いだして少しだけ上体を上げるだけに止める。一條がキッチンに入ってしまったのか兎達が布団の辺りへと戻って来て、彼が座っていた辺りで二匹とも寛ぎ始めた。布団は心地良いのか、それとも彼の香りが好きなのだろうか。


 いつも安心する、すこし眠たくなる様な一條の匂いが好きなのは、兎と同じ様に思っている。


 誰かと暮らすなんて絶対に無理だと思っていたし、自分に愛想を尽かして直ぐにまた別にと言われると覚悟をしていたし今も少しだけはそう思っている。一人で穏やかに兎と過ごすその生活に、会話が必要になるとも思っていなかった。

 調理器具の触れあう小さな音と、水音と。人はこういう時に眠気を感じるのだと、人の気配に安堵の吐息が漏れれば疲れている身体は直ぐに抱き枕の方へと下りる。


 もし一人でこの夜を迎えていたらきっと窓の側に布団など出さなかった。寝室に戻って、薬だけを胃に入れて、きっとそのまま眠ったか絵でも描いていただろうと。いや、きっと事件は解決などせずにこの家に留まってさえいない筈だ。

「うーん…眠れないかな?」

 洗い物をしていたのだろう僅かな水音が止まれば、キッチンの電気も直ぐに落とされ長身が再びその布団の側へと戻って来た。


「元々短い方ですので、一條さんは先に眠っていて欲しいです」

「傷の回復には睡眠と食事が大事だよ」

 告げながら再び布団の上へと腰を下ろした彼は、上着を脱いでいるだけでワイシャツとベストはそのままだし、腕は捲っているが寝るための格好という訳ではない。すっかりと身支度をしてしまった自分に比べて準備にも時間が掛かろうと思えば、楚良の口からその言葉が漏れた。


「子守歌でも歌ってくれますか?」

「恥ずかしくて僕まで眠気が飛んじゃうかな」

「一條さんって音痴なんですか?」

「ストレートに聞きにくい所を聞いてきたね。別に音痴じゃないけど、人に聞かせる様なものじゃないかな…とは」


 営業という立場だから接待もするだろうし、古い世代にはそういうものが好きな人もいるだろうしと思いつつ問いかければ案外本気で恥ずかしがっている様で、僅かに首を傾げる。

「でも鼻歌を歌いながら料理をしている時は上手だと思いますよ」

「………聞いてるとは思わなかったよ」


 彼が座れば二匹の兎がその側へ。先程までは直ぐに眠れると思っていたのに、思いの外眠気がちゃんと作用してくれない。瞼は重いし倦怠感も強いのにと思えば、一條の膝の上へと乗り直しているサチが羨ましくも思ってきた。

 これは口に出して良いのだろうかと思いながら自分の側へと座っている茶々へと目を向ける。飼い主の視線を受けてか其方に寄ってくるかと思いきや、サチの方、つまりは一條の膝へと乗ってしまったので悲しい。


「あのですね」


 本当にこのままでは流石に体調に影響が出るレベルで徹夜が続くのではと思えば、一條へと楚良の瞳が上がる。余りこういう頼み事をした事がないので、何と切り出せば良いのかよく分からない。

 二匹を膝に乗せて交互に撫でていた一條の瞳が楚良の方へと落ちて、首を傾げる。


「嫌なら断って頂いて構わないのですが」

「うん?何でも言ってみて構わないよ?駄目なら駄目って言うから」

 本当に言っても良いものなのかと迷っている縁にそう告げられて、もうその辺の判断は任せてしまおうと半ば諦めた。鳴海も言っていた、人に相対するプロに任せてしまおうと。


「上手く眠れないので寝かしつけてくれませんか。……出来れば添い寝の方向で」


 これで通じるのだろうかと思いつつも他に言葉が見つからなくて、抱き枕へと腕を預けたままで首を傾げた。散々節操だの何だのと言っていた手前、本当に言い辛いと思っている楚良の傍らで、言葉も無く一條がそれを見下ろしている。

「あの、駄目なら駄目と言って下さい」

 余りにも沈黙が長い気がしてその顔を窺って見たら、いや、と、小さな声が漏れた。


「お風呂入って着替えてくるね」

「いえ、お手間で無ければそのままで良いので。多分然程時間は掛からず眠れそうな気がします」


 風呂上がりとか朝の香りより、午後になってつけている香水が馴染んだ様な香りの方が落ち着くと過ぎる。何だかそれを口に出すのは自分が変態だというのを暴露しているかの様だったので、流石に辞めた。


 流石に一條も迷っているのが見て取れて、本当に駄目なら駄目だと言って欲しいと思いつつも見つめていれば、その指先が首元まで閉じられているネクタイへと掛かり、慣れた様子で結び目に指が入って横へと引かれる。

 流石に躊躇があったのだろうかと申し訳無く思ったが、眠いのに眠れない状況というのが思いの外辛い。特に薬が入っているのが原因なのか、気持ち悪くもなって思考力も鈍ればもう相手が断らないから良い事にするという所に至った。


「痛かったらすぐ言って。……何か、ごめんね」

「何がですか?謝るのは私の方です」


 抱き枕を避けている楚良が其方を見上げれば、シャツのボタンを二つ程外した一條が枕元へとネクタイを置いてからその布団の端を開ける。一緒に寝るのとサチと茶々が自ら膝を下りて楚良の枕元で一緒に丸くなるのは、本当に最早慣れではないだろうか。飼い主らのこの状況に。


「変な寝方を覚えちゃったから…?」

「今責任を取って下さっているので良いです」


 楚良の隣へと横になった一條の腕の中へ、寧ろ自ら身を寄せているのは余程眠いのだろうかとその元凶としては一応の反省を見せつつ、その首元へと腕を入れる。

「仕事帰りだから、あんまり嗅がれると恥ずかしい…ん、だけど」

 丁度胸元へと顔を埋めている楚良の吐息が触れて、未だかつて無い状況に一瞬声が詰まる。これは本当に色々と冷静にならなくては不味いのではと、言う通り寝かしつける様にその背中を撫でた。


「…コレに…慣れたとか。他の女性に殺されます……」


 彼女は熟睡に至るまでが本当に早い。普段眠らないというのも影響しているのか、眠いのに寝付けないという状況が珍しいと感じる程には。


 背中を撫でている内にうつらうつらとしてきた彼女を見下ろしながら、本当に今の状況に溜息が漏れる。彼女が何でも譲歩してくれるのを良い事に自分が好き勝手にやってきた反動が、この形で返ってくるとは。

 眠っている彼女に手を出すなんて、逃げる兎の如く二度と信用して貰えない事を天秤に掛けてなんとか理性で抑えてみるが、自分でやり始めた事ながら溜息を吐きたくもなる。好意を持っている女性と同じ布団で横になってその身体を抱きながら、自分でも何をやっているのだろうと考えた。良いかどうかと言う意味では無く、女性に不自由をしたことがなかったツケが回って来たのだろうか等と。


 今更彼女が他の男に目を向けるのは嫌だし、ましてや自分が追い出されて誰かとこんな風に過ごす事等は想像したくも無い。本当に最初の頃に拒否されるのを恐れず、受け入れてくれるまで何度も口説けば良かった。卑怯な手を使っているというのは、充分に自覚があるから絶対にもう自分から手を出さないと心に決めているのに、こうして彼女から近付いてきた時だけはどうしていいか分からなくなる。


「空木さん」


 その呼吸が穏やかになったと声を掛けながら楚良を見下ろせば、聞き慣れた声色はその唇からは漏れなかった。案の定その身体からはすっかりと力が抜けていて、溜息を吐いた一條が首から出来るだけそっと腕を抜いてその頭を枕に乗せておく。

 身体を起こし彼女が普段使っている抱き枕をその背中側に押し込んで、彼女が新しく一條用に買って使わせて貰っていた自分の抱き枕をその腕へと抱かせればもぞもぞとそれを引き寄せた上に顔を埋めた様でまた溜息。


 無意識に指が伸びて兎を撫でるが如くにその米神へと触れる。触れたいのは指先ででは無いのだろうと自分の姿を見下ろして思ったが、唇で触れてしまえば止まらなくなるのは目に見えている。


 本当に彼女の事を思うならば一緒に眠ったり等すべきではなかった、もう言ってしまえば一緒に住んで触れる距離を許されるべきでさえ無かった。自分で選んだ事に雁字搦めになっていて、自分で苦しんでいるのだから世話がない。

 その黒髪の先ぐらいなら、と、指先へと長い毛先を絡めれば視線を感じたのは枕元。見れば茶々が耳を立てて一條をじっと見つめている。監視されている様な気分になれば髪の先から手を離してまた眠る楚良の頭を撫でた。


「お休み」


 楚良、と、名前を呼んでみようかと思ったがそれは口から漏れなかった。酷く照れくさくて自分の中身が心配になる程。身支度をしたら自分もさっさと寝てしまう事にしよう、それこそ沸いた頭を水で冷やすのが一番だと枕元へと置いていたネクタイを取り立ち上がる。


 本当に彼女はどこまで許してくれるのだろうか、少しずつ距離を詰めて慣らして行くのは本気で小動物を慣らす方法だしそういうものは彼女の方がプロフェッショナルだと思うのだが。

 一條も理解している。我慢が効くのも理性が働くのも、彼女の傍に男の影が無いからで自分が一番近いと自覚があるからであって、本当に冷静になっている訳でも何でもない。そんな歪んだ思いは本当にさっさと洗い流してしまわなければならないと思う。


 二匹の兎の側、その眠るプロフェッショナルは夢も見ず。深い深い眠りを侵さぬ様に、一條は足音も立てずに部屋を抜けた。

 

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