第50話
丸いコーヒーテーブルの上に置いてあるクリーム色のマグカップ。最初は湯気を上げている温度だったが、時計の針がてっぺんを越えて暫くした頃に気付けばそれはすっかりと冷えて紅茶の香りも落ちてしまった。
ミルクのたっぷりと入っていたそれは暖かい間にはそれなりに甘みも感じたが、冷えてしまっては甘さは然程のものではない。
机の上には月をまたぐ仕事が同時進行で幾つか広げられていて、その中央のPCにも同じだけの仕事が展開している。先月は忙しすぎて何が何だか分からないままに終わってしまったが、羽柴には本当に珍しく凄かったと褒められて嬉しかった。
膝の上で茶々がスカートに埋まって丸くなり、先程からずっと長い瞬きをしたりとうとうとしていて、サチはその顔に自分の鼻先を寄せる形で楚良の足に頭を乗せて同じ様に瞬いていた。ラグの上に直接座っている楚良には、二匹の暖かさがとても染みる。
また机の上のペンを取って気付いた所に修正を入れて、PC画面と見比べた。絵を描きたい気分もあるが、どうしても仕事は先だ。本当に毎日やりたい事に溢れていて、睡眠時間を削っても時間が足りない、このまま勅使河原を忘れて行きそうな錯覚。
羽柴には逃避だと言われた、冷静に分析すればそうかもしれないと思えるのは、状況的に良いとは言えない。だが、逃避先があるだけあの頃とは全く違う。
家にいれば兎達は身を寄せてくれ、会社に出れば仕事が押し寄せてくる。きっとサチも茶々も心配していてこんなにぴったりと身を寄せてくれているのだろうと思う。嗅覚の鋭い彼らにはストレスの香りが分かるのだろうか、彼らの様にもっと人に優しくなれれば良いのにと思う。
助けて貰うばかりではなく助けになりたいのに、上手く行かないのは経験が足りないからだろうか。
足が痺れたと組み直すために少し緩めれば茶々の顔が僅かに上がって、口が少し動いたが直ぐにまた落ち着く所を探して目を閉じた。
小屋に戻して遣った方が良いのだろうかと目を走らせた所で、勝手口の近くにある計器類の分電盤の一つがカチリと音を立てて青から赤に変わった。あれは裏口の監視カメラのスイッチが入った音だとそれを見つめ、茶々を抱き上げて立ち上がる。その身体をソファの上へと運び、サチも乗せた所でキッチンにある裏口の鍵が落ちる音。
鍵を持っているのは自分の他には一條ぐらいだ。この時間にこの家にやってくるといえば一條しかいない。だというのに、いつもこの瞬間その姿を見るまでには数秒が数分に感じる程、恐怖を感じる。
「お帰りなさい」
その扉から現れるのがあの男だったら、と、息を詰めた瞬間にそこに見えたのは長身、そしていつもの一條の姿に息が緩まると同時に、その視界の中に鮮やかな色が飛び込んで来た。
彼の片手には腕が回りきらない程の大きな花束、色味を抑えたスーツには一層それが鮮やかに見えた。
「起きてた――――の。遅くなってごめんね」
「いえ、今日はこちらにはお帰りになられないかと思っていました。遠いのに、大変だったのではないですか?」
もう終電も無い時間だとキッチンの方へと歩いて行けば、ソファの上で二匹並んで丸くなっていた兎の耳が起きたが、二人の方へと駆けていくことは無かった。余程眠いのだろうとも思うし、もしかしたら強い花の香りが苦手なのかもしれない。
「ん、タクシー使ったから…。お酒の匂いキツいよね、…あと、今日ご飯、ごめん。作ってあげられなくて――――もっと早くに帰るつもりで」
「あの。私、一人暮らしはそれなりの期間していましたし、そんなに心配して頂かなくても大丈夫ですよ。一人で過ごすのにも慣れていますから」
荷物を預かろうと手を伸ばせば、鞄ではなく、じゃあこれをと花束を預けられた。強い香りの含んだ百合の花、多分兎の方へは持ち込まない方が良いだろうかと思う。
営業部では今日はレコード更新の祝賀会が行われていて、一條はその主役。一月の話ではあったが、早々塗り替えられない記録だとも聞いたし、社長も出席するとも聞いた。
慣れていると聞いた一條が一瞬微妙な顔をしたが、何か不快な事を言ってしまっただろうかと、キッチンのシンクに水を張る。
「何か飲みますか?お風呂も入れておきましたから、少し入ってきてはどうでしょうか」
これはかなり飲まされていると思ったのはその容姿から。あの時の様に変な薬が入っていた訳ではないから、変な酔い方はしていないが、外回りで接待をかけた時よりは酒の香りが強い。
「お風呂、準備してくれてたの?」
「お湯を入れただけですよ。花は生けておきますから、どうぞゆっくりとしてきて下さい」
近くにあったグラスへと手を伸ばして蛇口を捻った次いでにという風に水を注ぐ。リビングの方で兎達が眠ったままだと気付いたのだろうか、キッチンの側に立ったままだった長身にそれを差し出せば、少し迷ったかの様な合間の後に、それが取られた。
本当に見事な花束だと一瞬振り返り、ちゃんとした花瓶を探し出しておかなければと過ぎる。一條の長身に瞳を向ければ、その瞳が楚良の方を見下ろしていた。
「大丈夫ですか?少しぼんやりしている様ですが」
「うん…ちょっと、飲み過ぎて」
「辛かったらお風呂も無理せずすぐに横になっていても良いですよ?今日ぐらいはご自分の家だと思って、ゆっくりして下さいね」
アルコールで喉が渇いているのか一気に干したグラスは邪魔だろうかと楚良が手を伸ばし、いつもより暖かい指先がグラスを返して水が出しっぱなしだと彼女がシンクの方へと戻る。
風呂へもソファの方へも行かずに楚良の側へと歩を進めた男が立って、花を手にした彼女の方へとまた視線を投げていた。
「どうかしたのですか?――――……ちょっと、待って下さい。耳元に……」
側にきた一條からふっと香るのは彼の愛用する香水ではなく、すこしきつめの女性の香りだと気付いた。本当に疲れている様だとその香りに視線を流すと同時に、耳元へと赤い色が入った。
丁度耳朶の後ろの柔らかい辺りだと楚良の指先が伸びたが、しかし、その指先がそれに触れる前に止まった。
「済みません、何でもありませんでした。気のせいです」
それが口紅だと気付いた楚良が視線を逸らして手元へと目を向ける。そうだと先に気付けば言及などしなかった、一瞬眉を顰めた一條が耳元へと手を触れて、それを眼前に映した瞬間その柳眉が寄る。
「ごめん。お風呂に入ってくる」
「済みません…指摘するつもりでは。ごゆっくり」
謝るのは此方の方だとタオルで指を拭って告げれば、やはり少し気落ちした風な顔で身を翻した一條が扉の奥へと消えて行った。
本当に汚れではないと気付いていれば指摘などしなかった、彼には彼の人付き合いもあるし、女性関係もある。煩い女だと思われたのだろうか、そんな関係ではないのに全く、何でも口に出す等と言うのは余りにも気を許しすぎではないか。
反省しつつ花瓶を探そうとリビングの奥の扉を開いて物置へ。大きな百合と、あの美しい花束の色合いに合う大きな花瓶があっただろうかと、戸付きの棚を開いた。
流石にあの大きさの花を一つに纏めるのは難しいだろうかと思いつつも、目に付いたガラス製の花瓶を幾つかピックアップして片手に纏めて抱える。
リビングには兎の為にも置けないとしても、いつも目に付くキッチンや、それとも一條の部屋の方が良いだろうか。何処に置くかは後で決めようとキッチンに戻り、花瓶を置いてソファの方を見れば茶々の上にサチが乗って寝ていた。
今日はベッドも布団も開かれていないから寝る場所が定まらないのかと思えば、後でソファベッドを開こうかと思う。
手早く茎を切り包みを開いて花瓶へと形を整えながら挿していく。既に痛んでしまった花を取っても一つに収まらずに2つに分けたが、それ以上にはならなくて済んだ。
包み紙と花のゴミを纏めて包み、ゴミ箱へ。水のついたキッチンは綺麗に拭って手も洗い、ソファベッドの準備をしようとリビングに向かう。
本当に一條が帰ってきた程度では喜びはしても警戒はしなくなってきたと、上にいるサチの姿勢が乱れているのを見やりながら楚良の口に微笑が浮かんだ。
背もたれを倒して肘掛けも開き、ベッドの形に。その動きにも起きてはいるが面倒くさがって動かないのだから、本当にリラックスしてくれているのだと思う。収納の中から布団を一組、ベッドの上へと置けばやっと二匹の兎が敷き布団に気付いた。チッチッ、と楚良の小さな舌の音に仕方が無いなとばかりに布団の上へと移動し、置かれる枕の左右にそれぞれ二匹。最早この位置も定位置だろう。
最後に掛け布団の下へと買っておいた抱き枕を押し込めれば気付いたサチが顔を上げ、すんすんと枕の端を嗅いでいた。
「大丈夫ですよ、新しいだけです」
声を掛けながら一度サチの頭を撫でて仕事を片付けようとコーヒーテーブルの方へと戻れば、スマートフォンに着信があって軽く首を傾げた。仕事用の方だから、悪戯メールか仕事のメールかどちらかと思えば、知らないメールアドレスだ。
此は悪戯の類いかと思いつつ証拠を取る為に開いてみれば、件名に営業部水島と書かれている。メアドを教えた覚えもないが他の社員から聞いたのだろうかと、それを開いてみた。本分は無く、写真が一枚。身を屈めた一條の耳元に、水島が口付けている。
花束を手にしている一條を見ても今日の事なのだろうが、この写真を自分に送ってきてどうしようかと言うのだろうかと思う。あの口紅の相手が誰かよく分かったと楚良が理解しても、楚良にそれを送る意味が知れない。
もしかして同居がバレて牽制されているとかそう言う類いだろうかと、念のためそのメールだけフラグをつけて保存しておいた。誰かへの送り間違いかもしれないと思いつつ、コーヒーテーブルの縁に腰を落ち着けてマウスを握ろうとして、途中で止めた。
何となく一度身体を伸ばして、茶々の毛皮に顔を埋めて深呼吸してから手を離す。寝ぼけているのか、足がぐいぐいと肩を押してきたので直ぐにやめて、今度こそマウスを握り直した。
カチャンとリビングの扉が開く音、それに気付いたのか顔を上げたのはサチの方。その先を見つめる様に楚良の顔を向けば、着替えたのだろう一條が室内着でリビングに戻ってきた所だった。先程よりすっきりした顔は、風呂で多少抜けたのだろうか。
「お帰りなさい。少しは抜けましたか?」
「心配掛けてごめん、だいぶ抜けたよ」
キッチンの方ではなくまっすぐリビングに歩いてきた一條が、テレビの近くの小型冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取って、布団の敷かれたソファへと腰を下ろした。
サチに遅れて顔を上げた茶々と、二匹が一條の方へと足を向けかけて、しかし一瞬でその香りに気付いたのかその手が触れる前にぴょんとソファから飛び逃げた二匹が楚良の方へと駆け寄った。
「――――……落ち込まないで下さい」
「自業自得なのは分かってるけどショックだよ」
「お酒は営業の方からは切って離せません、仕方が無いですよ。たまには一條さんも羽目を外した方が良いんです」
机の上のマグカップを引き寄せて口に流し入れた楚良が、二匹をそれぞれ撫でてから立ち上がる。何か飲み物を自分も取って来ようと一度キッチンの方へと歩いた彼女が、冷蔵庫からパック式のオレンジジュースを取り出し、棚の引き出しを開く。
その中にしまわれていた小さな箱をオレンジジュースと共に手に取り、再びリビングの方へと戻って来た。
「先月はお疲れ様でした。それと、レコード更新おめでとう御座います。…抜け駆けの様で好ましくは無いと思うのですが、私の事でもとてもご苦労をお掛けしましたし、時期が時期ですので受け取って頂ければと」
コーヒーテーブルにジュースを置いた楚良が、水を手にしている一條の目の前に立って両手でその小さな箱を差し出した。
ブルーのリボンが掛かった薄い水色の箱。金色で描かれている文字は店の名前だろうか、見覚えは無い。
「僕に?」
「他にいません。ただ…私は人に贈り物はしないので、何を贈れば良いのか分かりませんでした」
指先は一瞬だけ触れて、直ぐに手を引いた彼女は箱を預けてから、再びコーヒーテーブルへと座り直した。
「開けてもいいかな?」
「勿論。本当に大層なものではありませんよ?」
横を向く様な位置に腰を下ろしている彼女が視線を向けて、手元のオレンジジュースへとストローを挿している。
水を傍らへと置いてするりと手触りのいいリボンを解けば、水色の箱が小さな音を立てた。アクセサリーの類いだろうかと長方形の箱を開けば中は黒いビロード。その中央に、銀色の薄いプレートが収まっていた。
「オーダースーツのチケット…」
「個人経営のお店なので有名ブランドでは無いんですが、その人に合った布地を選んで下さるそうです。予約不要で、いつでも来店して大丈夫との事でした」
ストローから口を離した楚良が呟いた一條にそう告げて、膝の上へと再び乗ろうとしているサチと茶々を二匹とも受け入れた。
「私の贈り物は多分センスが無いので、これからプロにお任せできるかなと」
「――――……凄く嬉しいよ。本当にありがとう、…でも、仕事でも迷惑を掛けたのにこんな…」
「迷惑なんて掛けられてませんよ。とても楽しかったです、だからお礼の様なものですよ」
祝賀会でも花以外に色々な物を贈られたが、これ以上に一條には嬉しい物は無かった。
薄いプレートは丁寧に箱の中へと納め直して、それを枕元へと置いておく。兎が囓るだろうかと心配はするものの、彼女が咎めないという事は大丈夫なのだろうか、今はこれを側に置いておきたい。
「今日はまだ仕事?」
「明日が無理矢理休みになりました。法務からも脅されました…悲しいです。少しでも家で片付けて置かないと」
「元々明日は土曜日だよ?」
「土曜日も日曜日も我々には関係無いのです」
水を飲んでそのままベッドに横になった一條が問いかける言葉に、微笑を浮かべて楚良が答えた。いつもなら兎が一條の布団の方へと喜んで行く様な場面だが、今は紙へと目を落としたままの楚良の膝元に丸くなったままだ。
太股を枕にする茶々と、茶々を枕にするサチ二匹はとても膝に暖かい。
「眠るまで抱っこしててもいい?」
茶々は兎も角サチが自分の膝の上へと乗ってくれる事は余り無いから、純粋に嬉しいと仕事半分でサチを鑑賞していれば、ベッドに寝そべる大きな兎の方から声が掛かって楚良が顔を上げる。
「アルコールが抜けないとさっちゃんは寄ってきてくれないと思いますよ」
「君を」
この人は何を言っているのだろうかなあと、その顔へと目を向ければ横になった一條が楚良の方に視線を投げている。
「私は固いし、今日は一條さんの方が暖かいですよ」
「でもアルコールで逃げないよ?」
「完全にアウトな方面の台詞が聞こえたんですが、気のせいでしょうか」
本当に兎の代用品にするならちゃんと毛布でぐるぐる巻きにするなり、暖かい時の方が良いのではないかと思ったが、頬杖を突いた一條の視線は外れない。
今日は何やら視線が強い。
「…駄目?」
「駄目です。身体がおかしくなるから辞めた方が良いと思いますよ」
楚良の瞳が逸らされて再び紙の方へと落ちる。それと節度なり何なりと彼女がつなげて何やら言っているが、それは以前にも言われた。
一緒に住んでいる時点で節度なんて今更だし、何度も同じ事をしてきたのに今更取り上げられるなんて。
「お願いしても駄目?」
「抱き枕を入れておいたでしょう?其方の方が柔らかいですよ」
楚良にしてみれば彼の女性関係も考えて拒否しているというのに、何故相手の方からお願いされなければならないのか。
抱き枕と言われれば一條が頬杖を解いて布団の中を探り、もそもそと枕を取り出して腕を絡め、それへと上体を預ける。確かにそれなりに柔らかいけれども。
「君がいいなぁ…」
「本当にもう――――…そう言えば、一條さん。最近誰かに私と同居をしている、なんて事を言いましたか?もしくはバレました?」
「は…?いや、無いよ。誰も知らない筈だし気付かれてない」
告げられた言葉にそうですか、と、彼女が小さく頷いてからまたPC画面の方へと目を向ける。今日も尾行はついていなかったし、いつも必ず撒くようにしているのは彼女も同じ筈だ。
楚良は仕事に集中しているが、それを問われると言う事は一條にはそれどころではない。
「何かあった?もしかして此処に――――」
「いえ、違います」
此処に男が来たのではないかと思えば、それこそ酔いが吹き飛ぶ錯覚。しかし、告げられた言葉はその風ではなく、楚良の首が左右に揺れた。
相変わらず視線は合わない。
「何があったの?」
「今日メールに、一條さんの女性関係を匂わせる様なメールが届きまして。送り先を間違えているのでなければ、私は何か一條さんとの関係を疑われているのではないかと」
「メールってどんな。…誰から」
黒髪が左右に揺れるのは心配いらないという合図なのか。上半身を起こそうとした一條に気付いたのか、やっと彼女の瞳が向いた。
「取るに足らない事です。良いから横になっていて下さい」
ぴし、と人差し指を向けられて不本意だと顔を顰めた一條が、しかし再びまた抱き枕へと身を預けて、視線だけを投げる。
「僕にも言えない様な酷い事を書かれてたの?」
「いえ、酷い事など何も。どちらかというと――――…うーん…」
どちらかというと時分云々より彼の精神を直撃するのではないだろうかと楚良が思いつつ、机の上に伏せてあったスマホへとまた視線が流れる。
「良いから見せて。本当に取るに足らないっていうなら、僕が見ても構わないよね?」
一條が告げた言葉に何やら自分がもったいぶっているだけの様な気がしてきた楚良が、伏せてあったスマホを手に取ってそれを見下ろした。
こう言う態度は彼の気に障るのではと思えば、先程届いたメールを表示する。
「誰からのメールかは分からないので、出来ればそのままに」
伸ばされた手へと自分のスマホを預けて、また楚良の視線が紙の方へと瞳を落として、一條が横になったままでその画面を見下ろした。
牽制の様なという彼女の言葉の意味をもう少し真剣に考えればこの内容は予想はできたが、どうせいつも通りだろうと一條が軽んじていたのが不味かったのか。
「本当にこういうの…見られたく無かったんだけど」
彼女が祝賀会に来ていなかったのは幸運だったと、思っていた程度には見られたくない姿。
無礼講の席で強く振り払う訳にもならないと思っている間に仕掛けられた。本当に一瞬の事だと思っていたのに、こうも綺麗に収められるというのは狙っていたとしか思えない。
「大丈夫ですよ、明日には忘れておきますから。どうして私にこんな物をとは思いますが」
もう少し効果的な方が等とまた彼女が漏らして、其方へと一條がスマホを差し出した。
それに気付いた楚良が身体を向き直らせ、再び自分の手の中へとそれを戻す。
「ちょっと油断してた隙に引き寄せられて…それで」
「そんな詳細に報告せずとも。向こうからだというのなら、後にセクハラで訴えられる心配はなくて良かったですね?」
「一瞬の事だったし咄嗟に振り払えなくて…水島さんだって気付いたのも、その後だし」
「いや、ですからそんなに詳細に報告頂かなくても。不本意だったというのは伝わりましたよ、辛かったんですね?」
抱き枕に顔を埋めている一條の頭が、こくんと上下。だから彼の精神的な部分に直撃するんだろうと思ったのに。
一瞬の油断をこうしてバッチリと収められているというのは、普段気を張っている一條にしてみれば見られたくない事だろう。
「女の子達には抱きつかれるし、色んな所にキスされるし。…辞めてって言ってるのに聞いてくれないし」
「営業部の上長というのは本当に大変ですね」
「だから抱っこして寝ていい?」
「今そのだからはどこから繋がったんでしょうかね?」
祝賀会に出なかったのは正解だったなと稀に見る羽柴の慧眼に関心していれば、また脇から懇願する様な台詞が聞こえて楚良が其方へと視線を投げる。
「だってサチが相手にしてくれないし」
告げられた言葉に自分の膝を見下ろせば、サチと茶々は全く一條の方へと行こうともせずに楚良の膝で寛いだままだ。
何となく一條が不憫になってきたので軽く足を揺らしてみたが、何とばかりに茶々が顔を上げて見上げただけで、サチは無視を決め込んでいる。
「今日頑張ったご褒美でも駄目?」
「本当に一條さんってたまにそう言う風になりますよね」
全く会社で見られない姿だと思えば楚良が小さく息を吐き、膝の上の二匹を纏めてラグの上に置いてあったクッションへと埋める様にして移動させた。
「今日だけですよ。今日が最後ですからね?」
結局楚良が折れる形で息を吐き出せば、一條の唇が嬉しそうに緩む。これはまた後で藤森に叱られるのではないだろうかと思ったが、誰にも言わなければ平気だろうか等と余計な思考が巡った。
本当にこの人にはこの先恋人なんて出来るんだろうかと、全く失礼な事を考えたがそれを口にした所で引き下がってはくれないだろう。
ベッドの縁へと腰を下ろして、思い出した様に黒髪へと手を掛ける。髪留めをするりと外して髪先から離し、コーヒーテーブルへとそれを投げた。縁から落ちずに上手く乗ったと自分で褒めていれば、黒髪の縁へと後ろから触れる感触に振り返る。
「本当に身体をおかしくしますからね?」
「鍛えてるから大丈夫だよ」
何が大丈夫かと問いかけたいがもう彼が大丈夫だというなら大丈夫だと信じよう。
楚良の毛先を遊んでいた指が離れて、その腕が掛け布団の端を上げる。一度腰を上げてからその合間へと大人しく入り込んだ瞬間、布団を上げていた腕が背中へと回って引き寄せられた。
案の定体温が高いのは彼の方、胸へと楚良の額を押し当てる様にしてもう片方の手が首の裏へと回って後頭部を引き寄せる。
強い酒の香りは先程よりはマシといってもまだ強く香っていて、これでは確かに兎は寄ってきてくれまいと、自分の腕の置き場所を探して一番掛かりやすかった男の腰辺りに回しておく。
羨ましい事に本当に無駄な肉がない。そのくせ腰回りもしっかりとしている。
「君は変な匂いがしないから、安心する」
「変な匂いって失礼ですよ。兎の香りは充分変ですよ?」
髪の中に鼻先を埋められて、辞めてくださいと抗議してみた。先程茶々に顔を埋めていた事を思い出せばその辺りは茶々の香りだろうし、サチの香りも混ざっているだろうか。
もう割と本当に一條は普通の女性と付き合えないのではと思えば、我が家は何という恐ろしい生き物を排出したのだと一瞬だけ思った。
兎は確かに人の人生を左右する魅力はあるが、何も女性が理想とする男性をピンポイントで虜にしなくて良かろうに。
「明日は何でも好きなものを作ってあげるから機嫌直して」
「悪くなっていません。何でも良いですよ、一條さんの好きな食べ物で」
抵抗するのも馬鹿らしくなってきて身体から力を抜けば、いつもの様に一條が絡みつく様に抱きしめてきて小さく唇から吐息が漏れる。
この人は女性を抱き枕にする時はいつもこの様なのだろうか、いや寧ろ男性経験の無い自分が知らないだけで男というものはこの様な物だろうかとさえ考えた。
「一條さん、苦しいです。足は辞めてください」
「でも冷えてるよ?」
「お風呂上がりで其方が暖かいだけです。一條さんって女性にいつもこんな事してるんですか?だから誤解されるんだと思うんですけど」
完全に足先まで絡めば圧迫感が強い。寝返りを打てなくなればいよいよ自分の身体がおかしくなると声を掛けたが、長身の一條相手ではどうしても完全に取り込まれるのは自分の方だ。
「他の子にこんな事しないよ…」
「そういって油断していると分かりませんよ。習慣というのは自然に出るものなので、つい人に兎扱いをしてしまうものなのです」
いつの間にか兎の話になっていると思いつつも、腕を拒否する動きがないのに好きな様にしたまま。また楚良の口から溜息が漏れている。
「君に男女間の事を説かれるとは思ってなかったな」
「常識の範囲です。大体、こういうの非常識ですよ、同居はまだ認められるとしても」
「非常識だと駄目なの?」
事も無げな言葉が降ってきて、一体何を言われたのかとばかりに楚良が上向いてみれば一條の瞳が楚良の方へと下ろされている。
駄目なの?と問われた楚良が完全に怯んで、答えるまでの間を要していた。
「将来的な事を考えると…。異性と同居している上に一緒に寝ていたなんていうのがバレたら嫌がる方は多いのでは…」
「サチもいるし当分他の誰かを作るつもりはないよ」
「そんな事言っているとあっという間に適齢期を過ぎますよ」
吐息さえ触れそうな距離なんて言うが、今一條の吐息がかなり酒臭いと思う程にはその距離を許している。カップル席とは比にならない近さは、人に漏れれば互いの事情はどうであれそういう事だというのは流石の楚良にも理解できた。
「君も暫くは僕だけにしておいて。ご飯作ってあげるから」
「何でしょう、その餌付け感満載な言葉は。心配いりません、一條さんの様にモテません」
それは事件もあるし今他の人間と付き合うから家を出て行ってと言う気もないし、何よりサチが家に来なくなればきっと茶々は悲しがる。
せめて二匹目の兎を迎えて分散するまでは等と言うのは卑怯だろうかとぐるぐる考え、また楚良の顔が胸へと伏せた。
「モテないからって君は言うけど、モテたらそれもあり得るってことなの?」
「しませんよ。一條さんと違って3日もあれば皆さん兎にそこまで必要か?とか、女性としての生活に嫌気がさして出て行くに違いありません」
いつも引かれますと彼女が溜息と共にそう告げる。上から一條が見ていれば大部分がつむじだが、その瞼が閉じられたのが見えた。
彼女にしてみれば金目当てにして寄ってくるのにせよ何にせよ、一番変えたくない部分を変えろと寄ってくる人間しかいなかったのか。人の中で一番分かりやすく露見する部分は大抵その人間が一番情熱をかけている部分で、そこが受け入れられないと言われれば距離を取る一択なのは分かるが。
「僕なら好きな女の子が好きな事なんて、絶対否定しないのに…」
「一條さんに愛される女性は幸せですね」
小さく笑っている気配は両腕の中。彼女に愛しているのは君だと伝えようとしたが、やはりそれは言葉にはならなかった。
その背中に回した腕で、小柄を胸へと引き寄せる。
「少なくとも嫌だと言っているのにキスする女性はご免かな」
外見だけを見て近付いて来る女性も、一條に理想を押しつけてくる女性も、駆け引きを仕掛けてくる癖に思い通りにならないと露骨に態度に出る女性も。
穏やかに人と付き合っていける人間だと一條は思っていたが、案外自分は好みに煩かったのだと今更ながらに思い知る。
彼女がいい、空木楚良という女性が。彼女を逃してしまえば、それこそもう二度と恋など出来ない気さえする。
ましてや楚良が誰かとこんな風に夜を過ごすなんて、想像するだけで気が狂いそうだ。
今まではそれこそ付き合った女性と終わる時は、早く新しい恋を見つけて幸せに暮らして欲しいとさえ思ったのに。
「ほら、もう眠ってください。一眠りしたらさっちゃんも寄ってきてくれますよ」
腰に添えていた手を離した楚良が黙り混んでしまった一條の頭の方へと伸ばし、その髪へと手を入れてよしよしと撫でた。手の届きにくい場所だが、風呂上がりでもいつもしっかり乾かされていてきっちりとした人だなと思う。
手の動きに安心した様に目が閉じて、一つ酒の香りのする息を深く吐き出した一條の腕は緩まない。もう少し撫でていて、と、彼特有の眠り際の甘みを感じる様な柔らかな声を最後に、その口が閉じた。
本当に大きな兎に見えてくる、甘える風は特に彼の飼っている兎にそっくりだ。息が深くなるまで撫でてやり、手を止めても瞳が開かないのも動きが無いのも確認してから自分に回っていた腕をそっと外す。
深い眠りに落ちているなら今だとばかり抱き枕を変わり身の様にその腕へと入れ替えて、布団を整えまた楚良が息を吐いた。
仕事を始めようとまたコーヒーテーブルの側へと座り込めば、茶々が足下が危ういままで楚良の方へとやってくる。かなり眠いのだろう、ばたんと勢いよく楚良の太股で横になり一瞬で眠りに落ちて行くのが可愛くて兎が収まりやすい様に足の位置を変えておいた。
穏やかな夜は本当に色々なものに守って貰っている。茶々も、サチも、勿論一條も。部長達や羽柴、事情を知らない会社の皆すら楚良に言葉を沢山くれる。彼らの恩義に報いたい、期待に添えて喜ばせられる人間になりたい。それは傲慢な考えだとは思うから、それが自然に出来る様に努力を重ねなければと思う。
照明を落として手元に明かり。オレンジジュースの吸い口へと唇を当てた所で、仕様書と違う場所がある事に気付いた。
今月はきっとローペースだなんて羽柴の言葉を信じてはいけない。常に全力で当たらなければ、自分は一番若輩者で経験不足なのだから。
本当にもっと頑張ろうと一度一條の顔を伺えば、気持ちよさそうに眠っている。こういう時に一番に視線が向くのは足下の茶々の筈だったのにと思ってまた溜息を吐く、一條に嫌われたくはないなと思ったのは楚良にしては珍しかった。
いつもは嫌われたとしてもそれが自分の身の丈だし、繕った所で露見すると思う質だ。取引先にも緊張が少ないのは、勿論失敗の恐怖もあるが、自分の全てがその仕事に現れているのだから隠す必要もないと思えるから。
この思考は深く追求しない方がいいと、スケッチブックを一つ折り返した。先ずは仕事だ、自分に出来る事を全てやる為には余計な思考は不要だと、楚良は愛用のペンを筆箱から取り出した。
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