第55話 前
ロフストランドクラッチ型の松葉杖は、最初は普通の松葉杖よりも酷く頼りなさそうに思えて不安だったが、身体を預けてしまえばそうでもないと思った。
「では、帰りには連絡を下さい。迎えに参ります」
「藤森さんは父についていた方がいいのでは?」
「そう判断した時は人をやります。間違っても電車に乗って帰宅などは考えないで下さい」
後部座席で杖を片手に取りながら前から聞こえる声に顔を向けてみれば、停車した運転席から藤森が声を掛けた。
身を逸らす様に直接楚良の方へと目を向けている彼の顔は厳しい。
「別に歩けない程ではないのですが」
「本来歩いてはいけないという事を忘れないで下さい。あり得ませんよ」
何やら酷い事を言われていて、鞄を肩に掛けながら楚良が溜息を吐いた。彼が運転席から下りる前に一人で大丈夫ですと告げて、後部座席のドアを開く。
昨日父親と話した後、一人になりたいと2人に告げて、父と一條が退室した後にずっと色々と考えていたが暫くしたら朝になっていた。熱も出なかったし構わないかと医者を説得し、安静にするならという条件で一泊で退院できたのは幸運だ。
仕事は座り仕事が中心だし色々と事後処理もあるからと出社を決めて家に帰れば、祖父から連絡を受けたらしい藤森がすっ飛んできた。何やらとても色々と呆れた感じで、絶対安静だと言っていたが何とかそれも説得して、藤崎の車で出社の運びになった訳だが。
兎がすっかりと祖父に懐いていて、まあこの飼育環境なら大丈夫だろうと珍しく褒められて、その浮かれた気分は本当に何でも出来る様な気がしてならない程に体調が良いと言うのに、何故家で一日中寝ているという拷問を受けなければならないのか。
車を降りて後部座席を閉じ、運転席の方を覗き込めばもう一度溜息を吐かれた。軽く頭を下げた藤森が車を出すのを見送ってから歩き出す。杖なんか大仰ではないかと思ったが、あれば案外楽だ。手水に立つ事を考えてもこういうものはあった方が良かったと思うから、その辺の判断には感謝している。
本当に病院ではする事も出来る事も殆どなくて時間が勿体なかったから、一泊だけで済んだのは良かったと思う。考えなければならない事は色々とあったが、何やら全てを先送りにしたい気分になったのは、兎が手元にいなかったせいにしたい。
少しだけ不規則な足取りで会社のエントランスの方へと向かい、迷いも無くエレベーターの方へと向かう。物珍しそうな視線は昨日あの場に居なかった者も含めてだから、すっかり色々と広まっているのだろうと思ったし、奇異の視線で見られるのは寧ろ良く有る事だと思ってエレベーターに乗り込み、目的階のボタンを押した。
そこへ辿り着くのには殆ど時間も掛けず、そして開いたドアに同じフロアの見知った顔が何故か驚いた様に自分の方を見ていると楚良が思った。
別におかしい事はしていないが10時に間に合わなかった上に杖が大仰だったのだろうかと思いつつ、とりあえずオフィスに向かおうと歩き出せば、前から外出の格好で歩いて来た一條と目が合った。その隣にいた陰島には死人を見る程度に驚いた顔をされたので、軽くショックを受ける。
「本当に出社してきたんだ?」
「何故にその様に皆さんに驚かれるのか分かりません。もしかして死亡説とか、退職したと思われていたのでしょうか?」
近くまで歩いた一條が足を止めて溜息を吐きだしその顔を見下ろせば、楚良は憮然とした表情で男の方を見上げて居た。大仰な溜息は一條の口から、それこそ隣の陰島に聞こえる程には。
「多分お説教は羽柴がしてくれると思うから僕は良いよ」
「何故叱られる事になっているのですか?」
本当に出社、とは。一條自身としても藤森から楚良が朝一で退院して出社するらしいと連絡があった時に、それこそ冗談かと思ったが彼はそんな冗談は言わないだろうと思って覚悟していればこれである。
「なんでだろうね。無理はしちゃ駄目だよ?薬が切れたら早退でも何でもする事、あとちゃんと昼ご飯は消化に良い物を選ぶんだよ」
「分かりました…」
全く納得していない顔で楚良が頷いて、そして再び歩き出す。何故と言われても休む必要を感じなかったからだが、藤森には理解していただけなかった。
多分一條にも今の感じでは理解していただけていないと思うが、後でお説教は辞めて欲しい。
「おはようございます、昨日はご迷惑をお掛けしました」
「いや、お前なんで出歩いてる。入院したんじゃなかったのか」
戸を開いてそのまま中へと滑り込み、羽柴の方へと向かってそう頭を下げた瞬間に、あっけにとられていた様な彼から声が降った。顔を上げた楚良が眉を寄せたが、本当に口が半開きのまま固まる表情というのは羽柴にしてみては珍しいと思う。
「経過観察で一泊しただけですよ。何故皆さん私に長期入院を勧めるのでしょうか」
「俺がおかしいのか?いや、お前昨日刺されただろ」
「刺されたというか掠っただけですよ。真っ直ぐ抜けたのでさしてでした」
「いや、病院からかなりの傷だったと聞いたんだが!?」
歩けますよ大丈夫ですよと言って自分の席へとついた楚良が、そう言えば一昨日帰ったきりになっているとPCの電源を入れつつ、杖は後ろにかけておいた。ちょっと縫っただけですと言ってはいるが、報告書にはそんな記載じゃなかったと羽柴がそれをもう一度確認したい気分になる。
「お前が出てくるかもしれないなんて朝一條が言ってたが、本当に出てくるとは思わなかった」
「欠席連絡も入れてないのに出ない訳にはいきません。お給料が減ります」
「お前が馬鹿だというのは前々から思ってたが、本当に自分の身体は顧みないな?」
「大事にしています。私が倒れれば兎が路頭に迷いますので。でも本当に痛み止めが効いていますし、出血もしない様にきっちり固定してもらったんです。お医者様にも許可を取って退院しましたよ?」
溜息を吐いた楚良に、最早語る口が見つからないと言わんばかりに羽柴が机に突っ伏して、そのままの姿勢で本当に大丈夫なのかと掠れた声がかけられた。
いや、本当に大丈夫ですと答えているが、絶対に信用できない。
「休暇申請を入れたら帰るのか?」
「いえ、定時分までは働きますよ。徹夜はちょっと…」
「流石に俺を何だと思ってるんだお前は。出てきたものは仕方がない…本当にお前への説教の仕方が分からんから、今度じっくり教えてくれ」
「怒らないで普通にしてて下さいよ。何で皆怒る前提なのですか」
「見ろよ、鳴海なんかドン引きしてるじゃないか」
「私の何がいつもと違うのでしょうか。普通通りです、ちゃんと働けます。昨日の様に血まみれでもありません」
完全に凝固しているらしい社員らを見ながら、楚良が左右に首を振った。いつも通りに手早くメールを処理し始めた楚良に、溜息を吐きたいのは此方だとばかりに彼らの口からそれぞれに溜息等が漏れる。
本当に出てくるなんて思わない、帰ってきた一條の服についた血の量を見ても、文具用カッターだから大丈夫だろうと思っていた自分は甘かったのではと羽柴が認識を改める程度には。
内臓が傷ついていなかったとしても、外に滲む程度の量なら小柄には危なかったのではないかと思うし、昨日の傷が今日ふさがりましたという訳ないだろうに。彼女に許可を出した医者は余程の薮だったのか。
「空木。今日は雑用はいいから座って出来る仕事だけやってろ。幾つか抱えてる分終わらせに来たと思って良いんだな」
羽柴が考えて居る間に鳴海が楚良に声を掛け、いつもの様にファイルを片付けようと立ち上がり掛けた楚良が少し悩んだ後に再び腰を下ろした。
気遣いであるとも感じたが、正直楚良の仕事は山積している上に法務が厳しいのを思い出す。
「昨日やらなければならなかった分から終わっていません」
「神原氷菓の分は昨日終らせたが、ベビー用品の方は手付かずだ済まない」
「私の仕事ですから…。其方の方は比較的簡単に終わりそうなのですが、曾根崎の商店街のイベントの方が規模が大きいので手こずりそうです」
「あれもお前か。羽柴、いつまで寝てる」
楚良がマウスを右手で持ちつつ、左手が机の上からファイルを取り上げる。その様子を見ながら、大きく溜息を吐いて羽柴が顔を上げ非常に緩慢な動きで机の前からペンタブのペンを取り出した。
「曾根崎は俺がやる。空木、代わりに1枚の仕事幾つか持って行ってくれ」
「分かりました、課長の仕事からで言えば――――…クレイゲームス社の名刺デザインをやってみたいのですが構わないですか?」
「あれ黒系だぞ」
「駄目そうなら早めに言います」
珍しいと一瞬だけ皆の視線が楚良の方を向いたが、羽柴の問いかけに楚良が答えて、数秒考え込んだらしい羽柴が分かったと直ぐに答えた。
有り難う御座いますと礼を返した彼女が付箋紙に会社名を書き付けてモニターの横へと貼り付ける。楚良が袖を折り返して腕を捲り、照明に掛けてあった兎のキーホルダーを軽く叩いた。
集中してしまえば時間の進みは驚く程早く、皆にも普段通りの自分だと受け入れて貰うのには時間も掛からない。終えなければならない仕事に差し支えもなく、昼食を過ぎてからやっと一息吐く。
「羽柴課長、少し休憩を取ってきます」
「おー。お前、昼食どうなんだ?薬とか飲まなくていいのか」
「昼は痛い時に飲む薬だけなので大丈夫です」
「ならいいが。入らなきゃ無理にとは言わないが水分だけでもちゃんと取れよ」
分かりましたと彼女が頷いて後ろから杖を取り僅かな動作で椅子から腰を上げ、財布を片手に歩き出した。しかしその身体が扉へと辿り着く前に、向こう側から扉が開いて外回りから戻って来た一條の姿。
「休憩?」
「はい、少し何か飲んだら戻ります」
「少し待ってて、僕も行く。話があるんだけど、時間は大丈夫?」
「ミーティングルームの方が良いですか?」
「仕事の話じゃないから」
さらりと零された言葉に何、と言いかけた口はしかし閉じた。楚良が立ち止まったその一瞬の合間に彼はオフィスを突っ切って自分のデスクの方へと向かう。待っていてというのは休憩室でという意味だろうと、その背中を見送っていた楚良も歩き出した。
本当にいつも隙無くスーツを着こなす人だが、外回りから帰ってきたばかりだというのに一部も乱れていない。それこそ髪先一つ。
見れば自分は腕まくりをしたままだし、黒髪は解けかけているが思いの外手を上に回すのが辛かったのでそのままだ。昨日兎に会えなかったのは互いの筈だが、彼は本当に普段通りだと思った。
「空木さん、待っててくれて良かったのに」
「いえ、休憩室で待っていようかと…」
「デザ課の休憩室は椅子が無いでしょ。営業の方なら今は誰も使ってないし、椅子もあるから」
丁度部屋から出てデザ課の休憩室の方へと向かおうとしたその背中に声が掛かり、腰辺りへと手が触れる。楚良が顔を上げれば隣には長身、上から案じる様な視線が下ろされていて営業課の休憩室とやらの方へと何となく視線が向く。
「あそこは確か外から丸見えでは…」
「声は聞こえないし居心地はいい筈だから」
デザ課の休憩室を通り過ぎてエレベーターに近い方、確かあそこはデザイン性の高いガラス張りの休憩室で、それこそ華やかな男女がお洒落な飲み物を片手に寛いで居る所ではなかっただろうか。
そんなデザインだから鍵の閉じるデザイン課の休憩室が利用されていた訳だけれども。
「昨日は済みませんでした、折角来て頂いたのに荷物の持ち運びだけになってしまって」
「少しは眠れた?」
「ぼんやりしていたら朝になっていました。やはり気が昂ぶっていたんでしょうか」
そう、と、吐息を緩める様に溜息を吐いた一條が営業課の休憩室の入り口へと社員証を翳す。デザイン課の休憩室とは違ってそれこそ営業課の人間を含めてしか利用できなくなっているのは何だか羨ましい。その分監視カメラもきっちりと入り口を向いている。
扉を開いた一條に促されて中に入れば部屋の中は広くソファも応接室と同程度のグレードで、何となくデザイン課との差を感じつつ促された奥側のソファへと腰を下ろした。
「今日ぐらい大人しく病院に居てくれると思ってたけど、僕が甘かったね」
「兎はいないしやる事はないし本当に具合も悪くないんです。許可は貰っていますよ」
「安静が条件だって聞いたよ」
「傷が開かなければもう良いとお医者さんが」
完全に脅されたか泣き付かれたのではないかとその言葉に一條が溜息を吐き、自販機ではなく傍らに置かれていた業務用のコーヒーマシンを慣れた風に操作すれば、部屋の中に良い香りが漂う。
エレベーターからオフィスに向かうにはどうしても休憩室の前を通るから、先程から人の目が痛いと楚良が廊下の方から視線を逸らして一條の背中を見つめる事にした。
「食事はいつも通りでいいの?」
「特に食べるものは抑制されていません」
「お風呂は?」
「少なくとも暫くは駄目ですね。お風呂もお酒も煙草も多分駄目だと思います、後者二つはどうでも良いですが…」
楚良は余り湯船に浸かる習慣は無かったと聞いたが、一緒に住み始めてからは毎日湯船でゆっくりしていた様だし、そうでなくとも身体は綺麗に洗い流すのを好むというのを一條は知っている。
プラ製のカップを片手に彼女の隣へと腰を下ろし、楚良へと其方を差し出せば杖を置いた彼女がそれを両手で取った。
「然程深い訳ではなかったので長くは掛からないと思いますが、濡らすとその後の処理に気を遣わなければならない様ですので」
「他に何か気をつけなきゃいけない事は?安静以外で」
「寝返りに気をつける様には。良く捻る部分なので、枕とか布団を詰めてあまり寝返りを打たない様にと言われました。まあ大部分は身体が勝手に痛みを感じて止まるそうですが」
「暫く一緒に寝てあげるから、お布団引こうか」
「えっ」
その香りからこれはデカフェの珈琲だと悟って、そこにも怪我人に対する気遣いを感じていたが、事も無げに零された台詞に思わず楚良が声を上げ、驚いて其方へと目を向ける。
何?と一條が隣の小柄を見下ろせば彼女の顔には、驚きましたと描いてあった。
「気付いたら直してあげられるでしょ?」
「いえ、そうではなく――――――――。事件が片付いても一緒に住むのですか?」
彼女の首が傾げられて、そしてもう一度ぱちりと瞳が瞬いた。その質問に言葉を失った一條もその小柄を見下ろしたままで沈黙が落ちて、そして間。
彼女の膝にはカップが両手で包まれたまま、ゆら、と湯気が上がった。
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