第56話 後
「……駄目かな?」
「うー…ん…」
何を言い訳にしようかと考えて居る間に懇願する様な言葉となって漏れて、結局ストレートに願望を告げる様な声になる。
流石に難色を示した楚良の首が、また傾く。
「仕事の調子も良かったし、また子兎も見られるかなって。…やっぱり駄目?」
「うーん…」
「お願いを聞いてくれると、嬉しいんだけど」
その口から漏れてきたのは他の理由は何もない、一條の希望を告げる言葉の羅列。それを聞いていた楚良が暫く悩んだ風な様子を見せた後に、ふっと吐息を漏らした。
「分かりました。何でもすると昨日言った手前ですし、お願いであれば聞きますよ。当分私も消毒薬の匂いなどで兎に構って貰えないでしょうし、触診などをして下さる方も必要ですから」
多分ここで折れるのが彼女なのだろうと一條は思う。あの父親が言った様に純粋な好意どうこうで考えれば断るべき所を、理由をつけて受けてしまう所が。
あとで触診の仕方を教えるのでお願いします等と言われては、勿論と笑顔で一條が答える以外にはない。
「本当に良いんですか?私は多分まともに生活できませんよ。兎が構ってくれないのもあって」
「君のそういう所は嫌いじゃないけど心配になるよ。放っておいたらご飯だって食べないし」
「毎日でなければ水とサプリだけ飲んでいれば大丈夫だと」
楚良がこれを本気で言っていなければ冗談として受け流したかも知れないが、最も効率的だという理由で本当にこの様な生活だったらしい。徹夜が出来る体質のせいで時間があるだけだと彼女は言うが、色々と駄目な形で時間を確保しようとするのは明かだ。
「それともう一つ。こちらはお願いというより、多分もうどうにもならないんだけど」
どうにもならない等と言われてみればそれほど重要な事なのだろうかと、両手でカップを包み込んだままで口元へと運ぶ。
瞳が合わせられてまた、僅かな間。
「僕と君の噂、もう否定するのが疲れたからしなくていいかな?」
「私が一方的に好意を持っている等という噂、疲れる程否定しなくとも消えるかと思うのですが」
「そっちじゃなくて、僕と君が付き合ってるって噂の方」
「――――……はい?」
それこそ彼女の顔が信じられないものを見るようなそれになり、凝視というのが相応しい様な表情で一條の方へと向けられている。
この人は何を言っているのだろう、とでも言いたげだった。
「勅使河原の事もあって都合がいいから曖昧に返事してたんだけど。その上にあの状況で鍵を出したから、流石に誰も嘘かもなんて思ってくれなくてね」
「あの後フォローをしなかったんですか」
「どちらかと言えば、しても無駄だと思う。君も聞いたかも知れないけど、慰安旅行の時のアレもちょっとね…」
本当に何を言い出すんだこの人はという視線を向けていた彼女が、慰安旅行のアレと言われればその内容に直ぐに思い当たった様だ。
「それはちゃんと否定しました。何で――――」
「あれね、本当は嘘でも噂でもないんだよ」
もう一度彼女が問いかけようとした言葉が止まって、カップを両手で握った楚良が完全に凝固していてその瞼さえ動きを無くしている様だった。
止まったのは思考もなのか、次の言葉さえ唇から漏れない。疑問の声さえ。
「本当はあの時、部屋から連れ出して君が眠るまで時間があってね」
「……え、…ええ」
「珍しく家で居るみたいにリラックスしてたし、サチみたいに懐いてきたからどうしたのかなって思ってたんだけど」
「なつ、……懐いて」
「うん。周りに人も居たし廊下に出てからも結構見られてね」
そう言えばあの時立って歩いていたと言われていなかったか。サチの様にと一條が言うなら相当ではないか、すりよったり頬に口付けたり、膝に乗ろうなんてしたのか自分は。
「覚えてる?」
「覚えてません!!」
両手で顔を覆って俯いた彼女の口からそれを裏付ける様な言葉が漏れて、だろうね、とは一條の口からは漏れない。
本当に覚えていなければそこまででは無かったと否定したのに違いない。
「で、僕もあの時少し酔ってたしされるがままでね。人が居ないと思ってたんだけど、何となくサチみたいだったし、君も僕の事兎と思ってたみたいでそれで」
「もう最後まで言わなくて良いです!寧ろ言わないでください、お願いします――――っ」
どちらがとはあえて一條の口からは漏れなかったのに、楚良は完全に自分がやったと思う方。絶対無いと思って色々と過ごしていたのに、何故本人の口から詳細に告げられなければならないのかとばかりに遮った楚良が、黒髪を左右に振った。
「まさか見られてるとは思ってなくて。ごめんね?」
「いえ、いえ、悪いのは私ですから。大虎をしたのも私ですからっ。…本当にご迷惑をお掛けしまして、どう謝罪をすれば良いか」
兎可愛いとか思っていれば自分もどこにキスしたかは定かではないし、多分病気の事もあるから兎として扱っていたなら口はしてないとは思いたいが、周りから見ていればそんなのはもう関係ないだろう。
茶々にやる様にとか、サチがやる様にとか、人間相手にやらかしたなんて本当に考えたくもないし思いたくもない。
「そういう所は見られてる訳だし、今回もフォローしようがないから、否定すればする程面白がられると思うしね。同居の許可も出たなら事実一緒に住んでるし、お互い会社で相手を見繕う気もないし、誤解される相手もいないし、特にデメリットも無いと思うからどうかな?」
果たしてこれは本当にそういう話に繋がるんだろうかとか、色々と今の状況やら含めて考えてみたが、一條が無理という噂話を自分の様なずぶの素人がどうこう出来るとは思えない。余りに内容が衝撃的すぎて、何だか傷まで痛む錯覚。
これは本当に会話で大金を動かす職業のトップを走る様な人が導き出した結論なのだろうか、と、思えば従うのが上策なんだろうけれども、自分の常識が付いてこなかった。
「一條さんにはデメリットしか無いと思うのですが。私はもうこんなですから噂話などどうでもいいですが、一條さんまでそういう目で見られるのは…。兎マニアでぱっとした容姿でもないですし、愚図やら駄目やらと言われていますし、変わり者だとかゲテモノ食いだとか言われるのは見ていて辛いのですが」
「誰がそんな事言ってるの。僕は聞いた事無いんだけど」
「い、ろいろです」
確かに最近はそんな風に言ってくるのは会社を去ったあの人間ぐらいだが、それでもどう考えても釣り合わないだの正気に戻れだの彼が言われるのは目に見えていると思うのだが。
「色々なら気にしなくていいよ。別に僕もどれだけ言われても気にしないし、寧ろそれで少し他の女性が引いてくれた方が色々と仕事に集中できるから」
モテすぎて仕事に差し支えがあるみたいな類いは、初めて聞いたと突っ込みたい現実逃避をぐっと抑えて、顔から手を下ろした楚良がそのまま口元を覆って考えて見る。これはどう考えても、同居を了承した時点で色々と詰んでいるという奴なのではと思えば、ちら、と、横の一條へと瞳を向けた。
「どうしても僕が生理的に受け付けないとかなら諦めるけど、君が不快にならない様にするし、君さえ折れてくれれば噂の訂正をしなくていいから楽なんだけど」
畳み込む様に告げられて完全にまた思考が止まるかと思った。色々と迷惑を掛けているのは明かで世話にはなっているし、彼がそう言うのならそれは彼の判断であって此方への気遣いだけではないだろうから、不快なのを嫌々ではないと云々、ぐるぐる思考が頭の中で回る。
「嫌ではありません。…分かりました、その提案通りに致します。流石に一緒に住んで居るのに生理的に無理など思いません。でも、本当に良いのですか?本当に色々気苦労を掛けると思うのですが」
「いや、僕としては楽になるから。噂の訂正云々もだけど、君と同棲してるって事になるなら、LINEを隠したり話掛けるのも人づてなんてものにしなくて済むし」
何やら笑顔でそんな事を言われれば、同棲などという言葉が楚良の心臓に突き刺さる。
同棲というのだろうか同居では駄目だろうかと思ってみたが、付き合っている事になる男女が一緒に住んだら明らかに同棲で正解だった。
「何より兎と一緒に住んでるのを隠さなくて済むのは本当に嬉しいよ」
「嗚呼…毛の処理などは大変そうでしたからね」
「今まで通りに気はつけるけど、毎日緊張して会社に行くのも嫌だからね」
毎朝それこそあの細い毛一本紛れ込ませない様に、匂いもつけない様にと気を遣う一條を見ていれば申し訳ない気にもなっていたから、これはこれで良かったと思うことにした。
しかし本当に一條は会社で恋人を作る気がなかったのかと知れば、ならどこで見繕うのだろうかとか、本気でサチの側で骨を埋める覚悟をしたのでは等と思ってしまう。それはそれで問題があるのでは。
「この先どう会社で過ごせば良いのか…」
「辻褄合わせは僕がやるから否定さえしないでいてくれれば大丈夫。君は他の人に馴れ初めやら時期やら聞かれたら、気付いたらそういう事になってたって程度でいいから」
「実際気付いたら一條さんが家にいてくれる様になっていました」
「まあ君にしてみればそうかもね。僕にしてみれば手順は踏んだし許可も取ってるよ」
そうですが、等と彼女が呆然とした感じで呟いているのを見れば、一條の指先が黒髪の方へと伸びて落ち掛かっている髪留めへと掛かった。
何というまでもなく、あっち向いてと窓側を指さされ、一條の方へと項を見せる様な形になる。
「別に嫌がる事をされていないならちゃんと生活できる様になるのだから、一條さんに任せておけばと今日祖母に言われました」
「理解して貰えて良かったよ。嫌なら言ってくれていいから」
嫌ではありませんとまた小さく漏らす楚良の項辺りに指先の感触。手を後ろに回すのは辛かったのだと思っている間に、髪が髪留めから外れる感触と、続いて零れていた髪が纏められた。
今は髪を預ける様な関係だが、本当に最初は近付く気もない人だったし、羽柴の悪戯が無ければこんな事にはなっていないだろうと思う。そもそも二人でどうこうという話さえなければ、兎の話題など出なかっただろうから。
色々な出会いもあったし、人生の重りと一つ別れた。未だに傷跡は残してしまったが、それは多分ふさがるのを待つだけの傷だ。
藤森に一條の節操のなさはもう楚良が嫌がらない限りは目を瞑る等と今朝言われたが、一泊を許した時点で節操がないのは自分の方だとも思った。
「羽柴に抱きつくのを許しちゃ駄目だよ?」
「何だか最近腰の細さを気にされるんです…。体調管理といわれたのですが駄目ですか」
「もし本当に付き合ってたら、僕は絶対許さないけど」
「まるでさっちゃんの様です…!」
「羽柴ならどうか分からないけど、許す男の方が少ないと思うけどね」
まさかサチに例えられるとはと思いつつかの兎を思い浮かべて見るが、一條が本に集中していただけでわざわざ構いに来るのを思えば嫉妬深い方だと思われているのだろうか。
どういう意味だと問いたかったが、それは問わずに常識的な範囲内で答えておく。本当に雁字搦めにでもしようかと思ったが、今の彼女の人付き合いはある程度許すべきだろう。フェイクで彼女にお断りだとは思われたくない。
「難しいです。男女の機微は私にはよく分かりません」
「君は怒るかもしれないけど、君にしてみれば手順も飛ばしてるし、判断に期待はしてないよ」
「怒りません。実際に男性に相手にされたのは勅使河原の一件ぐらいです」
彼女の背中が気落ちを表す様に肩を上下させたので、髪を結って手を離した一條がその頭を軽く撫でて置く。その事件はまだ話のネタにするのには早すぎる。
先程からチラチラと外から休憩室を窺われているが、最早無視が正解だと思った。
「君に好意を持っている人間は少なくないけど、それに気付いたからって浮気は駄目だよ」
「どう考えても私よりモテる一條さんの方が浮気の可能性が高いと思うんです」
できたよと手を離せば、楚良が再び一條の方へと身体を戻して有り難う御座いますと頭を下げる。恋人同士の様に告げて見れば、まるで恋人同士の様に溜息と共に返された。
折角囲い込んだのにいきなり好きな人が出来ました、等と言われたらちょっと一條としてもどうなるか分からない。
「それだけ慣れてるって事だからね、自慢は出来ないけど」
「本当に一條さんに任せました。美味しいご飯とさっちゃんが居てくれるので私は天国続行です、不満がありません」
「他人の美味しいご飯に釣られて秘密をバラしちゃ駄目だからね?」
「多分口は固い方ですし、賄賂に興味もありませんので大丈夫です」
本当に他の女性ならば毎日の餌付けなんか必要無いし楽だとすっと脳裏に過ぎった事は、流石に他の女性に失礼過ぎるので辞めた。
それを理解した上で厄介な女性に惚れたのだし、一番近くに居られるのだから自分も不満がないという事に気付く。
「秘密を共有するのに、君はこの上ない相手だね」
もう誰に見られても構わないと楚良さえ諦めている様で、見ればその男が人差し指を唇の上へと置いていた。
視界の中へとそれを収めた彼女が、軽く肩を竦める。
「そうでしょうとも」
自慢げにというよりは自虐的に。溜息と共に吐き出されたその言葉は、隠しに隠してきた父親の話であるとか、そういう事に纏わるのだろうか。
秘密というのは首輪の様なものだと一條は思う。
二人でそれを秘すのならば、互いの吐息に手をかける様な所行になるのだと思った。
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