第68話

「お早う御座います、法堂さん、鳴海主任から連絡ありました?」

「おはよ。いや、俺にも無いよ。羽柴課長に聞いてみた?」

「鳴海主任もいい大人だから解決したら帰ってくるから心配するなと」


 嗚呼言いそう、と、上着を脱ぎながら笑いデスクにつく法堂に楚良がそうですかと答えて息を吐いたが、その大部分はマスクに吸収されて不快な湿気となって帰ってきた。

 会社ではあまりマスクをしてこなかったが、昨日の色々を考えると確実に伝染していると考えるのが妥当だが、症状が出ていないのを考えても休むわけにはならないし、身体の抵抗力とかそういうもので発症無しという方向に期待する。


「羽柴課長どうだった?」

「今丁度熱のピークの様で死にかけてましたね。見舞いに来てくれと言われました」

「あの人殆ど家に帰ってないから買い置きも無いとか言ってたな?行くの?」

「行きませんよ。この間充分余裕があったでしょうと指摘したら、バレたかとか言ってましたし」


 本当にあの人は調子よく人に言うが大抵冗談なので辞めて頂きたい。一瞬本当に一人暮らしで辛いから等と言われてどうなのだと思ったが、絶対上がり込まない方がいい。

 のたれ死にする前にきっと一人で何とか出来る筈。成人男性だし。


「空木、だいぶ仕事捌けてきてるけどどうする?」

「もうすぐ営業も通常に戻るかと思いますので、今日残りを片付けましょう。新年度の仕事が増えてきますので、一応備えておいて下さい。少し共有ファイルの中も片付けておきたいので、重要なファイルにフラグ付けてもらってもいいでしょうか?不要なものは全て保存に回すか倉庫行きになります」

「お願いねー」


 皆から頼んだ、等と言われればとりあえず手元の仕事を片付けなければと思う。もし倒れるなら少なくともPCの端に張られている付箋紙は全て片付け無ければ。

 Chevalierは時間が掛かるから後回し、情報0で絵を仕上げるのは初めてではないが本当に時間が掛かるし集中力も要するから他の仕事を急ぐ。急ぐが当然ミスは許されない。


「お、空木。待ち人来たれりだぞ」


 一番最初の仕事を片付けて一息吐く合間も無く次の仕事へと手をつけた瞬間、隣に座っていた法堂に肩を叩かれて楚良が顔を上げる。肩に鞄を掛けてオフィスの扉をくぐっている鳴海が目に入って、楚良が顔を上げれば真っ直ぐに自分のデスクへと向かってきた鳴海と目が合った。


「鳴海主任、ど」

「空木、サンプル」

 どうでしたか、と、聞く前に鳴海のデスクではなく楚良のデスクへと向かってきたその男が、鞄を掛けたまま上着も脱がずに楚良に手を差し出した。

 顔を顰めた楚良は色々と聞いた方が良いのだろうかとか、一度怒らせた事だから鳴海が出る必要は無いと言おうとしたが、見下ろす鳴海に迷いは無い。


「空木。鳴海に任せとけ」

 後ろ、つまりは皆のデスクの方から声が掛かってみれば、楚良が一瞬躊躇した指先を伸ばして、机の上に立ててあった黒い箱を手に取る。


「このサンプルの香りのメインはクチナシです。それにもう少し甘い香りが足されている様ですが、クチナシが強すぎてよく分かりません。今までChevalierの開発は、濃密に絡みつつも身体に馴染む香りを好んでいたので、こんなにピンを立てる様な香りも珍しいと思います。これ自体の香りは嫌いではありませんが、身体に付けるのには危険な強さの香りです。例えば、薄めて部屋に流す香りなら相応しい強さだと思いました」


「分かった。今から出てくる」

「上月さんなら今外ですが、もうすぐ打ち合わせが終わる時間だと思います。…お気を付けて」

 楚良がサンプルに則して描いたデザインと、上月の電話番号を書いた付箋紙をその端に貼り付けたものも併せて鳴海の方へと差し出せば、直ぐに黒い箱と共にそれが取られて長身が身を翻す。


 何か吹っ切れた様なのはその姿から、扉を抜けつつ鳴海がスマホを耳に当てていたが、すぐにそれも見えなくなる。


「鳴海もやるねえ」

「なあ、空木、実際の所はお前どう思ってんの?サンプル違い」

 仕事が緩いのもあるが、Chevalierが動くと分かれば皆の緊張やストレスなども解けたのか、椅子へと伸びたり飲み物を取ったりと部署の空気が動いた。

 問われて楚良が画面に向けていた顔を皆の方へと向けて、一度手を止めた楚良が珍しく飲み物に手をかけて椅子を回して身体も向ける。


「直感的な部分だと違う、と言ってしまったのですが、その後ずっと考えているとやはり悩むところはあります。――――…こう、恥ずかしいのでずっと言って来なかったのですが…」

 いつも迷いの無い言葉が、珍しくそこで止まったなと皆も楚良の方へと顔を向けて、同様に首を傾げた様子に思わず楚良の唇が緩んだ。


「私はアイデアが止まる様なスランプを経験してこなかったので…。もしかしたら、今のChevalierがそれなのかな、と」

 だから不安はあります、と、楚良が零す言葉に皆が彼女の方へと目を向けて、隣の法堂などは頬杖をついて彼女を見つめる。


「空木のスランプって多分そういう奴じゃないよ」

「あー、分かる。多分羽柴課長のタイプじゃないかな」

「羽柴課長にもスランプの時期ってあったんですか?」

「移ってきたばっかりの時より、多分来てから半年目ぐらいが一番酷かったんじゃねえかな。お前に似てたよ」


 似ていると言われれば楚良が首を傾げて法堂の方を眺め、あれは酷かっただの確かに似てるなどという昔話に笑う者や、何があったんですかと問いかける者様々だ。

 自分も聞きたいと法堂を促してみれば、その肩が竦められる。


「羽柴課長ってほんと、此処来たばっかりの時はお前に似てたんだぜ?仕事振らずに全部自分でやって、文句も外に言わないっていう。見てて分からないから部署内でも暫く気付かなかったんだけど」

「描けてなかったんですか?」

「いや、描いてた。ギリギリ相手に受け入れられる範囲のを描いてた。で、スランプに気付いたのが皆上部長で、滅茶苦茶怒鳴り合い」


 は?と、楚良が意外そうに瞬く。ぱちぱちと瞳を瞬かせた楚良に、アレは凄かったとその時の事を思い出しているのだろう社員達は懐かしそうだ。

 私生活や性格は兎も角、仕事上の手腕については完全無欠だと思っていたからその話は珍しい。


「取引先がOK出したならやれてるっていう羽柴課長VSそもそも及第ギリギリで何威張ってんだ馬鹿野郎な皆上部長でね。その時やっぱり羽柴課長は営業に戻すって話もあったんだけど、その時課長になる人間がいなくて」

「そんな事があったんですね?」

「その時白羽の矢が立ってたのが鳴海主任なんだけど、今の空木と一緒よ。来て一年程度だったけど無理矢理ーみたいな、勿論凄い嫌がってたのも一緒。まあその時は羽柴課長が怒鳴り合いでガス抜き出来たのと、鳴海主任が営業NGで無理だったからそのまま」

「その時と全く同じ状況で空木は受けてて、流石に今回は鳴海も色々悩んでたみたいだから、ちょっと周りもお前を利用したのは許してやってよ」


 許すもなにもと首を振って楚良が思えば、寧ろ追い詰められていたのは羽柴ではなく鳴海の方だったのかと思う。

 あの時余りにもあっさりと自分には無理だと言っていたから、その気は一切無かったのかと思っていた。


「あれ、営業NGが無くなると鳴海主任が課長になれるって事ですよね?私が悩む必要ありませんでしたよね?」

「まあ鳴海主任がどう出るかっていうのは分からなかっただろ?親が親だからな。お前が一條課長と組んでやってるのはちょっと見たかったんだけど」

「辞めてくださいよ、絶対色々断り斬れずにデザイン課がパンクしてましたよ」


 分かってるのかよと皆に爆笑されているが、此処まで回りから色々と言われて気付かない方がおかしいだろうに。自分はもう技術家として徹するのが一番だと思っている、絵だけ描いていれば一番パフォーマンスが上がるタイプなのだきっと。


「まあおかしいと思ったら何でも言えよ。ずっと歪なままでやってきたんだ、お前には感謝してる」

「来たばっかりの時はこうなるなんて予想もしてなかったよね」

「いやあ、俺は絶対何か空木はやらかしてくれると思ったね」

「またまた」


 声が次々に上がって、皆が本当に楽しそうだと楚良は思った。短い合間に驚く程の修羅場を超えて何となく一員になってみたが、楚良が一番新人ということは、彼らには自分の知らない苦労がそれこそいくらでも詰まっているのだろう。


「じゃあ、Chevalierがサンプル違いでなかったら、皆さんにお任せします」

「その時は祝スランプだな?みんなで飲もうぜ」

 やったーと法堂の言葉に皆が沸き立っているが、スランプだと飲む事になるのか。何だかそれはそれで楽しそうだなと思えば、少しは気が楽になってきた。


 仕事に戻ろうとPC画面へと向き直った楚良がマスクの下で自然と笑みの形になる唇に気付けば、伏せて置いてあったスマートフォンを手に取る。


 彼らが出社する頃には色々と状況が変わっているのだろう。一條と羽柴、2名の名を入れて。Chevalierが片付きそうです、と、短いメッセージは直ぐに電子の海を泳いで二人に届くのだろうと思った。

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