03. より困難なものへと

 イオストラは半ば呆然としてそこから望む景色を見つめていた。


 レムレス平野から命からがら逃げ出し、山中を駆け回り、獣道を超え、荒れ果てた山道を必死に歩いてようやく辿り着いたその場所は、遠くビクティム要塞を見下ろす崖の上だった。

 高く切り立った崖を降りる道はない。


「……私を騙したのか。」


 イオストラは殺意に近い感情をこめて、首から下げた宝玉を握り締めた。


「おいおい。」


 呆れたような声と共に、エルムが姿を現した。


「騙したとは人聞きの悪いことを言う。要塞が見える、としか言わなかったろう?」


 エルムは悪意の透ける笑みを浮かべる。


「それに、うっかり近づかなくて良かったじゃないか。」

「どういう意味だ?」


 エルムは無言で要塞を指さした。イオストラは目を凝らすが、結局何が言いたいのか解らない。


 説明を要求すべく口を開いたところで、突然右目の前に奇妙な紋章が浮かび上がった。不思議に思って触れようとしたが、指は何の感触も得られないまま紋章を通り抜ける。金の糸のような何かで繊細に編まれた紋章の中央は丸く抜けていて、そこには景色が映し出されていた。


 イオストラはハッとした。紋章の中の景色が、左目に見える景色を拡大したものだと気が付いたのである。


遠視えんし創世術そうせいじゅつの一種、望遠ぼうえんだ。」


 エルムの説明を聞きつつ、イオストラは望遠の視野をビクティム要塞に合わせた。苦悶くもんが喉から漏れた。

 見知った制服を身に着けた連中が、要塞内を動き回っていた。ヒルドヴィズルだ。要塞は門を中心に各所が破壊されていて、いまだ生々しい血の跡が残っている。


「そ、そんな……」


 血の気が引いた。頭の中に冷たい空気が流れ込んで、目の前が白く染まる。イオストラはその場にしゃがみ込んだ。頭を低くすると、彼女の長い黒髪はすっぽりとその体を覆った。

 滝のように流れる黒髪のカーテンの内側で、イオストラは震える指先を抱え込んだ。ひどく冷たくなっている。


(情けない……)


 イオストラは自身に向けて吐き捨てた。

 だが、どうすればいい? ビクティムが陥落させられれば次に陣を置くべきはフロルだが、要塞を通過できないとなるといちじるしい遠回りを余儀なくされる。敵の進軍速度を上回ることは難しいだろう。


 イオストラは深く息を吐いて、ゆっくりと立ち上がった。眩暈めまいは治まっていた。


「アンビシオンを目指す。」


 西の都アンビシオン。かつてリニョン王国の都として栄えた大都市だ。神聖帝国の一部となった今でもその威容は健在。イオストラにとっては本拠地である。


「エルム、フロルへの使いを頼まれてくれないか?」


 この戦いの中心人物はイオストラだ。反乱軍の長であり、中心であり、大義そのもの。イオストラの行方が知れなければ、いかに優秀な将も平静ではいられないはずだ。捜索にも人手が割かれているだろう。せめて状況を知らせておかねばならない。


「手紙をしたためるから、それを届けてくれ。」

「おや、それは願い事かな?」

「違う。奇跡の力は使うな。その二本の足で走って、手紙を届けて、また走って戻って来い。」

「それはまたご無体な……」


 エルムは億劫そうに溜息を吐いた。


「奇跡の力など使わずとも、俺は人間の中で一番速く走る者の全速力をしのぐ速度で永遠に走り続けることができるし、地形にも影響を受けることがない。そんな俺に手紙を届けさせることは、お前のルールに抵触しないのか?」

「……ギリギリだ! いいから行け。」


 相手がヒルドヴィズルという禁じ手を使ってきたからこその窮地だ。こちらもある程度の禁じ手は使わざるを得ない。……だが。


「残念だが、イオストラ。俺は封珠ふうじゅから離れられない。」


 エルムはイオストラの胸から下がった宝玉を示して悲しげに言った。そうだった、とイオストラはほぞを噛む。理屈はよく解らないが、エルムの本体はこの玉であるらしく、従って大きく距離をとることができないのである。


「だが、俺自身が封珠を持ち運べば――」


 そう言って差し出された手を拒むように、イオストラは封珠を握り締めた。


「ああ、いい判断だ。それを手放すべきではない。」


 いかにも優しげに、エルムは頷いた。


「お前の手紙を俺が届けることはできないが、お前をフロルまで瞬時に運ぶことはできるぞ。」

「却下だ。」


 ここぞとばかりに負担の大きい代替案を提示するエルムに、イオストラはことのほか冷たく応じた。


「お前の無事を知らせたいのなら、まだいくらでも方法がある。お前の声を直接相手の頭に送ってやろう。」

「私の麾下きかはそんな方法で送られてきた情報を信じるような馬鹿ではない。」

「ならば信じ込ませてやればいい。フロルで指揮をっているラディエイト将軍は実に人望が厚いそうではないか。彼がお前の無事を鵜呑みにすれば、それを疑う奴などいない。声に僅かなしゅを混ぜるだけの簡単な――」

「止せ!」


 この男はイオストラの望みを意図的に歪曲わいきょくさせ、より困難なものへと誘導しようとしている。そう思えてならなかった。


「常識的な手段を使う。どこかの街で鳥を借りるさ……」


 イオストラは苦い声で言った。エルムはそうだなと微笑んだ。


「ビクティム要塞を経由せずにアンビシオンに行くとなると……尾根道を進むか、南下して砂漠に出るか……」


 ぶつぶつと呟きながら、イオストラは荷の中から地図を引っ張り出す。


「いずれにせよ、ここに長居すべきではないんじゃないかい?」


 エルムの声には僅かな警戒心が含まれていた。イオストラの脊髄を電気が通り抜けた。振り返ると、山道を上って来たらしい男が立ち尽くしていた。嫌になるくらいに何度も目にした制服……。ヒルドヴィズルだ。

 イオストラが咄嗟とっさに剣に手をかけると、ヒルドヴィズルは即座に戸惑いを引っ込めた。


「反乱軍の者か……!」


 低い声でヒルドヴィズルが問うた。


「……いな。」


 イオストラは剣を抜き放つ。


「貴様の目の前にいるのが皇帝である。反逆者は貴様らだ……!」


 高らかに答えるイオストラの姿を映したヒルドヴィズルの双眸そうぼうに、剣呑な光が生まれ出た。

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