41. 私だって頑張った

 頭の黒い蜥蜴トカゲを探しにデセルティコへ行く、という法王の言葉を、リャナは深読みしすぎたのかもしれなかった。

 というのも、法王はデセルティコに着くなり、本当に頭の黒い蜥蜴を物色し始めたのである。


 デセルティコ砂漠周辺で飼育されているオオアシは黒と白のまだら模様が特徴的な品種なのだということを、リャナはこの時初めて知った。


「あのオオアシはなかなか可愛いじゃないか。イオストラに似ている。」

「ほお、イオストラ皇女はあれに似ているのですか。これは意外な……」


 似ているわけがない。そう口を挟みたいのを、リャナはぐっと堪えた。


 エルムと法王は和気藹々わきあいあいとオオアシを見て回っていた。他の地域では見ない色味のオオアシを愛でる二人。戦場に居ながらにして戦火ははるか遠い。


 まるで遊覧船から魚の殺し合いを眺めているかのようだ。

 あるいはこれが、彼らが普段眺めている景色なのかもしれない。


「随分とイオストラ皇女にご執心のようですね。」


 薄い笑みを浮かべて法王が呟いた。


「首ったけさ。」


 エルムは軽い調子で答えた。


「あの子が幸せに生きるために、なんでもしてやりたいと思っている。」

「すればよいではありませんか。その方が何かと話が早そうだ。」

「そうだなあ。」


 エルムはふと、目を細めた。エルムに鱗を撫でられたオオアシはきょときょとと首を傾げた。


「俺としては、あらゆることがあの子の思う通りに進み、誰もがあの子を愛して尽くし、あの子が心にも体にもかすり傷一つ負うことなく幸せに生きて死んで行ける……そんな世界にしてやりたいのだが、あの子はそれを望まない。成長の機会だとか、やりがいだとか……自ら試練に身を置きたがる。実に興味深い。」


 リャナは密かに胸を張った。自分の力で何かを掴もうと必死にあがく人だから、付いて行きたいと思ったのだ。借り物の力を振りかざして我が物顔をするような輩であったなら、リャナは忠誠を誓ったりしなかった。

 だが、法王の評価は違うらしい。


「度し難い。大人しく結果だけを求めたのなら、このように見苦しいことにはならなかったでしょうに。」

「その愚かさがまた、愛おしい。」


 エルムの目が薄青から赤へと変じる。法王はうんざりしたように溜息を吐いた。


「あんな小娘のためにこれまで積み重ねたものを捨てようというあなたもまた、度し難い……」

「そうかな? 意外にも利害は一致するんじゃあないか?」


 法王は眉根を寄せてエルムを見た。


「イオストラは試練を求めている。お前は敵を求めている。」


 エルムは怪しく囁いた。法王は眉根に刻んだ溝を深くする。


「彼女が私の敵たりうると?」


 法王の問いに、エルムは無言の笑みを返した。彼の目の色はさっぱり定まらない。


――白の魔法使いは法王に敵を用意する。


 クエルドの言葉が、リャナの脳裏に蘇った。



*****



 扉が音を立てている。


 どうしてこうなったのだろう。

 ようやく能力を証明する場ができたと意気揚々いきようよう聖都を出発した日のことを、ライフィスは遠く思い出す。あれからまだ二ヶ月も経っていないというのに……。


 イオストラを倒し、自分を差し置いて兄や異母姉ばかりに注目して讃える連中を見返すはずだった。自分がここにいることに気付いてもらえるはずだった。

 それなのに少し戦いを長引かせてしまったために聖教会の介入を招き、ラタムに手柄を掠め取られた。


 イオストラと戦っていたのは自分なのに。


 イオストラと競っていたのは自分なのに。


 イオストラの好敵手は自分しかいないのに。


 めきり。頑丈な扉が音を立てて歪む。認知から一瞬の間を置いて、扉が弾け飛んだ。

 おぞましい破壊を為したのは、小柄で華奢な少年だった。あるいは少女かもしれない。いずれにせよ、ライフィスは判別を待たずにその人物から視線を逸らした。


 彼の目を釘付けにするものは他にあった。


 幼い時間を脱し、見知らぬ大人の姿になった従妹。


 自分の凡庸さを容赦なく突き付けて来る、おぞましい存在。


「……私は外で見張っていよう。二人でよくよく話をしたまえ。」


 あざけりを含んだ声でそう告げて、扉を破壊した少年は壊れた扉の向こう側へと姿を消した。イオストラはそれを見送ってから、ゆっくりとライフィスを振り返った。


「久しぶりだな、ライフィス。」


 彼女の落ち着いた口調は、ライフィスを憐れんでいるかのようだった。胸の底から、怒りがせり上がって来る。


「イオストラァ……」


 奥歯がきしんだ。


「投降しろ、ライフィス。兵士たちに武装解除させれば、手荒なことはしない。」

「黙れ!」


 ライフィスは不器用に剣を抜いた。イオストラの目が冷やかさを増した。


「従者を下がらせるだと? 余裕のつもりか!」


 イオストラが手にしている武器は古めかしく貧相な銃一丁。ライフィスは剣を振り被ってイオストラに走り寄る。

 イオストラはライフィスに銃口を向けなかった。彼女の目的はライフィスを捕らえることであって、殺すつもりはない。銃では殺傷力が高すぎる。斬りかかられても発砲するわけにはいかなかった。

 イオストラは大上段から振り下ろされた剣を銃身で受け流し、銃床をライフィスの顔面に向けて突き出した。ライフィスは無様に尻餅をつく。剣が乾いた音を立てて床に落ちた。熱く痺れた鼻の奥から、どろりとした生臭い液体が流れ出した。

 鼻骨の熱が涙腺に染み入って、目から零れる。


「どうして、お前なんかに……」

「玉座を取り戻し母上の無念を晴らすために、これでも努力を重ねて来たのだ。皇子という身分の下にぬくぬくと守られて育ったお前とは努力の度合いが違う――」

「私だって頑張った!」


 ライフィスは血を吐くように叫んだ。


「いつもいつも比べられて、見下されて! 良いところは全て兄上と姉上が持って行ってしまうんだ! 私には何も残らない。機会を与えないくせに、皆私を見て溜息を吐く! 見返してやりたかった。私を見なかった連中が私に釘付けになるような、そんな見せ場が欲しかった! 私を選ばなかった連中に、目にもの見せてやりたかった!」


 脚光を浴びる自分の姿をいつも想像していた。賞賛と憧れを一身に浴び、ライフィスを見下してきた者たちに否を突き付け、選ばれない悔しさを思い知らせてやりたい。妄想しているだけだったのに、それなのに……。


 自分と同じ、選ばれないまま忘れられた存在だったはずのイオストラが華々しく挙兵した。


「私たちはずっと一緒だったじゃないか……。何故私を置いていくんだ。」

「ずっと、一緒?」


 イオストラのいぶかしげな声が、ぼろぼろになったライフィスの自尊心を鋭くえぐる。


「一緒だっただろう? お前だって選ばれなかった。忘れられていた。でも、私はお前を忘れたことなんてなかった! だって同じだから!」

「……一応、確認したいのだが。」


 イオストラの声が冷たく暗い怒りを帯びた。ライフィスは濡れた目を瞬かせる。冷や水を浴びせかけられた意識の表面を、熱を失った涙が伝った。


「私とお前が、同じ? それはつまり、私がお前と同じくらい恵まれていた、という意味か? 私たちは同じ境遇にあったと、そう言いたいのか?」


 脳内で響く警報音を意識しながら、ライフィスはガクガクと頷いた。イオストラの手がライフィスの襟を掴んで引っ張った。引き寄せられた頭がイオストラの額とぶつかって鈍い音を立てた。


「ふざけるなよ……」


 くらくら回る意識の中で、ライフィスは怨嗟に満ちた声を聴いた。


「貴様と私が同じだと? よくもほざいたな。私は母上を殺されたのだぞ? それも、貴様の父親に。」


 間近で見る黒い目には激情が宿っていた。


「選ばれなかった? 違うな、私は捨てられたんだよ。捨てられて、忘れられていたんだ。ああ、私は確かに貴様と同じく凡人だよ。最近それが解ったとも。だから、母上が健在であってもツァンラートやセレナと同じ場所にいることはできなかったろうよ。貴様がぶつくさと文句を垂れながら安穏としていたその場所が、私の本来の居場所だよ。貴様が私から奪った、私の場所だ!」


 イオストラに気圧けおされて、ライフィスは喉を鳴らした。


「ああ、そうか。解った。私が本当に欲しかったのは、玉座なんかじゃなかったんだ。お前の席だったんだ。」


 イオストラの口元に歪んだ笑みが浮かぶ。


「優しい母上がいて、兄弟姉妹に、この国の頂点に立つ父親に……! 私には二度と手に入れられないものをたくさん持っているくせに……!」


 イオストラの手がライフィスの取り落とした剣に伸びる。


「お前を見ていると、虫唾が走る……!」


 向けられた刃が鋭利な光を放つ。


「ま、待て! 待ってくれイオストラ! し、死にたくない! 私はお前の従兄なのだぞ!」


 イオストラの目が揺れた。切先が震える。


「うわあああ!」


 ライフィスは力一杯イオストラを押しのけた。虚を突かれたイオストラは体勢を崩し、ライフィスは銃を掴んだ。銃口をイオストラに向ける。


 己の努力をかさに着て、ライフィスの努力を頭ごなしに否定する輩。


 己の不幸を押し出して、ライフィスの悩みを嘲笑あざわらう女。


 ライフィスの卑小であることを否応なく押し付けて来る、忌まわしい影。


 捻れた友愛と同情は恐怖と敵意で上塗りされて、刹那的な殺意に転じる。


 激しくぶれる銃口がイオストラを捉えた。


 震える指は意識と無意識の境で、痙攣するように引き金を絞った。


 銃声が響いた。



*****



 ふと、エルムが動きを止めた。


 いつも浮かべている薄ら笑いが消えていた。


 空気が不穏にのたうった。


 弾雨の中でなお平静を保っていたオオアシが俄かに恐慌状態に陥って逃げ出した。


 得体の知れない不安に襲われた人々は身に迫る実際の危険を一時忘れ、敵味方なく顔を見合わせる。


「何……?」


 リャナが周囲を見回して視線を戻した時、そこにエルムはいなかった。


 溶けてしまったかのように、彼の姿は消えていた。



*****



 命がこぼれ出してゆく。


 銃弾に抉られた左の脇腹に空いた穴は、呼吸の度に熱い液体を吐き出した。


 宛がった手の指先が冷たくなり、感覚が失われる。流れ出すものにも熱を感じなくなってゆく。


 自分の身体の持っていた熱が失われて、世界と平衡になる。


 死ぬのか、とイオストラは胸の内で呟いた。


「そんなつもりじゃ……」


 ライフィスの動揺しきった声が遠くに聞こえた。


「血……血が……」


 血が流れて頭が冷えたのだろうか。最前までイオストラを支配していた怒りと憎しみは、どこかへ消えてしまっていた。ただライフィスに投げてしまった言葉が悲しかった。


 世界が歪む。


――手のかかる子だ。


 音のない世界で、低く滑らかな声が脳をくすぐった。

 視界が白に塗り潰される。

 形を失う自我の中で、脇腹に宿る熱だけが、イオストラの存在を守っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る