第七章 白の魔法使い

42. 自分が泣いている理由も知らない馬鹿な子供だ

 気が付けばイオストラは奇妙な場所に立っていた。


 視界を占めるのは透明な水を湛えた巨大な湖。それを囲うように、白く光る木々が並んでいる。幹も枝も葉までもが、硬質な輝きを帯びた純白。

 湖の中心にはことさら大きな白い木が、透明な水に根を下ろしていた。深く、深く……。


 イオストラは湖に向けて一歩踏み出した。高く涼しい音がした。足元を見れば、白い木の枝が地面を覆い尽くしていた。足を進めるたびに枝が砕けて美しい音を奏でる。


 湖の淵に立って、イオストラは息を呑んだ。


 水はどこまでも透明で、遥かな深みまで光を通している。深淵からの光も同様に透過していた。湖の深部に、緑に輝く光が無数の筋を為してのたうっている。


 光に向けて捻れて伸びる巨木の根は水底の光を覆う傘のようだった。


 その巨木の根元に、人影があった。


 子供だった。質も長さも一定でない銀の髪をした子供が、湖に半身を浸して泣いていた。


 駆け寄ろうとして湖に踏み出した足が、何の抵抗もなく落ちる。え、と思った時にはすでに、イオストラの身体は自由落下を開始していた。浮力は働かず、そのくせ水のような何かの感触は体に纏わりついてくる。


 永劫とも思われる落下時間、イオストラは必死に助かる方法を考えた。

 遠ざかる水面を見上げれば、木の根の傘の内側にたくさんの人が浮いている。全てエルムと同じ外見の人だった。自助の算段も忘れて、イオストラはその光景に釘付けになった。

 音もなく、動きもない。透き通った水の中、氷のような静謐に浮かぶ美しい人々。


「エルム!」


 思わず叫んだ瞬間、唐突に落下が終わった。澄んだ水がイオストラの体を支え、押し上げてゆく。


 エルムたちを置き去りにして水面を破る。泣いている子供が遠くに見えた。その子に向けて伸ばした手を、しなやかな長い指が包む。


「やあ、呼んだかい? イオストラ。」


 凪いだ水面にエルムが立っていた。


「エルム?」


 イオストラは目をしばたかせた。浮力が借りを返そうと決意したようで、イオストラの身体はまだふわふわと浮いていた。そのせいか、心もまた平穏ではない。


「水の中に、エルムが……」

「エルムは俺一人だよ。」


 指を絡めるように握った手を、エルムがぐいと引き寄せた。


「全く、お前は手のかかる……。落ちるとか溺れるとか、典型的な子供の事故じゃないか。それくらいは自分で気を付けてくれないかな。もう子供じゃないのだから。」

「……子供」


 不思議と反発を覚えなかった。イオストラの意識は今も、泣いている子供に占められていた。


「なあ、エルム。あの子……」

「自分が泣いている理由も知らない馬鹿な子供だ。気にすることはないさ。……それよりも、」


 エルムはイオストラの視界を遮って、子供の姿を隠してしまう。


「いつまでもこんなところにいるものじゃない。早く帰りなさい、イオストラ。」


 イオストラは改めて周囲を見渡した。


「ここは、どこなんだ?」

「端的に言えば、夢だな。」


 優しい声でエルムは言って、イオストラの髪に指を通す。


「体にも心にも悪い場所さ。急いで退散するに限る。」


 想像すらしたことのない神秘的な風景も、奇怪な物理法則も、夢ならあり得るのかもしれない。だが、イオストラにはこれが夢だとは思えなかった。


「あの子、泣いているじゃないか。」

「優しくする相手を間違えるな。」


 不意にエルムの言葉が冷気を帯びる。


「ここにはお前の優しさを受ける資格のある奴はいない。」


 エルムの向こう側から、すすり泣く声が聞こえてくる。


「あの子を助けてやりたいんだ。」


 エルムは驚いたような顔でイオストラを見つめた。令色を示した双眼が、暖色を宿す。困惑の表情は、やがていつもの笑みの中に埋もれた。


「それは叶えてあげられない。ここでお前にできることは何もないんだ。」

「でも!」


 不意に、エルムの手が離れた。イオストラの身体は重力を忘れたように際限なく浮き上がる。


「そのまま行け。いずれ帰れる。」

「エルム、お前は?」

「俺はここから出られない……」


 遠い目をしてエルムは答えた。イオストラの心臓が不安に脈打った。


「エルム? だ、駄目だ! こっちに来い!」


 目一杯手を伸ばしても、既に二人の距離は埋められない。エルムはにこりと笑って手を振った。


「エルム!」

「……ありがとう。」


 あまりにもエルムらしくない言葉は、不吉な響きを帯びていた。

 不思議な湖が小さくなってゆく。湖を囲う白木の垣の外側には何もない。ただ闇が広がっているばかりだった。

 イオストラ自身もまた、闇に溶けて消えた。



*****



 まるで悪夢のようだと、クエルドは己の置かれた状況を嘆いていた。


 常識からも人道からもはみ出してしまったライフィス皇子を最大限利用して処分する。あるじの方針に間違いはなかったし、クエルドも手際よく任務を全うした。

 人と情報をうまく使うことで、戦況を完璧に手玉に取った。結果、イオストラに新たな仲間と勝利を、ライフィスには適切な処分を、それぞれ与えることができた。


 誤算はティエラだった。法王や白の魔法使いと時を共有する怪物。現存するヒルドヴィズルどころか、過去に存在したヒルドヴィズルを全て含めてなお最強の一角に名を連ねるであろう化け物が、デセルティコに紛れ込んでいたのである。


 その化け物に、クエルドはしかと手を握られていた。


 ライフィスの部屋の隣に潜んでいたところ、突然入って来た彼女に身柄を押さえられ、ゴート族の屋敷まで連行されてしまったのである。

 働きすぎる心臓が血流を速め、クエルドの意識をどんどんと押し流そうとする。


 同じ部屋に、法王と白の魔法使いがいた。白の魔法使いはソファでごろごろしているし、法王は部屋の調度品をあらためている。彼らは何ら特別なことをしていない。だが、長く生きたヒルドヴィズルはいるだけで他の存在を圧倒する。よわい二千を超える個体が三騎揃ったその部屋は、低い人口密度に反して狭く感じられた。


 クエルドは出入り口の前で所在なさげに直立不動しているシスルに視線をやった。彼女が白の魔法使いの捕虜になったのはクエルドの企みも絡んでのことだったので、この状況には少しばかり罪悪感が芽生えた。

 リャナとカレンタルはと言えば、超常の三騎を気にも留めずに、眠り続けるイオストラの心配をしていた。


「守っておいてくれると思っていたんだがな。」


 白の魔法使いがちくりと呟いた。クエルドの隣で含み笑いが生じる。


「悪かったよ。だが、おかげでお前は私の前に現れた。」


 ティエラは緑に輝く目を白の魔法使いに向けて、そうっと細めた。


「久しぶりだな。」


 どこか懐かしげなティエラの声に、白の魔法使いは気まずそうに目を逸らす。人間的な反応にクエルドは驚いた。


「お前はいつも私の傍らをすり抜けていく……」


 ティエラはぽつりと呟いた。白の魔法使いは色を変える目をくるくると泳がせた挙句、思い切りティエラと逆の方角に顔を向け――


「それにしても、どうしてイオストラは目を覚まさないんだろうな。傷は塞いだのに。」


 強引に話題を転換した。ティエラの指に力がこもる。クエルドの腕の骨が悲鳴を上げた。


「いい夢でも見ているんじゃあないか?」

「ああ、その通りです。」


 黙って成り行きを見守っていた法王がティエラの言葉を肯定すると、彼女の指がますます強張った。クエルドの背中に、じっとりと汗が広がった。


「あなたが傷を治すために注いだ根源ノ力に意識が引っ張られているのですよ。幻術の基本でしょうに。出力に任せて適当に奇跡を起こすからそうなるのです。」

「……ああ、なるほど。そう言うこともあるか。カレンタルは平気だったがなあ。」


 所在なさげにイオストラとリャナの間で視線を往復させていたカレンタルが、ギョッとしたように白の魔法使いを見た。


「あなたが治療をしたなら、影響が無いわけがない。多少なりとも白の魔法使いが混じるのですから、何かしら特別な存在になりますよ。前例もあるでしょう。」


 カレンタルはみるみる青ざめて、イオストラが横たわるベッドの影に隠れた。


「さて、イオストラ皇女を目覚めさせたいなら意識を引っ張り上る必要があります。一番うまくやるのはフルミナでしょうが、私にも可能です。お助けしましょうか?」


 法王はゆらりとイオストラに近付き、彼女に向けて手を伸ばす。


「触るな。」


 低い声で白の魔法使いが言った。不定色の目が宿した極寒の色に応じて、部屋に押し込められていた空気が一気に氷結した。身を凍らすような沈黙が鼓膜を圧迫する。息をするのもはばかられる緊張に、さすがのリャナも動きを止めた。


「……俺がやろう。」


 白の魔法使いが柔らかな笑みを浮かべると、空気は温度を取り戻した。止まっていた時間を取り戻そうとするように、心臓が忙しく音を立てた。


 白の魔法使いがイオストラの額に指を置く。伏せた睫毛まつげの下で、彼の目が次々と色を変えた。皆が彼の手元に注目する中、ティエラがごく小さな声で言葉を紡いだ。


「……よくフルミナのことを知っていたな。」


 鋭敏なヒルドヴィズルの耳は、彼女の言葉をはっきりと捉えた。クエルドは無表情に努めた。


「有名人ではありませんか。」


 同様の小声で法王が応じる。


「確かに彼女は有名人だし、天才的ではあるけれど、お前が気に掛けるほどではあるまい。」

「酷いことをおっしゃる。彼女のように己のわざを高める努力を怠らない者は、私の大いに好むところです。」

「才能の大きさも頭のネジの飛び具合も、いささかか半端だと思うがね。」

「まるで私が無才無能の者に記憶力を割かないかのようではありませんか。今上帝の名を覚えているこの私に向かって。」


 著しい不敬発言を耳にして、クエルドは密かに冷や汗をかいた。


「無才無能にも記憶は割くだろうさ。利用できる者であれば。」

「それは誰とてそうでしょう。どうせ百年後にはいなくなる有象無象など、覚えるに値しませんのでね。」


 入り口の前に立つシスルが身を乗り出すようにして二人の話を聞いているのを、クエルドは視界の端に捉えた。もう少しさりげなさを装うことはできないのか。諜報任務に向かない人だとつくづく思う。


「フルミナは確かに今代に名を馳せている。だが、歴史に名を刻む器ではない。それはお前も解っているだろう。」

「さて、どうでしょう。三年後には違う評価になっているかもしれませんな。」


 クエルドは視線をエルムの指先に固定して、ティエラと法王の会話の意味を考えていた。


 フルミナ。西方師団の四幹部の一人で、妨害兵科の長を務める人物でもある。直接的な戦闘力は低いが、妨害系の創世術への造詣ぞうけいには特筆すべきものがある。極めて難易度の高い幻術までをも自在に使いこなし、囁き一つで命さえも奪うと言われる、世紀の天才幻術師。

 彼女については表面的な情報しか持っていない。もしもこの局面を生きて超えることができたなら、彼女のことを調べに行こうとクエルドは誓った。


「ううん……」


 イオストラがもぞりと動いた。まぶたがゆっくりと持ち上がり、漆黒の目が薄く開く。


「……エルム……」


 イオストラが呟いた。


「おはよう、イオストラ。」


 どこまでも優しく温かい安らいだ声で、エルムはイオストラを迎えた。

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