43. 生と死の為す大いなる螺旋

 俺はここから出られない。


 そう言った彼の表情は深いうれいを湛えていて、寂しそうに見えた。二度と会えないのではないか。そんな予感を覚えて胸が苦しくなった。


 思えばイオストラの傍にはいつも必ずエルムがいた。寂しい時にも苦しい時にも、どんな時でもエルムは寄り添ってくれた。


 嘘吐きで、酷薄こくはくで、本当のところは誰に対しても愛着など持っていない男。イオストラはエルムを信じていないはずだったし、必要最低限に利用する存在としか思っていないつもりだった。


 それなのに、エルムに会えなくなるかもしれないと思うと悲しかった。


 冷たい静謐せいひつに浮かぶエルムたちを救い出したい。エルムによく似た子供の涙を止めてあげたい。それなのにその方法が解らない。


 俺はここから出られない。


 その言葉が、胸に重苦しく伸し掛かった。





 まぶたを開けると、眩しいばかりの笑顔がそこにあった。


「おはよう、イオストラ。」


 あまりに平然とした様子を見て、安堵と共に徒労感が押し寄せる。


「……お前、あんな思わせぶりな言葉を吐いておいて……」

「だから夢だと言ったろうに。」


 イオストラは眉根を寄せる。あれが夢だったとすれば、エルムの言葉は妙だった。


「それはどういう――」


 問うべきことを整理しながら体を起こしたイオストラの視線上に、懐かしい姿が入り込んだ。イオストラと目が合うと、リャナは鮮やかな笑みを満面に咲かせた。


「リャナ?」

「イオストラ様!」


 イオストラは目を瞬かせた。何故リャナがここにいるのか。夢を見ている間にアンビシオンに移動していたのか。だが部屋の調度品を見る限り、イオストラは未だに中央連峰の南側にいるように思われた。


「どうしてここに?」

「わ、私にもよく解らないのですが……」


 リャナは困ったように視線を揺らした。イオストラは部屋を見回しつつ、自分の状況を整理しようと努めた。

 デセルティコを占拠したライフィスに戦いを挑み、追い詰め、そして撃たれた……。イオストラは脇腹に手を当てた。半ば予想していたことだったが、そこに傷はない。

 部屋にはエルム、リャナ、カレンタルの他、ティエラと、何故か彼女と熱く手を握り合っているクエルド。ドアの前には心細そうな表情のシスル。

 そしてもう一人。デセルティコの砂と同じ色の髪をした男が立っている。イオストラは束の間ぼんやりと彼を見つめた後、ベッドから跳ね起きた。


「法王……!」

「おや、お見知りおきいただいていたとは光栄至極。」


 法王は慇懃いんぎんに腰を折って、青い目を怪しく細めた。唇の両端が、スッと吊り上がる。笑みと呼ぶべき表情なのだろう。作り笑いであることを隠そうともしない、嫌らしい笑顔だった。


「何故あなたがここにいる……!」

「鎮魂は神に仕える身にとっては義務のようなものでね。このようなことになったので、祈りを捧げるために出張って来たわけだ。」


 法王は変わらぬ表情と嫌味な声でイオストラに応えた。


「嘘を言うな。蜥蜴トカゲを救いに来ただけだろうが。」


 ティエラが辛辣しんらつな声で指摘すると、法王は笑みを引き攣らせて空咳をした。


「ともかく、私も神に仕える身として、何某なにがしやら言う皇子をいたむ儀式をしてやろうと思う。ぜひ教会に足を運びたまえ。ただし白の魔法使いはご遠慮いただこう。」

「は?」


 法王は戸惑うイオストラに目もくれずにエルムにもの言いたげな視線を投げると、踵を返した。シスルが慌てたように道を譲る。

 音を立てて閉じたドアをしばらく見つめた後、イオストラは改めてリャナを振り返った。


「皇子を悼むって……ライフィスは?」

「その……亡くなりました。」


 リャナは言いにくそうに、けれどもきっぱりと答えた。


「な、何で? 何があった?」

「当然の報いだと思うがね。」


 答えたエルムを、イオストラはゆっくりと振り返る。


「お前が? 何故そんなことを! 私は生かして捕らえようと……!」

「その言い分は、いかにも理不尽だ。イオストラ皇女。」


 ティエラの声がイオストラとエルムの間に割り込んだ。


「それに、是非を問うたところで失われた命は戻らない。ならばせめて悼んでやってはどうだ? 法王主催の葬儀など滅多にないことだし。」


 イオストラはティエラに目をやって、次に彼女に手を握られっぱなしのクエルドの真青な顔を見やって、またティエラに視線を戻した。


「罠、か……」


 空転を続ける思考を何とか絡め取ろうと、自分の考えを口に出してみる。エルムを置いて敵の首魁たる法王を訪うように、などと、罠以外では有り得ない。


「罠ではないと思うよ。」


 ティエラがきっぱりと言った。


「ああ、罠じゃないな。」


 エルムもティエラに同意する。


「な、何故そう言える……?」

「そこまでする理由がない。」


 ティエラの答えはあっさりしたものだった。


「そ、そうだろうか?」


 イオストラはエルムに視線をやった。エルムは軽く頷いた。


「それでも誘いに乗るのはお勧めしない。法王は間違いなく、現存する中で最高の創世術師だ。さらに言えば教会はあいつの領域だ。万一の場合、すぐには助けに行けないぞ。」


 死者のために敢えて自分を危険に晒すこともない。真当な意見を口にしたエルムを、イオストラはまじまじと見つめた。

 このような場合、「ティエラの言葉に間違いはない」とだけ言ってイオストラを送り出し、ほいほい向かって窮地に陥ったところを笑いながら助ける。エルムはそんな男ではなかったか。


「不安ならば私たちが護衛してあげよう。」


 ティエラがクエルドと繋いだままの手を挙げる。


「ん? 私?」


 クエルドが引き攣った笑みを浮かべて首を傾げた。


「いや、お前さっきイオストラを見捨てただろ。」


 エルムは不満げだった。


「虫同士の闘いに人間が手を出すのは生態系の破壊につながるが、虫を虐める人間をいさめるのは道徳的な行いだ。」

「それ以前にはさんざん掻き回しただろうに、よく言うな。」


 エルムが呆れたように言うと、ティエラの緑色の目が一段と鮮やかな輝きを帯びた。


「彼女を行かせたくないのかな?」

「……行かせたくないとも。」


 エルムはきっぱり答えた。


「だが行きたいなら止めはしない。」


 不安定に色を変えるエルムの目がイオストラに向けられた。イオストラは首から下がる封珠ふうじゅを握り締め、深呼吸を一つすると、ゆっくりと外した。


「リャナ、これを預ける。大切に持っていてくれ。」

「畏まりました。」


 リャナと頷き合ってから、イオストラはティエラを振り返る。


「同行を頼めるだろうか?」

「三騎でお供しよう。」


 ティエラは頷いた。よく解らない相手だが、少なくとも能動的にイオストラに危害を加える気はないようだった。


「……三騎?」


 シスルが首を傾げた。


「私も、ですか?」


 クエルドが確認するように問いかけた。ティエラは笑顔で頷いた。明確な敵と曖昧な味方の同行。イオストラは不安になった。


「……リャナとカレンタルを頼む。もしも私が戻らなかったら、その時は――」

「そんな心配はしなくていい。」


 エルムが高く指を鳴らした。肌に違和感を覚えて下を見れば、いつの間にかイオストラは黒いドレスを身に着けていた。


「……こ、これは……喪服、なのか?」


 ドレス、タイツ、靴、手袋、ベール。全身をくまなく覆う漆黒は上等な喪服のそれだった。ただ、存分にあしらわれたフリルが喪服としての格をいちじるしく損なっている。


「喪服ではないな……」


 ティエラは呆れたように呟いた。リャナがきつい目でエルムをにらんだ。


「主人に喪服の一着も調達できない自分の不甲斐なさを棚上げして言うけれど……もっとちゃんとしたものは用意できないのッ?」

「できない。何故なら俺はその格好が気に入った。」

 

 妙にきっぱりとエルムは答えた。リャナは頭痛を堪えるような表情で首を振ると、猛然と部屋から駆け出して行った。


「行っておいで、イオストラ。」


 リャナとのやり取りなどなかったかのように、エルムはイオストラに穏やかな言葉をかけた。

 イオストラがあの夢から抜け出せていないせいだろうか。

 エルムの言葉には不安や寂しさが含まれているように思われてならなかった。





 リャナはゴートの屋敷の出口でイオストラ達に追いついて、みすぼらしい外套マントをイオストラに差し出した。


「今そのお姿で街を歩くのは、少し……」


 彼女にしては歯切れの悪い言葉の意味を、すぐにイオストラは知ることとなった。


 街の混乱はなおも続いていた。


 虚ろな目で荒れ果てた家を見つめて座り込んでいる者。死者の身体に突っ伏して泣き喚いている者。周囲を鼓舞して救助活動に勤しむ者。人目を忍んで後ろめたい行動に及んでいる者。


 イオストラは外套を掴む手に力を籠める。確かに高価な喪服を身に着けて闊歩かっぽするのははばかられる状況だった。


 アンビシオンからこちらに向かっている援軍の始めの仕事は救助と片付けになるだろう。水も食料も必要だ。


「平常であればすぐにもヒルドヴィズルが手配されて復興を手伝うのだろうけれど、デセルティコは反乱軍の指揮下に入ることを表明してしまったからね。自力で復興せざるを得ないな。」


 ティエラは街の惨状を横目に、乾いた言葉を口にする。


「ヒルドヴィズルが?」


 イオストラは視線をシスルに向ける。シスルは少し迷う素振りを見せた後、頷いた。


「民の生活を守るのもヒルドヴィズルの重大な任務です。災害や戦禍からの復興事業にも広く従事しておりました。瓦礫の撤去や仮設住宅の設置などに怪力や創世術は非常に有用ですから。テルセラ様などは非常に難しい治療術を修めておられるので、そう言った任務に起用されることが多いようです。」

「テルセラ……」


 街一つを占拠して襲ってきた三騎のヒルドヴィズルの内の一騎。手強い敵という印象しかなかった相手の意外な一面を知って、イオストラは落ち着かない気分になった。


「この国は聖教会の下で発展してきた。日常にも非日常にも聖教会の存在はしっかりと根付いている。それを無理に剥がそうとすれば、相当量の土も一緒に失うことになるだろう。大樹と言えど根元が危うくなるぞ。」


 イオストラの前を歩くティエラが体ごと振り返る。足は止めない。背中に目でもあるかのように、平然と足を後ろに進める。


「それでもなお聖教会の支配を否定しようとした先帝はあまりにも無謀だった。今上帝はその方向性を見事に修正したと言えよう。向上心には欠けるが。」

「先帝批判か?」


 イオストラのまなじりが吊り上がる。


「……いつまで子供の憧れに目を曇らせているつもりかな?」


 ティエラは淡々と、しかし容赦なくイオストラに問う。


「先帝の行こうとした道は失政へと通じていた。王の過ちがどれほどのことを引き起こすか、この惨状で垣間見えるだろう?」

「……聖教会は神聖帝国にとって必要悪だと? 聖教会は神聖帝国のために先帝を弑逆しいぎゃくしたとでも言うつもりか?」

「誤解しないで欲しいのだが、私は聖教会の敵でも味方でもない。庇う気もなければ過剰に貶める気もない。それだけだ。過去の清算も未来への議論も、吹掛ふっかけるべき相手は私ではない。」


 そう言ってティエラが向けた視線の先に、教会があった。

 破壊された街の外れ、教会の周囲だけは、何の損傷も受けていなかった。


 教会の入り口には、女が一人立っていた。黒いローブと黒いベールとを身に着けた姿は、神に仕える神官の身分を示している。彼女はイオストラを見つけると、うやうやしく頭を下げた。


「……ご案内させていただきます。」


 ただそれだけを言って、神官はイオストラを奥へと通した。大聖堂には避難民が溢れていた。不安、怒り、悲しみ……。負の感情に揺れるその場所を、イオストラは足早に通り抜ける。


 大聖堂の奥の扉を潜ると、そこにはまた大聖堂があった。


「え?」


 呆けた声を上げたのはシスルだった。


「そんな馬鹿な……さっきは……!」

「先ほど足を踏み入れた時とは違う、と言いたいのかな?」


 教会の奥から聞こえた声がシスルの言葉を吸い込んだ。シスルが気圧されたように後ずさり、壁に阻まれて足を止める。


「こちらが真の大聖堂。祈りを捧げるべき聖域に雑多な民衆を踏み入れさせるわけがなかろう。」


 簡素な白いローブを脱ぎ、豪奢な儀礼用の服を身に着けた法王が、静寂に包まれた大聖堂の中央に佇んでいた。


「うまくないですね。退路がない……」


 クエルドが小声で呻いた。イオストラは唇を引き結ぶ。潜って来たドアが消えたことには、すでに気付いていた。


「さあ、死者を送るとしよう。先述の通り、簡易的な葬儀だ。儀礼など気にせず、思うままに送ってやるがよい。」


 法王はイオストラを手招いた。イオストラは外套を脱いで神官に手渡すと、大聖堂の中央に向かう。


「……大層な服だな。」


 あらわになったエルム特製の喪服を見て、法王は眉をひそめた。


「うるさい。服の話はするな。」


 時間と場所と状況にそぐわぬ服装への恥じらいは、法王の前に置かれたひつぎが目に入るのと同時に消え去った。


 その中には冷たくなった従兄が眠っている。


 美しいとは思わなかった。生気を失った青白い肌。死んで委縮したのか、それとも大切な何かが抜け落ちたためか。ライフィスの身体は生前の印象よりも随分と小さく感じられた。

 ライフィスに何が起きたのか、どうして死んでしまったのか。それを問うのは後でいい。


 イオストラは瞑目めいもくして故人に思いを馳せる。

 どこで道を別ってしまったのか。最後に交わした会話の中で感じた燃えるような嫉妬も憎悪も、今はない。ただ無性むしょうに悲しかった。

 今上帝や他の従兄たちにも、同じことを感じるのだろうか……。


「根源より出でしかの者は、今再び根源へと還る……」


 法王が死者に祈りを捧げる。決まり切った文言を読み上げているに過ぎないその言葉が、心を奇妙に刺激する。


「……儀式の荘厳さにこだわるならば、祈りの言葉はいくらでも長ったらしくできるがね。聞きたいかな?」


 不意に法王の口調から神秘が消える。


「宗教家とは思われない言葉だな。」


 哀悼に傾いた心を不意に引き戻されたイオストラは、冷たい目を法王に向けた。


「私はむしろ、科学者を自任しているのだがね。」

「法王という肩書を引っさげたあなたが、科学者?」

「時として信条と立場とは矛盾する。」


 法王は苦笑してフードを脱いだ。砂色の長い髪がさらりと落ちた。


「しかし今回は立場に合わせて説法の一つでもしてみようか。生と死の為す大いなる螺旋……。この世界の理……」


 法王が本題に入ったことが気配で察せられた。イオストラは腕を組んで心持ちあごを上げ、法王に向き直った。いかなる言葉にも惑わされまいと心に強固な壁を築く。


「すなわち、白の魔法使いについて。」


 強く組んだ腕がするりと解けた。視線を揺らし、瞬きを繰り返す。言うべき言葉を探して、口が不随意に形を変える。


 法王は冷たい目でイオストラの動揺を見据えていた。イオストラは無意識のうちに手を首元に持って行った。


 封珠を求めた手は、虚しく空を掻いた。

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