37. 少し世界を救って欲しいだけさ

 深く沈んだ意識が緩やかに浮上する。

 薄く目を開くと、黒々とした空間がリャナを迎えた。

 闇の中にいるのか。黒を裂いて走った緑の筋が、すぐにその考えを否定した。倒れる前にいたのと同じ、半球型の空間だった。


「……んん?」


 リャナは繰り返し目を瞬かせた。身を起こすと、頭がぐらぐらと揺れる。きちんと結ってあった髪は崩れていて、だらしない感触を頭皮に貼り付かせていた。むしるように紐を剥がすと、金の髪がはらりと肩に落ちる。

 気軽に大聖堂に足を踏み入れた挙句、遭難して倒れたのだと思い出すのにしばらくかかった。


「なんだ、気が付いたのか。」


 冷たく固い声がリャナの耳を刺した。驚いて顔を上げると、青い目と目が合った。


 リャナに背を向ける形で床に腰掛けた男性が、肩越しに視線を向けて来ていた。砂の色をした長い髪が繊細に腰まで伸びている。質も量も整えられた長髪に高貴な身分を感じ取って、リャナは居住まいを正した。


「あ、あなたがお助け下さったのでしょうか?」

「助けてはいないとも。そなたの不調の原因を取り除きこそしたが。」

「それは……助けて下さったと言って良いのでは?」


 謙遜している、のだろうか。


「いや。大聖堂を再起動させたのは私の都合だ。そなたは非常に衰弱していたし、手を施さねば死ぬかもしれないと思ったが、私は特に何もしていない。助かったのはそなたの虫のごとき生命力の為せる技だ。」

「む、虫って……」


 リャナは頬をひくつかせた。照れ隠しの悪態だと思いたいが、何故だかそうは思えなかった。


「ん? ああ、すまないね。私としたことが、表現が適切ではなかった。虫……節足動物が殊更ことさら生命力に優れているということはないのだ。脳を一か所に限定しない神経系の構造と外骨格とが彼らを強力たらしめている。だが強力な武器は彼らに制限を与えてもいる。虫は小さな生き物だろう? 世の中はそうできている。」

「は、はあ……」


 リャナは曖昧に頷いた。リャナからは砂色の髪が見えるばかりで、男の表情はうかがえない。


「あ、あの……大聖堂を再起動というのは、どういう意味でしょうか?」

「そのままの意味だ。機能停止していた大聖堂を再び稼働させた。」


 男はふと、視線を球形の天井に向ける。


「水が高きから低きへと流れるように、根源ノ力は自然状態では勾配こうばいを一定に保とうとする。無論、物質化した根源ノ力はその限りではない。あらゆる個は世界との境界に膜を持つ故に。……だが大聖堂は特殊な場所だ。この場においては個をかたどる膜がざるになる。大聖堂が稼働し根源ノ力に満たされている時であれば力は流れ込み、そうでなければ流れ出す。……簡単に言えば、稼働していない大聖堂に踏み入れば生命力を吸い取られるということだ。」

「な、なんて危険な……」


 未知の領域にとっさの判断で踏み込んだ自分の迂闊うかつさに冷や汗をかく。同時に、目の前の人物に対する警戒心がむくむくと膨れ上がる。


 何故この人物は大聖堂や根源ノ力とやらに詳しいのか。それは主に聖教会の人間が持つ知識ではないのか。それを知る人間が、聖教会に敵対するイオストラの本拠地たるアンビシオンで何をしている?


「そのような状況からお救い下さり、ありがとうございました。」


 リャナは視線を揺らした。これ以上何も追求することなくこの場を離れるべきではないか、と思った。ここでこの人物に踏み込むのは、大聖堂に踏み入ったのと同様の愚かな判断ではないか……。


「私は政庁勤めのリャナ・アーダと申します。あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」


 忠義か好奇心か、リャナは恐る恐る、彼に一歩踏み込んだ。


「……今や私の名を呼ぶ者はほとんどいない。砂の蜥蜴トカゲと呼ぶか、法王と呼ぶか。」


 その答えを耳にして、リャナはまずこの人物への疑心を一段階深めた。本名でなく二つ名めいた名乗りを返すなど、普通の感性とは程遠い。


 直後に、もう一つの名乗りに思いが至った。


「法王……猊下げいか?」


 敬称を思い出すのにしばしの時間を要した後、リャナはようやく声を絞り出した。


「うん、そう答えた。」


 法王は淡々と頷いた。リャナの非礼を咎めるでもなく、反応を面白がるでもない。彼のリャナへの関心はどうやら非常に薄いようで、集中力の大半は手元に向けられていた。


「ほ、本当に? そそ、そんなまさか……。ど、どうして猊下がここに? そもそもどうやって?」


 混乱して矢継ぎ早に質問を繰り出すリャナに、法王は反応しない。懇切丁寧に聞いてもいないことまで答えてくれると思えば、問いかけの一切を無視される。その様子に背筋が凍る。

 肩越しに手元を覗き見ると、法王は分厚い紙の束と向き合っていた。一枚一枚に丁寧に動物の姿が描かれている。


「オオアシ……?」


 法王がくるりと振り返る。


「そう、オオアシだ。オオアシを買い付けに来たのだ。」


 法王の口元に鮮やかな笑顔が浮かぶ。


「十の品種を全百頭。そのまま運搬するのはいかにも大変なので、平面に畳み込んだ。生命を紙に封じるには一握いちあくの砂粒を一列に並べるかの如き精緻な技術と、生命創造に足る膨大な量の根源ノ力を必要とする。極めて優れた術者でなければ不可能ごとであろう。この私でさえ、根源ノ力に関しては大聖堂に求めなければならなかった。」


 唐突な饒舌じょうぜつに、リャナは一歩身を引いた。反応の読めない人だ。


「え、ええと。そうまでしてオオアシを?」


 ただの騎乗動物だ。聖教会の法王がよりにもよってこの時期にアンビシオンを訪う理由になるとは思えない。それも運搬に用いる技術の大袈裟なことと言ったら。


「オオアシを騎乗動物とする品種改良に、どれほどの血と汗と時間を要したか、君は考えたことがあるのかね?」

「え?」


 リャナは目を瞬かせた。


「実用面だけではない。人はこの生き物に美しさをも求めた。黄金をていするアルビノ、白に輝くリューシスリスティック、漆黒のメラニスティック……。万が一にも絶滅するなどあってはならない。」

「絶滅?」

「アンビシオンは危険だからね。」


 一枚、また一枚。優しく繊細な手付きで、法王は絵を品種ごとに整理してゆく。


「アンビシオンが、戦場になると……?」


 リャナの問いかけに、法王は答えない。また無視された。


「ア、アンビシオンまではどうやって来られたのですか?」


 くらくらと揺れる頭を必死に絞って、リャナは質問を繰り出した。やはり法王は答えない。


「そ、そうせいじゅつ、という奴ですか?」

「ん? ああ、そうだよ。教会は全て『ヴァルハラの門』という移動術式を介してヴァルハラに通じている。それを利用すれば帝国内を自由自在に移動できるのだ。」


 リャナの頬を冷たい汗が伝った。法王の言葉は教会を起点としてヒルドヴィズルの奇襲が発生する可能性を示唆していた。

 だが、何故そんな情報をさらりと与えたのか。敵に知られれば奇襲の成功率は下がるだろうに。


「ヴァルハラの門を創ったのは私の弟子なのだが、これもなかなか繊細で扱いの難しい式を無駄も不足もなく見事にまとめ上げている。会心の出来、と言って良い。白の魔法使いなどは有り余る根源ノ力を駆使して力づくで創世術を成立させるが、私はあのやり方は好きではないのでね。あまりにも情緒に欠けるとは思わないかね?」

「え? あ、はい。そうかもしれません。」


 また唐突に饒舌な。リャナは膝を揃えて傾聴の姿勢を取る。分析は後だ。今は可能な限り情報を得るべき時だ。

 白の魔法使い、などという言葉が出ればなおさら。


「つまり、白の魔法使いは創世術を使うのが下手だということですか?」

「下手とは言わない。あの方の技巧は超一流と言って差し支えないとも。だが創世術に向き合う姿勢が不誠実だ。創世術は実現可能性が低い事象を再現するほど多くの根源ノ力を必要とする。例えば風を起こすならば気圧の不均一を生じさせればよい。だがそれには膨大な力が必要となる。ならばどうする? 一つの回答とすれば、空気の一部に熱を与える。こちらの方がまだ簡単だ。では空気に熱を与えるには? ……このように、現象の分解を重ね、一連の流れとして取りまとめて式とするのがあるべきやり方だ。権威の作製した式をそらんじて用いる者もいれば、自ら式を作製する者もいる。現象をどのように分解するのか、つなぎにどのような式を加えるのか、いかに無駄をなくしあるいは盛るのか。……創世式はね、芸術なのだよ。白の魔法使いは無限の造詣ぞうけいを持ちながら、それを理解なさらない。」


 法王の言葉には、奇妙な熱が籠っていた。リャナは引き攣った笑みを浮かべて目を瞬かせた。


 一つ解ったことがある。法王は関心のない話をする気がないのだ。そもそもリャナと会話をする気がない。相手からどのように見られるかを考慮しないので興味のない話題は一切無視するし、またそそられる話を向けられれば聞かれてもいないことまで話す。聞いて欲しいわけですらない。話したい、教えたい。それだけなのだ。

 言葉選びにある程度リャナの理解度への配慮が見られることから考えれば、他者との共感に問題を持つ人間ではないのだろうと思う。要するに、リャナに価値を認めていないのだ。


 逆に言えば、法王自身の興味関心を引く話題を振る限りは延々と話を聞くことができるのかもしれない。オオアシ、創世術、そして白の魔法使い。


「猊下は、エルムのお知合いですか?」

「ん? ああ、エルムとはあの方のことか。名前……。くだらない。あれほどの存在を小娘の定規で縛るなど。」


 法王はいかにもつまらなさそうに溜息を零す。


「どういう意味です?」

「名前というのはね、非常に重要なものなのだ。その存在を表すものだから。こと白の魔法使いのような曖昧な存在にはね。今の彼は封珠ふうじゅと名前とによって二重に縛られている。目も当てられないほどの弱体化はそれが原因だろう。」

「弱体化?」


 リャナは武人でもなければ創世術のことも解らないので、エルムの強さは量りようがない。それでも襲ってきたヒルドヴィズルをあっさりと消し去った彼が弱いとは思えなかった。


「弱体化しているとも。彼を何だと思っている? 聖小国乱立時代には各国が召喚した白の魔法使いが大量破壊兵器として猛威を振るったものだ。白の魔法使い同士が衝突した結果、地形や環境が大いに変動した。デセルティコなどは不毛の砂漠となってしまったし。」

「は?」


 リャナは額を押さえた。怒涛のように押し寄せる情報に、頭が付いていかない。


「各国が召喚って……やはり、白の魔法使いは、複数いるのですか?」

「あの方は数ではなく量を問うべきお方だな。」


 疑問で頭が破裂しそうだ。


「えっと……他にも白の魔法使いがいると?」


 リャナはさんざん迷った末に、馬鹿だと思われるのを覚悟で似たような問いを発した。


「今はいないな。君たちがエルムと呼んでいる個体は白の魔法使いの核だ。あれが顕現しているうちはそれ以外の彼を召喚することはできない。」


 核? 量? リャナは腕を組んで眉根を寄せた。


「白の魔法使いの核だけを封じる作業は大海に溶けた色水を再抽出さいちゅうしゅつする作業に似ている。苦労して創った封珠があんな小娘の手に渡り、小さな型に押し込められてしまったのは実に口惜しい。適当な部屋に転がしておいたのがいけなかった。反抗的なヒルドヴィズルに盗まれてね。」

「管理が甘いですね。」


 冗談とも本気ともつかない法王の嘆きに、リャナは思わず辛辣な言葉を吐いた。


「関係者以外立ち入り禁止の札は貼ってあったのだが。」


 法王はまた冗談めかした言葉で応じた。


「それ、意味あります?」

「無いだろうか?」


 呟いて、法王は首を傾げる。リャナは唇を引き結んだ。


 白の魔法使いが何なのか、結局はよく解らない。だが、エルムのことは少し解った。法王が白の魔法使いを召喚して封じた後、雑に管理していた封珠をヒルドヴィズルが持ち出し、そこからアイエル女帝を介してイオストラに渡った。そしてイオストラが白の魔法使いの持ち主となり、エルムと名を付けた。


 仮に法王の言葉に偽りがないとすれば、イオストラが封珠を持っていることは彼の意に反している。イオストラを帝国の敵として導き育てるためにエルムと法王が共謀している、というクエルドの説は間違っていた。


 では、そもそも何故法王は白の魔法使いを召喚して封じたのか。聖小国乱立時代になされたという無秩序な召喚を防止するためなのか。それとも……


「法王猊下は、白の魔法使いに何をお求めなのですか……?」


 もはや引き返すには踏み込み過ぎている。そう自分に言い聞かせて、リャナは思い切って問いかけた。


「なに、少し世界を救って欲しいだけさ。」


 気楽な口調で法王は答えた。立ち昇る緑光が彼の表情を舐めるように照らした。床に刻まれた細かな溝を光が満たし、半球型の空間全体を覆う巨大な幾何学模様きかがくもようを輝きの下にあらわにする。


「おや、どうやら転移に必要なだけの根源ノ力が再充填されたようだ。」


 法王がひらりと立ち上がる。手には紙の束を抱えていた。それを横目に確認すると同時に、網膜を焼き尽くすような眩い光が視界を満たし、リャナは思わず目を閉じた。


 再び目を開いた時、リャナは純白の部屋にいた。急激な色彩変化に眼底が抗議ように疼いた。


「こ、ここは……?」

「ヴァルハラだが?」


 当然のように法王が答えた。


「転移術式の中にいたので巻き込まれたのだな。」


 法王の言葉を、リャナは半ばまでしか聞いていなかった。


 教会はヴァルハラに通じていると、法王は言った。リャナも素直に呑み込んだ。だが聖教会と敵対した西方教会の本部であり、西方教会が敗れた後は封じられていたはずの大聖堂がヴァルハラと繋がっているのはどういうことだ?

 リニョン王国が神聖帝国から分離独立し得たのは合意の上だったからだと、いつかクエルドは言っていた。つい先ほど彼の説を一つ否定したばかりだったが、だからと言って彼の言葉が全て間違っているとは限らない。


 神聖帝国から分離独立し、百五十年を経て再併合されたリニョン王国。自国からの独立を許さなかった神聖帝国。リニョン王国を守護し導いた西方教会。神聖帝国を影で支配する聖教会。

 そもそも聖教会と西方教会が同じ意思の下に動いていたのだとすれば、動乱の百五十年は何だったのだろう? 収束して五十年が経過する今なお血の尾を引く怒りと悲しみと憎しみは?

 イオストラが身を投じた戦いの意味はどこにあるのか?


 知らず息を速めるリャナを見下ろして、法王は意味深長な笑みを浮かべた。


「次はデセルティコまで頭の黒いトカゲを手に入れに行くのだが……君も来るかね?」


 法王の双眼には、青い顔をしたリャナの姿がくっきりと映し出されていた。

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