38. 器相応に収まったじゃねえか

 普段は静寂に包まれているゴート族の長の屋敷は、喧騒の只中ただなかにあった。

 庭は避難民で溢れ返り、多くの部屋が市街戦の支援のために解放されていた。

 飛び交う報告と怒声とが、空気を細かく振動させている。

 その渦中に立って、オヴィスは一人、思案に沈む。


 混乱を収束させるための切り札は手の中にある。皇女イオストラ。彼女を差し出せば、帝国軍は引き下がるはずだ。


 それで良いのだろうか。


 帝国側がこの街を攻撃する理由はなくなるかもしれない。だが突然攻撃された側の怒りがそれで収まるはずがない。下手をすれば帝国相手に反旗をひるがえす結果になりかねない。あまりにも無謀なことだが、怒りは時に理性を超える。


 そうならないために、皇女の身柄と引き換えにそれなりの対価を得る必要があった。

 損傷の補償だけでは不足。国賊を捕えた栄誉と褒賞をもぎ取らねばならない。


「遅えな……」


 オヴィスは人差し指で二の腕を叩く。市街の騒ぎが収まる気配はない。交渉係はすでに庁舎に到着しているはずだというのに……。


 停戦、同意、終戦……。かつて砂漠に名を馳せた山賊の末裔にして街を裏から支配する無頼ぶらいの一族が、こうも真当な手順を踏むことに不服を感じている自分に気が付いて、オヴィスは苦い笑みを浮かべる。

 ゴートの血は薄まった。まつろわぬ蛮族はいつの間にか帝国と同化し、独自性を消失している。

 一族に伝わって来たお伽噺とぎばなしは帝国の倫理に迎合して変遷し、子供たちの教育は帝国によって行われる。


 ゴート族は一介の犯罪組織に堕したのだ。

 そして今、帝国の狗に成り下がろうとしている。


 面白くない。全く、面白くない話だ。だが仕方がない。何者も身の丈に合った生き方をする以外の道を持たないのだから。


「浮かない顔だな、オヴィス……」


 しわがれた声が、オヴィスを現実へと引き戻した。


「ドン……」


 かつて畏怖を集めた屈強な肉体も今は衰え、それに代わるように眼球に意思の強さを宿す老人。長としての役割のほとんどをオヴィスに譲り、それでもなお一族の頂点として君臨する傑物である。


「迷いがあるか?」

「ええ。正直、荷が重いッスわ。」


 一歩間違えば収拾がつかなくなる。己の手に負える範囲を逸脱しているように思えてならなかった。


「お前なら乗り越える。お前は儂が見込んだ、賢い男だ。」


 強烈な光を宿すドンの目が、問いかけるようにオヴィスを見つめる。息が詰まった。


「……ま、何とかしてみますよ。」


 オヴィスはそう返事をして、そそくさとドンの前を辞した。

 ドンの期待が双肩に重く伸し掛かる。重圧は気を逸らせ、時間の経過を緩慢にする。


 狭まる喉と縮まる胃に少しばかりの昼食を押し込んで、屋敷内をうろうろと歩き回る。鷹揚おうような表情で部下たちを労って回る。己の気の小ささに密かな落胆を抱きながら。


 使者はまだ帰らない。


 市街の混乱が収まる気配もない。


 妙だ、とオヴィスは眉をひそめる。

 使者が帰って来ないのはまだいい。だが、戦闘が停止されないのはどうしたわけだ。使者が到着したなら、何を判断するより先に戦闘を停止するものではないのか。


「ライフィスから返答はあったか。」


 凛とした声が響いた。オヴィスは一瞬固まった後、余裕の笑みで顔面を飾って振り返る。


「よう、お姫様。部屋の心地が悪かったかい?」


 イオストラ皇女と二人の従者が、廊下を塞ぐようにして立っていた。


「いい部屋だったよ。配慮に感謝しよう。だが話し相手がいなかったのは残念だ。」


 イオストラ皇女は腕を組み、心持ちあごを上げてオヴィスを見つめた。彼女の目線はオヴィスよりはるかに低い位置にあるというのに、見下されているような印象を受ける。


「……話は尽くしたと思うがな。だが、言いたいことがあるなら聞くぜ。」


 皇女の周りを囲おうとする部下たちを手ぶりで留めて、オヴィスはイオストラに向き合った。黒い目に輝く光の強さに息を呑む。最前とは印象が異なる。一言でいえば、荒んでいる。


「既に話題は提供したはずだがな。私を引き渡すと申し出たのだろう? ライフィスから返答はあったのか?」

「おうよ。今は条件のすり合わせ中さ。」

「そうか。戦闘続行しながらの交渉とは、やることが違うな。」

「だろうとも。」


 オヴィスは肩をすくめた。イオストラは見透かすように目を細めた。冷たい圧を増した眼光が、オヴィスの眼球に飛び込んで脳を突く。


「この先の展開を教えてやろうか? ライフィスはお前の申し出を受けない。受けるつもりがあるなら、もう戦闘停止命令が出ているはずだ。違うか?」


 オヴィスが気を揉む現状を、イオストラは容赦なく突き付けた。


「ライフィスから突っぱねられてから私にすがるより、選択肢のあるうちに私の手を取るのが良策だと思うが?」

「……その忠告のためにわざわざお越し下さったわけかい。ご苦労なことで。」


 オヴィスは厭味いやみったらしく言い捨てて、部下を振り返った。


「皇女殿下を新しいお部屋にご案内しろ。」


 情報の量は交渉を左右する。この姫をこれ以上自由にしておくのは得策ではない。閉じ込めておきさえすれば、いざという時に余裕ぶって交渉ができるのである。


「オヴィス様!」


 オヴィスの思惑を妨害するかのように、焦りに満ちた声が部屋に入り込んで来た。


「返答が来たぜ……」


 怒りに震える部下の姿に、オヴィスは嫌な予感を覚えた。肩を怒らせて部屋に入って来たのは、オヴィスが送り出した使者ではなかった。握りつぶされた封筒には、血の染みが広がっている。


「……へぇ。」


 オヴィスは努めて冷静に手紙を受け取った。内容は至極簡潔。


『蛮族の身で皇子に対して交渉とは不遜なり。』


 それだけだった。


「おいおい、野蛮なのはどっちだよ。全く、雲の上の方々はどいつもこいつも傲慢ごうまんだ……」

「それを自力で打ち払う力がないのなら、選ぶべき道は一つではないか?」


 イオストラの言葉に、オヴィスは拳を握る。血濡れの手紙が抗議するような音を立てた。


 仲間を殺されたことへの怒り、喪失感。手紙の内容への義憤。状況への切迫感。それを押して、臓腑の底から湧き出でる奇妙な高揚。己を覆っていた壁が崩れ始めたのを目の当たりにしたかのような開放感。闘いを前にした興奮。これがゴートの血のしからしむるところだというのなら、蛮族との評価も納得できる……。


「一つ聞いてやるぜ、お姫様……。あんた、どうして皇帝になりたいんだい?」

「私を信じて付いて来た、仲間たちに報いるためだ。」


 投げやりに、しかしきっぱりと、イオストラは答えた。


「おう、なるほどな。器相応に収まったじゃねえか。」

「ああ、私の器量はこの程度だ。だが、それがどうした。敵対するものを全て倒し、仲間のために上を目指す。至って単純明快だ。……貴様も私の仲間になっておくのが得だと思うが?」


 漆黒の瞳が怪しく揺れる。

 肩意地を張った少女だという印象だった。自分の器に入りきらないほどのものを抱えて、それで自分を大きく見せて他者の期待に応じようとしているようだった。その姿に妙な親近感を覚えて苛立った。

 その結果が、思わぬ化け物を目覚めさせたのかもしれない。背筋を走った怖気を誤魔化そうとして、オヴィスは不敵に笑う。


「あんたのお仲間はどれくらいの規模の援軍を、どれくらいの時間で寄越せるんだい?」

「速達用の鳥を貸せ。まず三百、三日で来させる。」

「三日もかかるのかよ。」

「普段から即応戦力が整っているからこそ、即座に兵を動かせるのだ。三日は鳥がアンビシオンに届いた後、アンビシオンからデセルティコまでの移動にかかる時間だ。動かせる兵には余裕があるが、機動力を重視して三百に絞る。文句があるか?」


 イオストラはまなじりを吊り上げてオヴィスをにらんだ。


「いいや、文句はねえよ。状況に助けられたな、お姫様。」


 オヴィスはイオストラに手を差し出した。イオストラは幾度か目を瞬かせたのち、そっと掌を重ねた。


「……運も実力の内だ。」


 負け惜しみのようにイオストラは言った。


「さて、それじゃ、三日間持つように頑張ってみますかぁ。」

「馬鹿を言うな。こんな開放的な屋敷で籠城戦ができるとでも思っているのか。既に街に入り込まれ、籠城可能な建造物も軒並み占拠され、さらには避難民を大勢ここに集めてしまっている。籠城はない。打って出るぞ。ライフィス軍を殲滅する。」

「はぁ? おい、ちょっと待て。勝てるのか?」


 イオストラはオヴィスの顔を見上げて、きりりとした眉を立てた。


「勝つしかないなら勝つだけだ。」


 小さく低い、しかし恐ろしく強い意思を込めた声で、イオストラはそう答えた。



*****



 クエルドはライフィス皇子をある一点において高く評価していた。


 扱いが簡単であるという、ただその一点だけを。


 何しろライフィスときたら賛同の語彙を三つも駆使すればおおむね思う通りに動くのである。残念ながら能力に恵まれているとは言い難い人物ではあったが、愚者とナイフは使いよう。クエルドは彼を何かと便利に使ってきた。


 その彼が、突然この暴走である。


 為政者としては過ちとしか言いようのないこの行動はしかし、怨敵のイオストラを追い詰めるという点において非常に適切である。それがまたクエルドには困りものだった。


「クエルド・インフィエルノ。ただいまお傍に参りました。微力ながら、指揮下にお加え下さいますよう……」

「うむ、このような時に来てくれて感謝する。やはり貴殿は信用に足る人物のようだ。」


 ライフィスは機嫌よくクエルドを迎え入れた。


「光栄に存じます。しかしどうぞその信用は我が主に……」

「うむうむ、さすがは姉上、話がお解りになる。私の側近どもときたら、どうにも私に付いて来られぬらしくてな。やはり私には姉上の補佐が必要にして不可欠だ。」


 補佐、か。クエルドは口元を歪める。

 どうやらライフィスは本気で自分がセレナよりも上だと思っているらしい。片腹痛い。そしてほのかに不快だった。


「無能な臣下、無礼な臣民……。全く、苦労が絶えぬ。ゴート族の使者の言い分を聞いたか? イオストラの身柄引き渡しに際して代償を要求してくるとは! 謀反民の引き渡しは、臣民にとって当然の義務ではないか!」

「仰る通りにございます。」


 クエルドは深々と頭を下げた。ライフィスから見えない表情が侮蔑に歪む。


「身分の差というものを理解しておらぬ。即刻追い返したわ。」

「左様でございましたか。帰路においてはさぞやおりましょうね。声も出せぬ有様かもしれません。」

「それくらいの反省はしてほしいものだ!」


 穏やかな笑顔を湛えてライフィスに賛同の意を示しつつ、クエルドの内心は冷ややかだった。

 今頃、使者を送り出した者たちはさぞ赤く熱を帯びているだろう。もはや交渉の余地など見出せまい。ならばイオストラ皇女を差し出す必要もなくなる。蛮族の命一つで皇女を救う。実に効率的な処方だった。


(白の魔法使いは何をしているのやら……)


 浮かび上がった考えを、クエルドは静かに否定した。

 ここでイオストラを捕えられてしまうことは白の魔法使いの望むところではないだろう。だが白の魔法使いの意図を自身のスケールで捉えるのは危険だ。人の想像を凌駕りょうがし、理不尽な結末をもたらすのが神の神たる所以である。


 人が歴史を紡ぐのならば、神の威を借りるべきではない。


「間もなくこの反乱も終わる。そうすれば皆、私の正しさに気付く。」

「ええ、おめでたいことでございます。」

「うん!」


 クエルドの嫌味に気付いた様子もなく、ライフィスは屈託のない笑顔を浮かべた。悪人ではないのだ、とクエルドは思う。ただ彼の視野は狭く、器量も小さく、想像力は不足すること著しい。

 さぞ愛されて育ったのだろう。第一皇子にして宰相であるツァンラートと同じ、正妃を母に持つ第二皇子。ツァンラートが背負わされてきた期待も責任も知らず、側室を母に持つ第一皇女セレナの経験したような苦労とも無縁。ただ無責任に愛され、のびのびと、それでいて狭い世界に軟禁されて育った皇子。

 一軍を率いて戦場を訪れ、これほどの虐殺を引き起こしてなお、彼は穢れに触れることなく、清らかだ。


 己の命令が実行された現場に立てば、とても笑顔は浮かぶまいに……。


 残念ながら善良さが彼の身を助けることはない。クエルドの心を動かすこともない。クエルドの主はただ一人。それ以外のものに向ける感情など、持ち合わせてはいなかった。


「ヒルドヴィズルが指揮下に入るというのは実に頼もしい! 人にはできぬことを平然とやってのけるからな、そなたらは。」

「過分なご期待に恐縮しきりでございます。残念ながら私は戦闘力にいささか自信を欠いておりますが、その他の場面でお役に立つこともあろうかと思います。」


 クエルドは意味ありげに声を潜める。


「此度の戦場はまつろわぬ民の開いた奇怪な構造の街、そして敵はこの街の地理に精通しております。組織だった動きを取らぬ烏合の衆ゆえにかえってやりにくいこともございましょう。現状把握のため、ひとしきり街を見てまいりたいのですが、よろしいでしょうか?」

「む……危険はないのか?」

「ご安心ください。逃げ隠れるのは得意でございますので。」

「そうか……」


 ライフィスは眉根を寄せて、不安げにクエルドを見つめる。


「この戦いが終わったら、そなたにも功績をもって報いたいと思っている。無事に戻れよ。」

「……ありがとうございます。」


 深く頭を下げて、クエルドは踵を返し、庁舎の窓から身を躍らせた。壁を滑り、屋根を蹴り、眼下の人の死角を突いて家々の屋根の上を駆ける。


(やりにくい相手だ……)


 そう思った自分に軽い驚きを覚える。何がやりにくいというのか。無邪気に自分を信じる相手。この上なく扱いやすいではないか。


 気分を切り替えつつゴート族の屋敷の屋根に着地して様子を探る。完全に気配を消したなら、たとえ目の前に立とうとも気付かれはしない。クエルドは隠れ潜むことに極めて長けていた。


(さて、イオストラ様とだけお会いするにはどうしたらいいか……)


 イオストラの姿を探して彷徨さまよっていた視線が、見覚えのある人物に吸い寄せられた。クエルドは息を呑む。

 わずかに心を乱したその瞬間、緑色に輝く双眼がクエルドを捉えた。クエルドの額に脂汗が浮かぶ。

 非人間的に整ったかんばせが、凍るような笑みを形作った。


 白の魔法使い、砂の蜥蜴とかげ、竜の女王に並んで最古の四柱の一柱に数えられる強力無比なヒルドヴィズル。


 神断かむたちの槍・ティエラがそこに立っていた。

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