36. 君はどんな皇帝になりたいのだ?
選択肢は他にもあっただろう。騙しても良かったし、誤魔化す手もあった。イオストラに答えを選ばせたのは、結局のところ、
危機を脱するためであろうとも、自身の身を偽ることはできない。
「何故解った?」
問いを返す形で、イオストラは答えた。
「へえ、誤魔化さねえんだな。」
言って、オヴィスはどこからともなく取り出した髪の束を示した。見覚えのある黒髪だった。イオストラは頬をひくつかせる。
「オレたちの情報網、甘く見ないでもらおうか。特にこのデセルティコ砂漠周辺で起きたことは、一日の時間差もなくオレの耳に届くんだ。」
イオストラは短くなった己の髪を撫でる。エルムのしたり顔が頭に浮かぶ。
「レムレス平野から落ち伸びた皇女イオストラがアンビシオンに戻ろうとするなら、ルートは二通り。北上するか、南下するか。長い黒髪は珍しいからな、網を張ってりゃすぐ見つかる。切ったのは正解だが、売ったのは軽率だったな。」
オヴィスの指が長い黒髪を掻き分ける。切り離された黒髪が滑らかな怨讐を奏でた。
「……それで? 私をこのままライフィスに引き渡そうと?」
「オレたちの対応としちゃあ、それが無難なんじゃねえの? 対案、ある?」
「そうだな。私と協力してライフィスを討つのはどうだ?」
「はは! それで帝国と敵対しろってか?」
オヴィスは乾いた声で笑った。
「問題あるまい。真なる皇帝はこの私。帝国とはすなわちこの私なのだから。」
「ほぅ。あんたが皇帝ねぇ。」
乾いた笑みが湿り気を帯びて、嘲笑へと変わる。
「だが、仮にそうだとしても、オレに何の関係があるんだ?」
「なんだと?」
頭蓋の奥がざわりと鳴った。皇帝を自称することへの反論はこれまでいくらでもされてきた。だが、皇帝であることの意味など問われたことがなかった。
「あんたが皇帝なのは構わない。どうやら理屈の上じゃ、それが正しいみたいだしな。だが、現実の力が伴わない地位に何の意味があるんだい? あんたに味方したって、オレには何の得もないだろうがよ。」
「皇帝を守るのは臣民の義務では?」
「さすが、皇族ともなると考え方が違うぜ。あんたには玉座とかいう奴が、さぞ輝いて見えてるんだろうなあ? 神様に与えられた地位、なんだもんな?」
「神だと? そんなもの、私は信じておらん。」
「なら、皇帝って奴の権威はどこにあるんだい? なあ、教えてくれねえかい? オレには皇帝陛下って奴の尊さが理解できんのだ。」
オヴィスが挑発するように目を細める。
「皇帝は国家の主だ。皇帝あっての国であり、国は民を守る。」
イオストラはきっぱりと答えた。
「ふぅん。じゃあよ、あんたはオレたちが、日頃から皇帝陛下の恩寵を感じ、感謝を捧げながら生きているって思ってるわけかい?」
オヴィスは馬鹿にするような色の滲む声で問いかける。イオストラは目を瞬かせた。
「違うというのか?」
「応とも。オレらにとってお上ってのはせいぜいが街の長のことでな。皇帝様なんてのはその遥か上の上のそのまた上のお方だろう? 遠い。あんまり遠い。そのご威光はオレたちには感じられんのよ。無害である限り、はな。」
オヴィスは冷たくイオストラを見つめる。
「紛争で国を
「あの
イオストラの腹の奥で怒りが渦を巻いた。母の弟。あの男がイオストラから何を奪ったのか。イオストラに何をしたのか。あの屑が皇帝に相応しい? そのような言説を認めてはならない。断じてだ。
「あの男が何をしたか、君たちは知らないのだろう。先帝を暗殺し、手練手管で貴族どもを懐柔して玉座を私物化し、聖教会の権勢をさらに強めようとしている。」
「そうかい、そうかい。そりゃ大変だ。あんたにとっては、な」
オヴィスは口端を吊り上げた。
「皇帝はオレたちに何もしていない。あんたと違ってな。」
「聖教会に力を明け渡すということは、国民の命をも渡すということだ。」
「その考えが傲慢なんだよ。雲上に誰が立とうと下々には関係ねえのさ。毒の雨さえ降らさなきゃあな。オレたちはオレたちの力で生きている。皇帝陛下の恩寵なんて、どこに入り込む隙があるってんだい?」
イオストラは言葉を失った。皇帝に権威を感じない者がいるとは想像だにしていなかった。
「雲上の方々はどうでもいいものを奪い合って争い、下々の生活に影響を与える。そして下々には大義とやらを語るんだ。度し難いぜ。あんた、自分の望みのために、どれだけの民を巻き込んだんだい?」
オヴィスの問いかけが、イオストラの心をささくれ立たせる。
「インドゥス北西の山間にあった村が、なくなっちまったそうだ。」
カレンタルが息を呑んだのが、背中に伝わった。
「インドゥスでは妙な現象が起きている。住人の時間感覚が揃ってズレた。さらに誰も気づかぬうちに街のそこかしこが破壊されていたらしい。一体何があったんだろうな? 想像が捗るねぇ。」
砂漠を隔てた先にあるインドゥスの街。人の暮らす街中で行われたヒルドヴィズルとの戦闘。死者が出なかったのは幸運な偶然でしかない。
「私は……私は、ただ!」
言葉が続かなかった。オヴィスに投げられた批評に抗する言葉を、イオストラは持ち合わせなかった。
「あんたが歩く先では不幸が絶えねえ。出来ればここらで動くのをやめて欲しいもんだ。」
オヴィスが顎をしゃくると、イオストラ達を取り囲んだ男たちが包囲網を縮めた。
「適当な部屋に押し込んどけ。」
イオストラは抗うことをしなかった。
目の表面で盛り上がった水の膜が一筋、頬を伝った。
*****
「世界がお前を捨てるなら、俺が世界を壊してやろう。」
不意に背後から聞こえた声に、シスルは顔を
宿の部屋で別れたはずのエルムは、何故か今もシスルの背後に立っていた。
「いきなりなんだ?」
「昔言われて嬉しかった言葉さ。」
「どうしてそれを突然に?」
「安心しろ。お前に言ったわけじゃないから。」
「ああ、安心したよ。どうもありがとう。」
シスルは溜息を零しつつ、銃の調子を確かめる。まるで体の一部のようによく馴染んむ。どう考えても実用性に欠けた装飾がされているが、全く邪魔にならない。実弾式の銃だが、弾倉は存在しない。それでも引き金を引けば弾が出る。外見以上に奇妙な銃だった。
「ところで、何故付いてくる?」
シスルはじろりとエルムを睨んだ。
「今は必要とされていないのでね。君に守られつつデセルティコ観光としゃれこもう。」
「遊び気分で付いて来られては困る!」
シスルが隠れて動いているというのに、この男は忍ぶ気がないらしい。悠々と、のんびりと、付いてくる。それで見つからないのなら問題ないのだが、当然のように敵に見咎められて余計な戦闘を発生させる。
「邪魔だ!」
「なんて酷いことを言うんだ。俺が可哀想だとは思わんのか。」
「思うわけないだろう!」
喉元からせり上がる口汚い罵りの数々をぐっと呑み込んで、シスルは前を向いた。
「おおっと、躓いたぁ!」
背後でけたたましい音が鳴った。
「誰だ!」
武装した男が駆け寄って来る。シスルは即座に発砲した。静かに打ち出された弾丸が、標的の頭に吸い込まれる。頭蓋骨の内部をかき乱し、反対側を打ち砕いて飛び出した。
「お見事。だが、あれはこの街の警備兵だぞ。」
「私はどちらの味方をするつもりもない。」
シスルは細い路地に駆け込んで、方角を確認する。この街の教会は外れにある。まだまだ先は長い。
「教会を目指しているのか?」
「ああ。あなたは付いて来ない方が良いかもしれないぞ?」
「おやおや。」
エルムが低く笑う。
「俺を教会に突き出すことに成功すれば、捕虜の失点を補って余りある功績だと思うが?」
「……私にお前を捕えられるとは思わない。」
「そうかな? 手管はいくらでもあるだろう? 教会はヴァルハラに通じている。強力なヒルドヴィズルを呼び寄せることだってできる。」
「可能だろうな。デセルティコを砂の海に沈めて構わないなら。」
強さと倫理観を併せ持つヒルドヴィズルは稀なのだ。うっかり呼び出そうものなら、取り返しのつかない事態を誘発するだろう。
「そう言えば、デセルティコ周辺の砂漠化もその手の事情が原因だったな。」
エルムはどこか遠い目をしてそう言った。
「ヒルドヴィズルは暴力装置だ。皆がラタムのようだったなら……」
「お前、まさかラタムが倫理感に優れた男だとでも思っているか? あれは必要とあれば平然と非道を為す男さ。どれほど多くの無辜の民を犠牲にしてきたのか、聞きたいかい?」
エルムの言葉に、シスルの平常心が揺らぐ。
「あなたが、やらせたんだろう!」
「ああ、そうさ。やれと言われればやる奴なのさ。」
「……あなたにラタムの何が解る!」
「ああ、何も解りやしないよ。」
お前もだろう? 暗にそう言われた気がした。燃え上がった心が急速に冷やされてひび割れる。
「それで、どうして教会に向かっているんだい?」
「……教会に集まった市民を救うためだ。」
シスルはぶっきらぼうに答えた。
「警備兵まで蹴散らしながら?」
無言を以て応じれば、エルムは口角を上げた。
「教会に行ったところで、お前の知りたい情報は転がっていないぞ。」
何もかもを見透かしているかのような言葉に、シスルは足を止めた。
「あなたが私の何を知って――」
「聖教会を疑っている。」
半端に振り返った姿勢でシスルは凍り付いた。
「何故こんなにも中途半端な規模で西方師団を出撃させたのか? 与えた任務の完遂など期待されていないのでは? むしろ全滅を望まれているのでは……?」
エルムの言葉が、シスルの疑念に爪を立てて深めてゆく。
「その答えを探して、避難民に紛れて教会に入り込もうとしている。」
「……その通りだ。」
シスルは憮然と答えた。
「バカだなあ。教会なぞに何の答えがあるものか。」
「ヴァルハラに入る。」
「バレるぞ。」
「私は聖教会の構成員だ。入っても警報が鳴ることはないだろう。それに、この混乱の中だ。教会関係者が多数出入りしているから、出入り記録もそれに紛れられるかもしれない。仮に見つかったとしても、あなたの捕虜を脱してヴァルハラに逃げ込むというのは十分にあり得る話だ。」
「なるほどねえ。」
「あなたが付いてくると成立しないが。」
方向感覚に任せて複雑な裏路地を抜ける。
「聖教会がお前たちに知らせていない情報を敢えて知ろうとしている。これは立派な背信行為だ。そこを見つかれば言い訳は不可能。その場で殺されるかもしれないぞ。」
「……覚悟の上だ。」
シスルは答えた。
「……その覚悟に意味はあるのかな?」
「何を言っている?」
シスルは眉を寄せた。
「お前が頑張って調べようとしている程度のこと、ラタムは
シスルの耳に、ラタムの言葉が甦る。
――あの方たちを試してはならない。
「解っている……」
呟いた言葉は虚しく乾いた砂の上に落ちた。
*****
「いやはや、実に不満だよ。何故私まで閉じ込められねばならないのだろう。」
押し込まれた広々とした部屋の、柔らかいソファに寝そべって、ティエラは天井に向けて不満を連ねていた。イオストラはベッドの上で布団に包まって、白々とした視線をティエラに向ける。
「私の連れだと思われたからでは?」
やや投げやりに、言葉をかける。
「ふふ、確かにその通りだ。」
「なぜ私と無関係だと素直に言わなかった? そうすれば囚われることは無かったろうに。」
「囚われることに危機感を覚えなかったというだけの話さ。それに、実はさほど不満なわけではない。ここはかなり居心地がいい。無頼の輩がお上に突き出す反逆者を押し込んでおく部屋とはなかなか思えない。」
ティエラはすっかりくつろいで、用意されたフルーツなどをのんびりと摘んでいた。反対にカレンタルは、部屋の隅に膝を揃えて座り、ひたすらぷるぷると震えている。また彼を不安がらせている。イオストラはシーツに爪を立てる。滲んだ視界が揺れた。
「気にするな、イオストラ皇女。元来、王という地位は孤独なものさ。国が平穏無事な折には誰からも気にされないが、危機が訪れれば負の感情はおよそ王に向かうもの。即位し崩御するまでの間に何らの波乱もなく国の繁栄を維持した王は賢君とするにふさわしいが、その実扱いは地味だろう?」
ティエラは狭いソファで器用に寝返りを打って、イオストラに顔を向ける。
「結局、他者を理解するにはそれなりの器量が必要なのだ。そして衆愚はその器量を持ち合わせない。世界を救っても暴君とされた王もいたし、国費を使い尽くして民に施しをして賢君と称えられる王もいた。次代で国は滅んだけれどね。君の為そうとしていることの評価が出るのは百年は後のことだろう。あの若造の言葉など、省みるに値しない。」
「それは私の望む皇帝の姿ではない!」
布団をはねのけると、生温かい部屋の空気がイオストラの肌を舐めた。
「ほう。では、君はどんな皇帝になりたいのだ?」
ティエラの緑色の瞳が、楽しそうな色を孕んだ。イオストラは声を詰まらせる。
「それ、は……!」
「君は玉座を求めているが、玉座自体は目的たりえない。何を為すために至高の地位を欲する? この神聖帝国をどう変えたい?」
イオストラは黒目を揺らした。皇帝になるのは当然のことだった。そこに理由など不要だった。それが今、揺らいでいる。
「……私は……」
望まれるまま、促されるまま、自分が皇帝であるべきだと思って突き進んで来た。敵対する者は全員が悪のはずだった。なのに敵対する者たちにも立場や考えがあるという当たり前のことに気が付いてしまうと、言い張ることしかできなくなった。自分でも薄々気が付いていた。
「母の代から、聖教会が私の敵だった。あれが諸悪の根源だ……」
「そうかな? 実際には聖教会の力によって神聖帝国は守られ、繁栄しているように見えるけれど。」
「神聖帝国には皇帝がいる。主権は皇帝のものなのだ。だが法王は何世代にもわたって皇帝を操って帝国を支配してきた。法王の決定にはおよそ理解できない奇怪なものもある。この国は化け物に支配されているのだ。それは健全な状態とは言えない……」
「では、聖教会を排した後にどのような国を望む?」
イオストラは口を閉ざす。ティエラは憐れむように微笑んだ。
「間違っている者に間違いを突き付けるだけでは何も解決しないのだよ。」
イオストラはティエラの顔を正面から見つめた。美しい顔だった。驚くほどエルムによく似ている。その顔を見ていると、何か不思議な気分になった。
「……何故私は貴殿とこのような問答をしているのだろう?」
「君が落ち込んでいるようだったから、助言をしてあげたのさ。」
ティエラは肩を竦めて見せた。
「そうか。ありがとう。」
イオストラは深く息を吸うと、体を抱え込むようにして丸くなる。頭から布団をかぶり、自分の体温と闇だけの世界に閉じ
甘く軽薄な許しの声は、どこからも聞こえてこなかった。封珠を握って、イオストラは深呼吸を繰り返した。
「イ、イオさん……」
カレンタルが布団越しにイオストラに触れる。彼を心配させて、不安にさせて……。
瞼の裏を、何人かの顔が移り行く。カレンタル、サファル、リャナ、グラノス、そしてエルム……。イオストラを頼みの綱とする者、寄り添おうとする者、望みをかける者、偏愛する者。
大義を否定されても、彼らの信頼に背を向けるわけにはいかない。縮こまる弱い自分を叱咤する。
大丈夫、まだ立てる。
虚勢を張れ。自分を騙せ。目を背けろ。
布団をはねのけて、勢いベッドの上に仁王立ちした。
「行くぞ、カレンタル。」
「え?」
カレンタルが目を丸くした。イオストラは
「オヴィスにもう一度会う!」
「え? え?」
困惑するカレンタルを押しのけ、大股に部屋を横切って、ドアを叩く。
「おい、出せ。若頭に会わせろ!」
「はぁ? バカ言ってるんじゃねえよ!」
無礼な答えが返って来た。イオストラは腕を組む。
「ちっ! クソが……」
「皇女殿下とは思えない口の悪さだね。」
ティエラがイオストラの隣に立つ。直後、強烈な蹴りが弾けた。ひしゃげたドアが廊下を横断して反対側のドアに衝突する。
「なっ?」
上ずった声を上げた見張りが状況を把握するよりも早く、ティエラは彼らを昏倒させていた。
「お、おい……。そんな手荒な……」
「ん? だって、出たかったのだろう?」
ティエラはきょとんと首を傾げてイオストラを振り返った。
「ああ、確かに出たかったのだが……。これではまるで宣戦布告では……」
「ん? 違うのか? 皆殺しにして脱出するのだよね?」
「交渉しに行くんだよ!」
「なんと。権幕の割に、穏便だな。」
ティエラはそう言って怪しく笑った。
「確かに、な。ああ、君の言う通りだ。……これは宣戦布告だよ。」
何事かを振り切った漆黒の瞳が、冷たい光を湛えて揺れた。
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