21. よろしく頼むよ

 司鳥局しちょうきょくからの帰りにパンを二つ購入して、イオストラは宿へと急ぐ。財布がどんどん軽くなる。貨幣が消えた空間に不安が流れ込んで膨れ上がってゆく。


 イオストラの状況は敵に把握された。今に化け物どもが大挙してこの街を取り囲むかもしれない。だというのに、イオストラにはこの街から出る算段が付かないのである。砂漠に出るためには装備を整えねばならないのだ。


 イオストラ一人分の装備なら何とか整えられるだろう。だがカレンタルの分を用立てるには資金が不足している。それが一通り市場を巡って得た結論だった。

 カレンタルは先の闘いで敵に強い印象を残してしまっているから、ここに残していくわけにはいかない。


 自分とカレンタルの身を守らねばならない。だが今のイオストラはあまりにも無防備だ。心細かった。立ち止まると不安に包み込まれてしまいそうな気がして、イオストラは足を速めた。


 小さな宿に入り、立て付けの悪い扉の前に立って、イオストラは一度深呼吸をした。


「カレンタル、落ち着いたか?」


 声をかけて中に入ると、カレンタルは部屋の角で縮こまっていた。イオストラを見ると瞳一杯におびえを浮かべ、ますます身を縮める。


「ご、ごめんなさい……」


 カレンタルは小さく謝罪した。


 敵のヒルドヴィズル達が敗走した後、二人は目覚め始めた街の中を彷徨さまよい歩き、小さなホテルに部屋を取った。薄くもろい壁に四方を囲まれただけで、馬鹿みたいな安心感が二人におおい被さってきた。

 それがいけなかったのだろう。危険から遠ざかった瞬間に、カレンタルは自責の念に呑み込まれた。人を殺した。その事実を前にして、彼はすくみ上がってしまった。


「気にしなくていい。」


 イオストラの言葉に、カレンタルはますます顔をうつむかせた。気にするなと言われてもそうはいかないのだろう。彼はイオストラに許しを求めているわけではない。自分で自分を許せないでいるのだから。


 イオストラは首から下げた封珠ふうじゅを手の中に握った。冷たい感触が掌に伝わる。エルムは呼びかけに応えない。


 束の間迷った後に、彼女は腹を決めた。カレンタルに全てを明かす、と。

 指を開いて封珠をカレンタルに見せる。淡い光がイオストラの手のひらに薄く広がった。


「エルムなら無事だ。あいつは人間ではない。ヒルドヴィズルでもない。エルムの本体はこの玉だ。人の形はハリボテに過ぎない。……だから、エルムは大丈夫だ。……だと、思う。」


 断言することはできなかった。イオストラが呼んでもエルムは何の反応も示さない。こんなことは初めてだ。

 このまま反応がなかったらどうしよう。そう思うと、胃が引きるようだった。それでもイオストラは自信満々に笑ってみせた。


「あいつは死なないさ。」


 封珠を見るカレンタルの目が揺れた。青い目は探るようにイオストラを見つめる。


「あの、エルムさんは……何者なんですか?」


 当然の問いかけだった。だが、イオストラは答えを持ち合わせていなかった。


「悪魔だよ。……私に取り憑いた、悪魔だ。」


 曖昧に答えてカレンタルの前に座る。二人は狭い部屋の中で、膝を突き合わせた。


「名乗りが遅れたこと、謝罪しよう。私はイオストラ・ミュトラウス・レイカディア。ミュトラウス十五世の子供にして、真のミュトラウス十六世だ。」


 イオストラの名乗りに対し、カレンタルはきょとんと眼を瞬かせた。


「……えっと、みゅとらう……?」

「ミュトラウス。十代ほど前から我が国の皇帝は皆ミュトラウスを名乗っている。……知らないのか?」


 イオストラの言葉に、カレンタルは顔を赤らめて頷いた。


「雲上人のことは良く知りません……。ましてや皇帝陛下なんて……皇帝、陛下……?」


 カレンタルの目が見事な円形を描く。


「ああ、私が正統なる玉座の主だ。」


 イオストラは胸を張った。


「ことは先帝の暗殺にまでさかのぼる。」

「先帝……え、えっと……イオストラ様の、お父さまですね?」


 確認するようにカレンタルが言った。


「母だ。先帝ミュトラウス十五世。またはアイエル女帝という。」

「じょ、女性……? 暗殺、されたのですか……?」


 カレンタルはますます驚いた様子だった。イオストラは少し悲しくなって背中を丸めた。


「ああ、殺されたのだ。その、もしかして、それも知らない?」


 探るように尋ねたイオストラに、カレンタルは自信なさそうに頷いた。


「その、あんまり遠い出来事なので……」


 カレンタルは慌ててフォローする。イオストラは肩を落とした。


 イオストラにとって先帝の暗殺はあまりにも大きな出来事だった。世界の全てが糾弾すべき悪だった。それを為した叔父から玉座を奪還するこの戦いは正義と悪が雌雄を決する戦いであるはずだった。

 だがそれはカレンタルにとって遠く軽い出来事なのだ。


「私の母、先帝アイエルは弑逆しいぎゃくされた。手を下したのは異母弟……現在の皇帝だ。その裏で手を引いていたのが帝国を裏から操る聖教会だ。」

「聖教会って、あの聖教会ですか? 病気を診てくれたり、読み書きを教えてくれたりする……」

「ああ、その聖教会だ。」


 カレンタルの表情は、彼の不納得を遺憾なく示していた。


「奴らは高度な古代文明を独占し、秘匿している。それによって我が国の歴史を裏側から支配してきた。先帝はそれを解体しようと試みて不可思議な死を遂げた。そして私はアンビシオンに流された。」


 成人を迎えた時、イオストラは玉座を正当な皇帝に戻すよう偽帝に働きかけたが、無駄に終わった。だから兵を挙げたのだ。


「だが、認識が甘かった。今回のことはあくまでも内紛に過ぎない。慣例に従うなら聖教会が表立って手を出してくるはずはなかった。ところが実際にはヴァルハラの門は開き、化け物どもが出張って来た。」


 イオストラの軍は壊滅。イオストラ自身はエルムの助けがあって無事落ち伸びることができたのだが、第一大陸を四分する山脈の敵陣地側に孤立してしまったわけである。


「幸い敵には認知されないまま逃げて来たのだが、今はもう捕捉されてしまっている。エルムも呼びかけに応えないし……。状況は絶望的だ。」


 つい弱音を零して、イオストラはハッとした。カレンタルがまた縮こまってしまっていた。


「本当に、ごめんなさい……。僕のせいです。」

「あれは君の意志ではなかった。フルミナに操られていたのだろう?」

「僕の中に撃ちたいという心があったから撃ったんだって、フルミナさんが……」

「あんな奴の言うことを真に受けてどうする。」


 真赤に塗りたくった唇をついと上げて微笑むフルミナの姿が、イオストラの脳裏に蘇った。

 彼女の全身は相手を幻術に落とすための仕掛け。彼女の口から転げ出る言葉は全てが相手の精神を蝕むための毒。信憑性のない言葉でも心の端に引っかかれば、いつまでもいつまでも気にかかる。虚と実の境にあるからこそ、余計に大きな存在感を伴う。

 彼女の悪意は、未だにカレンタルの内側で渦を巻いている。


 どうやって彼を立ち直らせればいいのか。イオストラは指の間で封珠を転がして考え込んだ。


「僕は……デスガラルさんのことも撃ってしまいました。」


 カレンタルの声が、イオストラを現実に引き戻した。


「ん?」


 イオストラは眉根を寄せた。自分の思考に沈んでいたせいだろうか。何事か悔やんでいるような彼の口調の意味するところが、イオストラにはよく解らなかった。


「それは……その、お手柄、だったと思うのだが? 君のおかげで私は助かった。」

「人を殺してしまいました。」


 青ざめ震えながら、カレンタルは懺悔ざんげする。


「先方が我々を殺そうとしたのだから、仕方ないだろう。」


 イオストラの言葉に、カレンタルは苦しげな表情を浮かべて首を横に振る。


「酷いことをされたからって酷いことをしていいはずがないじゃないですか……」


 イオストラは息を呑む。頭に集まっていた血液が、一斉に引いていくのを感じた。空になった頭がバランスを失ってゆらゆらと揺れる。


「た、多分だが、デスガラルも無事だ。ヒルドヴィズルは死ねば体が消えるはずだから……」


 そうとも限らないことをイオストラは知っていたが、ここはえて黙っておくことにした。深い呼吸をして心を落ち着ける。


「ほ、本当ですか?」


 あんな男が生きていると聞かされて、カレンタルは心底安堵し喜んでいた。その姿はイオストラの胸を不吉にざわつかせた。


「君は誰一人として殺していないし、敵を傷付けた分だけ味方を救った。君は自分を誇っていい。」


 イオストラが精一杯に口にした慰めの言葉を聞いて、カレンタルはまたしょんぼりと肩を落とした。


「誇るだなんて……。人に向けて銃を撃って、当たって……それで僕は、喜んだんです……! スカッとしたんです! そんなこと……なんて、酷い……!」


 自分自身を責め立てるカレンタルの言葉は、着実にイオストラの心をえぐった。イオストラはあえぐように息を吸った。彼を慰める言葉はひたすら空回る。噛み合わない。

 イオストラは必死になって言葉を探した。今はただこの話題から逃げたかった。彼の口から吐き出される自責の言葉を、なんとしてでも防ぎ止めたいと願った。


「そ、それよりもカレンタル、君のこれからのことを相談したい。」


 イオストラは強引に話の筋を捻じ曲げた。抱えっぱなしだったパンを差し出すと、カレンタルはおずおずと受け取り、肩を縮めて上目遣いにイオストラを見た。イオストラは自分のパンを一口食べる。カレンタルも控えめにパンをかじった。


「君とはここで別れようと思っていたのだが、先の闘いで君は我々の仲間という印象を敵の幹部に残してしまった。ここは君にとって安全ではなくなった。どこかに縁故はないのか?」


 カレンタルはパンに視線を注いでしばし黙考した後、か細い声で答えた。


「兄が、アンビシオンに出稼ぎに行っています……」


 イオストラはほっと息を吐いた。


「そうか。なら、共にアンビシオンまで行こう。着いたあかつきには最優先で君の兄を探すと約束する。」


 カレンタルが顔を上げた。青い目が初めて正面からイオストラを見つめた。


「お手数、おかけします……」


 小さな声でカレンタルは言った。


「勿論だ。」


 イオストラはどんと胸を叩いた。虚勢の音が胸腔きょうくうに響いた。


「しばらくの間よろしく頼むよ。カレンタル・ロコニオ。」


 困ったような怖がっているような、そんなぎこちない笑顔を浮かべて、カレンタルは頷いた。イオストラも精一杯の笑顔を見せた。


(私はね……)


 笑顔の裏で、イオストラはそっと呟いた。


(酷いことをされたから、酷いことをしているんだ……)


 この青年は優しく素朴で謙虚な、愛されるべき人間だ。それなのにイオストラは心の底でこの青年に対する忌避感きひかんを覚えている。

 それに気付いて泣きたくなった。


 イオストラの醜さを、この青年は容赦なく突き付けるのだ。

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