22.おはよう、イオストラ

 差し当たってどうすればいいものか……。


 イオストラは財布の中身をひっくり返して、姿を現した貨幣とにらめっこをした。その貨幣の量にカレンタルは目を丸くしたが、イオストラの試算では二人が砂漠を超える装備を手に入れるにはあまりにも心許こころもとないのである。


「こ、これで足りないんですか?」


 カレンタルが上擦うわずった声で尋ねた。


「ああ。足りない。」


 イオストラはきっぱりと答えた。自らの目で市場の価格を調査した結果である。


「そ、そうなんですね……。砂漠越えをする商人って、やっぱり凄いんだな……。こんな大金、普通は用立てられませんもん。」


 カレンタルはしょんぼりと肩を落とした。その言葉に、イオストラは違和感を覚えた。


「普通は用立てられない? だが、インドゥスとデセルティコの間は比較的人の往来が活発なはずだ。」

「え、ええ。道も整備されていますし、砂漠越え用の装備もセットで販売されているって、聞いたことがあります。」

「そのセットが高額なんだ。しかも、セットの想定日数は一日だと書かれていた。あんな荷物を背負って一日で踏破できるとは思えない。……水と食料は買い足さねばならないだろう。」


 それ以外にも必要なものがある。まずは服だ。汚れが目立つぼろぼろの服を、一刻も早く着替えたい。気持ち悪いというだけではない。病気の危険が増すし、人目も引く。

 テルに折られた剣も、新しいものを探さねばならない。医者も探す必要がある。


「はあ……」


 溜息をこぼす。左の手の甲が痛んだ。フルミナの術を逃れるために自ら付けた傷だった。血の滲む包帯越しにそっと手をえた。止血も消毒もしたが、嫌な熱を持っている。

 エルムがいなければ、こんな傷一つが命取りになる。


「イオさ……イオストラ様。」

「旅の間はイオで構わない。どうかしたか、カレンタル?」

「値引き交渉、しましたか?」


 問われて、イオストラは目をしばたかせた。


「値引き交渉? なんだそれは。」

「えっと、そのぅ……言えばまけてくれます。」

「まける……つまり、値引きか? だが、彼らは自らの商品にその価値があると思えばこそ値札を付けているのだろう? それを値切るなど、無礼ではないか。」

「そ、そんなことはありません。多分。値切られるのを前提で値段を付けているはずなので……」

「な、何だそれは! ぼったくりじゃないか!」


 イオストラは唇をへの字に曲げて不平を言った。


「つまり、店頭の表示価格はあくまでも最大値に過ぎない、と?」


 だとすれば何をどれだけ手に入れられるかは交渉次第。よくよく用意する荷の全体像を把握して買い物にかからねばならない。


「荷が多くなればかかる日数も増す……。日数がかかるほど歩みはますます遅くなる。だが砂漠では食糧も水も入手し難い。不足は命取りになる……!」


 何をどう計算すればいいのか。考えは深まるほどに混迷を増す。エルムの力が失われた状態で未知に踏み出すことが、こんなにも難しいことだなんて……。


「さ、砂漠越えの時は、オオアシを借りるのが良いと、前に商人の方から聞きました。安く借りられるって。」

「オオアシを?」


 オオアシは巨大な二本の後ろ足で歩行する騎乗用の爬虫類である。馬ほどの力はないが機動力は非常に高く、悪路に強い。オオアシに騎乗できたなら、砂漠を一日で走破するのも難しい話ではない。

 カレンタルが聞きかじった値段を聞いて、イオストラは思わず笑みを浮かべた。


「なんとかなりそうだな。」


 イオストラは貨幣を集めて袋に入れ、立ち上がる。


「よし、必要なものから買って行こう。まずは武器だな。」

「ま、まずは武器……ですか?」


 カレンタルは微妙な疑問符を浮かべつつ、それでも従順に頷いた。




 半日で街を巡り、必要なものを一通り買いそろえたイオストラは、非常に満足している様子だった。


「よし、後はオオアシを借りるだけだな。」


 イオストラが購入した新しい衣服は、以前身に着けていたものとは比べ物にならない安物だ。

 普通の町娘と変わらぬ装いなのに、そこはかとない高貴さが滲み出している。安っぽい服と長く美しい黒髪との乖離がますます彼女を街の喧騒から浮き上がらせていた。


 そんなことは気にも留めず、彼女は賑わう商店街をずんずん歩く。


 並んだ商品を興味深げに眺めつつ、彼女の足は止まらない。強く興味を惹かれるほどに、かたくなに先を急ぐ。

 汚れを洗い流した黒髪が、彼女の動きに合わせて光を弾く。黒い髪も長い髪も珍しいから、彼女はとても人目を惹いた。


 彼女が足を止めたのは、オオアシの貸し出し所だった。荒々しい雰囲気の男が店頭にいて、ぎょろりとした目をイオストラに向けた。


「オオアシを借りたいのだが。」


 イオストラは傲然ごうぜんと言い放った。店番の男は鼻を鳴らして、不愛想に値を告げた。それを聞いて、イオストラは目を丸くする。


「馬鹿な。聞いていたより高いぞ。」


 カレンタルの背中に汗がびっしりと浮かび上がった。慌てて記憶を探るが、こんなに高いはずはない。


「こっちも商売なんでね。安く貸し出して、そのまま帰って来なかったらやってらんねえ。買取価格で貸して、戻って来た時に貸し出し価格の差額を返してんだ。」

「な……! 私が盗むとでも思うのか?」


 イオストラは憤懣ふんまんを隠しもせずにそう言った。


「こちとらそういう商売をしてんだ。従えねえ奴には貸さねえ。」 


 貸し出し価格は、確かにカレンタルの聞いた通りのものだった。だが手持ちの金は一時的に支払わねばならない額を満たさない。イオストラは首から下げた宝玉を握った。自分で気が付いているのかいないのか、不安を感じた時、彼女はそうして宝玉を握る。


「おう、その宝玉なら対価としては十分だ。売るかい?」


 男が手を差し出した。イオストラは拒絶するように一歩下がった。


「なら金策をしてから来るんだな。」


 男は鼻白はなじらんだように言った。イオストラは目を伏せる。髪が柔らかく流れ落ちた。男がぎょろりとした目を細める。


「嬢ちゃん、髪を売らねえか?」

「髪?」


 イオストラの声がひっくり返った。


「かつらの材料にするのさ。高貴な方々がおしゃれに使うらしいんだがな。それだけ長くて綺麗な黒髪なら、かなりの額で売れるだろうよ。」

「か、かつら……」


 イオストラはショックを受けたように呟いて、緑の黒髪を握る。


「か、彼の言うことは本当か?」


 イオストラはカレンタルを振り返り、おろおろと問いかける。カレンタルは首肯しゅこうした。

 確かに髪は高く売れる。庶民の多くは一定の長さまで伸びると髪を売って生計の足しにしていた。だからイオストラの長い黒髪はとてもよく目立っていたのである。


「わ、解った。売る。」


 イオストラの決断は迅速だった。答えるなり、彼女は髪を根元で束ねて、購入したばかりの質素な剣をえた。


「待て待て待て! ここで切られても困る! 散髪屋に行って売ってこい。」


 店頭の男の慌てた声が、インドゥスの街に広く響いた。



*****



 宿の小さな鏡の前に立って、イオストラはまじまじと己の姿を確かめていた。


 頭が妙に軽い。強烈なくらいにまっすぐで量も多い髪は、重さを失うと大きく広がって鬱陶うっとうしい。長い髪によって誤魔化されてきた童顔が白日の下に晒された。

イオストラは少しばかりの後悔と共に、髪に手櫛てぐしを入れた。寂しい感触が返ってきた。頭が軽くなったのと引き換えに、財布はずしりと重みを増した。


「少し目を離したうちに酷いことになったもんだ。」


 低い声が部屋に響いた。イオストラの心臓が大きく脈を打った。振り返ると、安宿には似つかわしくない美の化生がそこにいた。カレンタルが息を呑む音が空間を揺らした。


「……エルム……」

「おはよう、イオストラ。」


 エルムはいつもの通りの笑顔を浮かべて、そっと首を傾げた。ゆるりと立ち上がると、イオストラに歩み寄る。彼の歩みに合わせて空気が揺らぐ。

 しなやかな指がイオストラの髪をいた。


「やれやれ。眠っていたのは半日程度のはずだが。お前は全くじっとしていない。」


 エルムは物憂げに息を吐いた。包帯越しにイオストラの手に触れると、優しい熱が傷を包んで瞬時に癒した。


「髪、伸ばしてやろうか?」


 滑らかな声がイオストラの耳に熱を集めた。イオストラはエルムの手を可能な限り邪険に払った。


「これは私が私の判断で切ったのだ。余計なことは許さん。」

「そうかい。それならせめて……」


 エルムは優しく目を細めた。


「俺がお前を見る度に込み上げる笑いを虐殺しなくて良いように、そのみっともない頭髪を整えさせておくれ。」


 優しい声で、エルムは言った。イオストラは顔を真っ赤に染めて、涙目でエルムを見上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る