23.エルムはずっと君の味方だ
ハサミの噛み合う音を耳元で聞きながら、イオストラは脹れ面で椅子に腰かけていた。
エルムが戻るなり、カレンタルは慌てたように出て行ってしまって、部屋にはただ二人きり。
「全く、ここまで短くしなくたっていいだろうに……」
部屋が静かなだけに、
「う、うるさいな。私が髪を切るのは私の勝手だ!」
「イオストラ……俺の好みは長くて真直ぐな黒髪なんだ。」
「お前の好みなど知らん!」
鏡の中のエルムの顔に満足げな笑みが浮かぶ。
「罵倒されて何を笑っている、この変態!」
「おやおや……」
エルムの笑みに意地の悪いものが加わった。
「考えの足らないイオストラ……。君は俺を変態というが、世間の闇はもっと深いぞ。例えば君の髪を食ったり巻いたり匂いを嗅いだり、その他君の耳にはとても入れられないようないかがわしい行為に使う輩に購入される可能性を、君は少しでも考えたのかな?」
「ひっ?」
イオストラは思わず上擦った声を上げてエルムを振り返った。エルムは勝ち誇ったような表情でイオストラを見下ろしていた。
「だ、だって……カツラに使うって……」
「そんな言葉が保障になるものか、世間を知らないお馬鹿さん。」
いかがわしい行為とやらを想像して、イオストラは顔を赤らめた。失敗の自覚がますます血液を顔面に集めた。いたたまれなくなって顔を伏せようとすると、エルムがひょいと頭を掴んで視線を鏡に向けさせる。
「前を見ていてくれないと髪が切れないじゃないか。」
愉悦を隠そうともしないエルムの声に、イオストラの感情が突沸した。
「私の頭から離れた髪がどのような扱いを受けようが、私には関係ないし、興味もない!」
イオストラは潤んだ目で鏡越しにエルムをきつく睨みつけ、早口にまくし立てた。
「おや、そう単純なものでもないぞ? フルミナが得意とする東方の創世術——いわゆる呪術という奴には、髪の毛を使って術をかけるようなものもあってな……」
「え?」
イオストラはギョッとする。艶めかしい赤に塗られた唇が形作る不気味な笑みが、脳裏に蘇った。
「想像を絶する苦しみにのたうち回るうち、皮膚が剥がれて爪は割れ、口からはみ出た肺を自ら噛みちぎって果てるという……」
情感たっぷりにエルムは語る。沸き上がった感情が恐怖に吹かれて凍り付く。
「まあ、そう簡単に成立する術ではないが。」
エルムは白々しく付け加えた。イオストラは静かに拳を握る。この男、イオストラをからかって楽しんでいる。イオストラは背筋を伸ばして胸を張った。
「お前に頼らずに金策をしたのはそれなりの成果だ!」
「ああ、最悪の戦禍だよ……。全く、胡散臭い商談に乗って大事な髪を……」
「み、見ていたのか?」
イオストラはバツの悪い心地になった。背中が自然と曲がった。
「ああ、眠っている間も外で起きていることは知覚していたよ。お前が俺を思って涙で頬を濡らしていたこともちゃんと知っている。」
「全く知覚できていないではないか! 泣き
「そこは嘘でもいいから泣いたと言うべきだと思うよ、お姫様。その方が可愛いからね。」
「貴様に可愛いなどと思われたくない!」
エルムは楽しげに目を細めた。イオストラは一つ咳払いをした。少し迷った後に、意識的に作った冷たい声で尋ねる。
「もう、大丈夫なのか?」
「ああ、てんで平気さ。」
パチン。刃が噛み合って、イオストラの髪がはらりと落ちる。
「そうか。散髪くらい指の一振りでできるはずなのにハサミを使っているから、不調なのかと思ったが。」
「女子の髪を切ろうというのに触れることもなく終わらせる男がどこにいる?」
頭に上って来る熱を、イオストラは苦労して抑え込んだ。この男、誤魔化しているのか、それとも本気なのか……?
「闘えるか?」
「当然さ。」
「無理なら私が闘う。お前の支援があれば――」
「駄目だ。」
エルムは妙にきっぱりと答えた。
「あれはあくまでも緊急避難さ。体を再構成する余裕さえあれば、君を闘わせたりしなかった。」
怪我でもしたらどうする、とエルムは言った。エルムの指が髪をなぞった。鏡の中で、彼は穏やかに微笑んでいた。
「お前に聞かねばならないことがある。」
「なんだい?」
イオストラの緊張を嘲笑うように、エルムは優しく問い返す。
「お前は私の味方か?」
「勿論だとも。」
少しの
「君が俺に名を与えた時から、エルムはずっと君の味方だ。」
「では――」
イオストラは少し迷ってから、言葉を続ける。
「私と出会う前、お前はどこで何をしていた?」
「俺は君と出会った時点で形成された。それ以前というものはない。」
その言葉はイオストラを納得させるものではなかった。
「テルとフルミナ……それに、アルボル。」
イオストラが彼らの名を口にすると、エルムは眉尻を下げた。
「彼らはお前の
「君が気にすることではないさ。」
「それは私が決めることだ。」
エルムは肩を竦めると、イオストラの髪を軽く引っ張った。イオストラは顔を
「……西方教会のことを知っているか?」
「聖教会から分離した宗派だろう? リニョン王国と共にあったという……」
「彼らが崇めたのが白の魔法使いだ。そしてリニョン王国が神聖帝国に再併合されるのと同時に彼らは聖教会に呑み込まれ、白の魔法使い信仰は消滅した。西方教会……そっくりそのまま、現在の西方師団だ。」
エルムの指がイオストラの髪をさらさら揺らす。黒髪の切れ端がぽろぽろと零れ落ちる。
「白の魔法使いとはお前のことではないのか?」
イオストラの問いに、エルムは少しだけ考えるように首を傾げた。
「確かに俺は白の魔法使いだが、白の魔法使いが必ずしも俺というわけではない。」
謎かけめいたことをエルムは言う。
「白の魔法使いは西方師団のことをよく知っているし、それなりの愛情も持っていた。だが俺にはどうでもいいことだ。」
エルムの笑顔の向こう側にどんな気持ちが潜んでいるのか、イオストラには読み取れなかった。
「どうでもいい、か。」
イオストラは呟いた。目を伏せると、安宿の床には黒い髪が散らばっている。
アルボル、テル、フルミナ……。彼らは皆、白の魔法使いとの関係を築いていたはずなのだ。それでもエルムは彼らを斬った。
「いつか私もそうやって捨てるのか?」
エルムの指がイオストラのうなじを滑って髪を持ち上げる。指の隙間から零れた髪が、さらりと首をくすぐった。イオストラは身じろぎした。
「その心配をする必要はない。君がそうと望む限り、エルムはずっと君の味方だ。」
ハサミが髪を梳く。黒い髪が舞い落ちる。
「だがイオストラ。お前はいつか、エルムを捨てなければいけないよ。」
その声は冷たくイオストラの耳に滑り込んだ。振り返ろうとした機先を制するように、エルムはイオストラの頭に手を置いた。
「そら、終わったぞ。かなりマシになっただろう。」
一転して朗らかな声で言って、エルムはイオストラの頭を軽く叩いた。イオストラは鏡を覗き込んで、首を左右に揺らした。肩までの長さになった髪が、ひとまとまりに顔の角度を追った。
「気のせいか、伸びているような……」
髪の流れに手を添わせて、イオストラは疑問を口にした。
「せめてこれくらいの長さはないとね。俺の好みは満たせない。」
エルムは上機嫌にイオストラの頭を撫で回す。彼の手の動きに合わせて緑の黒髪が光を弾く。
「お前の好みなど知るか!」
イオストラはエルムの手を払って立ち上がった。
「ご苦労だった。すぐに出発するぞ。砂漠越えの道具一式は揃えてある。後はオオアシを借りるだけだ。」
「おや、忙しないことだ。ボロとは言え久しぶりの屋根の下。ゆっくり休んで行ったらどうだ?」
「そんな時間があるか!」
居場所も目的地もバレているというのに、あまりに長く足を止めてしまった。このままではまたインドゥスを戦場にしてしまう。
「そう急くな。無理をして急いでもろくなことにならん。それに、ここで仕掛ける気があるならとっくにそうしているさ。」
「それは、そうだが……」
イオストラは目を伏せた。エルムは
「俺もまだ
イオストラはちらりと外に目をやった。傾きを増した太陽が、
エルムの忠告は解りにくく、しかも胡散臭い。だがいつも正しかった。不本意であってもエルムの言葉を聞くのが良いのだと、イオストラは学習してしまっていた。
「解った……。お前の忠告に従うよ。」
イオストラは
「ゆっくりお休み、イオストラ……」
エルムは優しく囁いて、溶けるように姿を消した。イオストラは窓の外に視線を向ける。
燃えるような夕日は
アンビシオンではまだ夕日が見えているだろうか。
落ち着かない心地でイオストラはベッドに腰掛けた。
音もなく部屋を満たす闇の中に、目指す未来は見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます