24.いい度胸だな
街に落ちた夜の
カレンタルは慌てて口を押えて、周囲を確認した。
自分のくしゃみが誰の眠りも妨げなかったらしいことを確認して、カレンタルはほっと息を吐いた。
冷たくなった指先を
カレンタルは宿の外に一人腰掛けて、体の先端から迫る冷気と闘っていた。
「何をしているんだ?」
ふと、滑らかな声が降って来た。カレンタルは顔を上げる。宵闇に注ぐ淡い月明かりを
「イ、イオさんがお休みだったので……」
「だからってどうしてこんな寒いところに縮こまって震えている?」
「部屋が一つしかないですし……ね、寝ている女性と同じ部屋にいるわけには……!」
カレンタルが答えると、エルムは失笑した。
「気の利かない子で悪いね。」
「い、いえ。お金を節約しなくちゃいけないですし、仕方ないです。」
カレンタルは横目でエルムの様子を
カレンタルは一つ息を吸い込むと居住まいを正し、エルムに向き合った。
「エ、エルムさん。僕は、あなたに酷いことをしてしまいました! 許していただけるなんて思っていませんけど、どうか謝らせてください……!」
カレンタルは頭を下げた。笑みの気配が後頭部を
「安心してくれ。一度や二度射殺された程度のことで腹を立てるほど、俺は
異様に寛容な言葉を吐いて、エルムはイオストラの休む部屋の窓を見上げた。
「イオストラに傷の一つでも作っていたら殺してやるところだったが……」
カレンタルの毛穴から冷たいものが入り込み、感覚神経を這い上がって
「あの子に感謝しておきなさい。お前の命がまだあるのはあの子がそう望んだからだ。」
この人は本当にイオストラのことを大切に思っているのだと、カレンタルは実感した。
けれど、ならばどうしてイオストラは彼のことを警戒しているのだろう? 彼女は確かに、彼を悪魔と呼んだのだ。
「エルムさん、聞いてもいいですか?」
カレンタルはエルムを
「イオさんはどうしてエルムさんのことを悪魔だなんていうのでしょう?」
エルムは不思議そうな目をカレンタルに向けた。
「ここまで俺のことを知った上で、それを疑問に思うのか?」
「え? だって、エルムさんは優しい人ですよね。」
「優しい人、ね。変わった見方だ。」
エルムは冷ややかな声で呟いた。
「イオストラが俺を悪魔と呼ぶことに疑問に感じたというが、そもそも彼女がどういう意味でその言葉を使ったと思う?」
「えっと……悪い人、という意味でしょうか?」
「違うだろうなあ。」
カレンタルの言葉をまったり否定して、エルムは掌を上に向けた。周囲が俄かに明るくなった。エルムの手の上に浮かぶ炎が熱を発して、冷たくなった肌に沁み込んでくる。
「なあ、カレンタル。損得を度外視して他者を助けるような人間がいると思うか?」
「いると思います。」
「そうか、いると思うのか……」
カレンタルが即答すると、エルムは呆れたような表情をした。
「だって、イオさんとエルムさんは僕を助けてくれましたよね。」
エルムは何故か黙り込んだ。その姿は、言い合いに負けて
「もしも君が俺を定義したなら、俺はきっと吐き気のするような善良な人格になるのだろうね。ああ、嫌だ嫌だ。」
「あ、あの……僕、何か気に障るようなことを言いましたか?」
いや、と言って、エルムは首を横に振る。柔らかな髪がふわりと揺れた。
「話の腰を折られて少し殺意が湧いただけさ。」
「射殺されても怒らないのにッ?」
どこか楽しげにエルムが笑う。温められた空気が体に入り込んだためか、カレンタルの胸に仄かな熱が灯った。
「で、でも、実際にそうでしょう? ハッキリと思い出したんです……。僕、死ぬところだったんですよね。それをお二人が助けてくれたんです!」
「殺されるところ、だったんだがね。」
エルムが強い口調で訂正を加えた。
「君は実に気色悪いな。おかげで話がさっぱり進まない。君みたいな冴えない男の話ではなく、可愛い可愛いイオストラの話がしたいんだよ、俺は。」
「あ、はい。イオさん、綺麗な人ですよね。怖い人かと思っていましたけど、優しいですし。僕はあの人が好きですよ。」
「……ほう。いい度胸だな。」
乾いた声が、カレンタルの恐怖心を煽った。カレンタルは身を縮める。
「ち、違うんです。好きっていうのは、その……何の役にも立たない僕なんかを気にかけてくれますし! 感謝の心ですから!」
「ああ、それだ。そう言う考えだよ。」
「え?」
エルムは
「強大な力を持つ者が、何故自分などを助けるのか。利害の見えない相手が与える善意への警戒心。イオストラが俺に抱く疑念の正体はまさにそれだ。そしてあの子は悪魔という答えを見つけ出した。」
エルムは視線を空へと向ける。夜の空に散りばめられた星々が、不安げに瞬いていた。
「悪魔は人に力を与え、代償を求める。」
エルムは
「あの子は自分に自信がない。だから自分に都合のいいことがあると、全部俺の仕業だと思い込んでしまう。そして代わりに何を求められるのかと怯えている。」
俺は何もしていないし、何を求めるつもりもないのに。エルムはそう
「ご、誤解だっていうんですか? そんな……」
「まあ、仕方のないことだがな。俺もけっこう酷いことをしたし。」
どこか諦めたようにエルムは呟いた。
「な、何をしたんですか?」
「ミートパイの妖精をけしかけたんだ。」
炎の生み出す影が、憂いに満ちた表情を揺らす。それが絵画であればどれほどに美しいだろうとカレンタルは思った。絵には音声が付かないので。
「えっと……ミートパイの妖精?」
カレンタルは恐る恐る、その言葉を繰り返した。おかしいのは耳なのか頭なのかとなじられるのも覚悟の上だった。
「そう、ミートパイの妖精だ。」
エルムはあっさりと頷いた。笑うべきなのか神妙にすべきなのか判断しかねて、カレンタルは困り果てた。
「ちょっとした倫理教育だったのだけど、以来ものすごく嫌われてしまって。」
「倫理って……食べ物を粗末にしてはいけないとか、そういうことですか?」
「そういうレベルの話さ。」
エルムはどこか懐かしそうに頷いた。
「まあ、確かにあれは少々やり過ぎだった。非常に微妙ながら反省している。」
「素直にイオさんに謝ったらいいんじゃないですか?」
「嫌だね。」
カレンタルの提案を、エルムはきっぱりと退けた。
「イオストラが俺を見る時の嫌そうな目が気に入っているのだよ。」
くつくつとエルムは怪しく笑う。不意に戻ってきた寒さを誤魔化すように、カレンタルは膝を抱えた。
エルムにとってもイオにとっても、カレンタルは所詮他人でしかない。だから踏み込んだことを言えばこうして誤魔化されてしまうのだ。それにしても——
「――何もそんな、変態みたいな誤魔化し方をしなくたって。」
「おい、言うようになったじゃないか。随分と俺に慣れて来たと見える。歓迎できない傾向だな。」
エルムの透明な瞳が赤く鋭く輝いた。二人の間に落ちた闇に、炎の玉が揺らめいた。
「持ち主に嫌われるのは白の魔法使いの宿命さ。」
ぽつり、と。エルムの口から諦観に満ちた言葉が零れ落ちた。
「むしろ白の魔法使いに好意を抱くような持ち主は異常だよ。狂っている。」
ふと、カレンタルの頭にテルの姿が浮かんだ。彼女は敵ではあったが、異常には見えなかったし狂ってもいなかった。少なくともカレンタルにはそう見えた。
「白の魔法使いは忌まれ嫌われ、憎まれるべき存在なのさ。」
「そんなことは……!」
「悪魔と踊れば悪魔になる……。あの子のためを思うなら、俺とあの子の仲を取り持つようなことはしてくれるなよ、カレンタル……」
エルムの声が闇夜に静かに染み入った。
美しいものは喜びよりも悲しみを想起させるのだと、カレンタルはこの時知った。
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