50. ありがとう

 照り付ける日射しの下、重い足取りで教会に向かう。懸命に進んでいるというのに、足は一向に前に進みたがらない。心臓が未練たらしく脈を打つ。


 エルムはこの恐怖と向き合ってきたのだろうか。生と死を行き来することを強いられて、何度も、何度も。意思を持つこともできず、感覚が麻痺してしまうまで……。


 だからあの子は泣いていたのか。


 引き返そうとする足を励まして崩れた街を抜けた先、朝の光を受ける教会の入り口に、エルムが佇んでいた。驚いて足を止めたイオストラに、エルムが微笑みかけた。


「……何故、いる?」

「来いと言ったのはお前だろうに。」

「逃げれば良かっただろう。封珠ふうじゅはお前が持っているのだぞ。」

「その場合、お前はどうするつもりだったんだ?」


 イオストラは口籠る。


「いけない子だな、イオストラ……」


 エルムは見透かすように目を細めた。双眼が冷たい色を宿した。


「エルム、私は……」

「選択を俺に託すのはやめてもらおうか。」


 言葉が見つからない。黙り込んだイオストラに、エルムは静かに教会の扉を指し示す。イオストラは深呼吸して扉に手をかけた。軽く触れただけで、扉はゆっくりと内側へと開いた。


「……お久しぶりです。」


 落ち着いた低い声が耳に触れた瞬間に、イオストラの背筋が粟立った。冷たい灰色の目がイオストラを見下ろしていた。


「ラ、ラタム……」


 イオストラの声が無意識にひっくり返った。砂漠の死闘を思い返すと足が震えた。ほんの数日前のことだというのに、何年も前のことのように思われた。


「シスルを迎えに来たのか?」


 エルムは気楽に言葉をかける。


「……いいえ。」


 ラタムはきっぱりと答えた。話はそこで途切れた。少し迷った末、イオストラは質問を重ねた。


「では、なぜここにいる?」

「ライフィス殿下の件で。」


 ラタムは簡潔に答えた。また話が途切れた。


「……その、けいに取次ぎを頼んで良いのだろうか?」

「どうぞ。」


 ラタムは奥を指し示す。昨日潜った扉が待ち構えていた。イオストラは扉に向かう。

 背後に感じていたエルムの気配がふと足を止めた。


「初仕事かな、ラタム?」


 からかうような声がした。


「……白の魔法使いのお望みのままに。」


 ラタムは静かに答えて、それきり何も言わなかった。イオストラは決心して扉を開いた。


 避難民のいなくなった教会に、正式な祭服を纏った法王が立っていた。薄い笑みを浮かべて、ゆっくりと振り返る。エルムが無言で進み出て、法王に並び立つ。

 いつの間にかエルムの服はデセルティコ伝来のものから変化していた。袖の広い服、ふんだんに使われた飾り布。法王冠はなく、代わりにフードを被っている。法王の祭服は金の刺繍や緑の布地で色付けされているのに対して、エルムの祭服は全くの純白だった。

 その姿になった途端、エルムの存在感が変化した。冷たくて遠い何か。畏れ敬うべき上位の存在。これが本来の白の魔法使いなのだろうと、イオストラはうっすらと理解した。


「イオストラ、こちらへ。」


 エルムの声はどこか遠くから滲んで聞こえるのに、異様なほどにくっきりとした意図をイオストラの全身に叩き付ける。言われるままに踏み出した足が、カツンと硬い音を立てた。見下ろせば、履き慣れた軍靴がイオストラの足を包んでいる。服も、剣も、以前イオストラが身に着けていてインドゥスで手放したものに変化していた。


 カツン、カツン。軍靴が一歩を刻む毎に、イオストラの意思が固まってゆく。


 足取りを乱さず、距離を消化する。白の魔法使いの前で、イオストラと法王は向き合った。


「契約書は持って来たかな?」


 法王が静かに問うた。イオストラは契約書を掲げる。


「一部内容を変えさせてもらった。」

「ああ、構わないとも。その紙には私の受け入れられない条件は記せない。書き込むことができた時点で私は同意しているとみなして良い。……つまり、互いに条件を呑んだということで良いはずだ。」


 イオストラは目を閉じて、深く息を吸った。


「では白の魔法使いの名の下に、契約を結ぶ。」


 契約書が光を放つ。うっすらと見えていた緻密な模様が輝き、はみだし、空間に絵を描く。イオストラの心臓と法王の心臓を結ぶ壮大な立体絵だ。


「ヴェインのガーターとスラトの子ラプテ・ブレーザー。汝、命を懸けてこの契約を守ると誓うか?」

「誓おう。」


 法王は余裕の表情で頷いた。


「カテドラルのローグストとアイエルの子イオストラ・オーネ・レイカディア。汝、命を懸けてこの契約を守ることを誓うか?」


 イオストラは呼吸を深く深く吸い込んだ。掲げた契約書を両手で持つ。指先に力を籠め、右を前方上へ、左を後方下へ……。


「誓わない!」


 契約書は縦に割けた。イオストラと法王の心臓を結んでいた光の線が消える。


「ええ?」


 エルムの素っ頓狂な声を聴きながら、二枚になった紙を重ねて九十度回転させ、また破る。


「私の選択肢を!勝手に!狭めないでもらおうか!」


 四、八、十六……。三十二枚の紙きれを、法王に向けて投げつける。


「契約などするものか。貴様にくれてやるのは宣戦布告だ。」


 舞い散る紙吹雪の中、法王の口元が唐突に歪んだ。


「くくくく……はは、あはははは! 面白い。ああ、実に面白い。久しぶりに現れた、真の敵だ。いささか脅威度に欠けるようだが、まあ良かろう。」


 初めて法王と目が合ったような気がした。氷のような冷たい青い目の奥に、静かな炎が揺れている。


「イオストラ皇女。貴殿がどのように私に抗うか、高みの見物とさせていただこう。」

「ああ、特等席で見せて差し上げよう。エルム、捕らえろ!」

「いきなり言われても困るな。」


 ぼやきつつもエルムは祭服の飾り布を法王に投げ付けた。布は生き物のようにうねって法王に巻き付き、締め上げる。


「雑な式だ。」


 法王は呆れたように呟いた。一瞬の後、布が爆散する。


「いかに力で勝ろうと、式に隙があればこの通り。無効化するのは容易いのですよ。」

「知っているとも。」


 エルムが平然と答えた次の瞬間、法王は光で編まれた鳥籠の内側にいた。


「お前は術者としては完全に俺を上回るが、戦闘については素人だな。目くらましだよ、さっきのは。」

「おお、なるほど。これは美しい式だ。大胆で独創的ながらその土台には論理性がしかと根をおろしている……。この発想、私では真似できません。読み解くのにも少し時間が必要でしょう。」


 法王は心から感心したように手を叩く。


「よし、連行し――」


 イオストラの言葉は途中で途切れた。エルムがイオストラを抱えて跳ぶ。イオストラを支えていた床に、闇に覆われた鎌が突き刺さっていた。


「ラタム……」


 イオストラは舌打ちした。即座に法王を抑え込むことができれば人質として機能しただろうが、法王は思いのほかに手強い。真正面からやり合うとなると……。


「なかなか良い趣向だった。」


 鳥籠の戸を開けて、法王は外へと踏み出した。


「貴殿のこれからの成長と活躍を期待している。まずは西方師団を見事打ち破ってみせよ。……ラタム。」


 ラタムはエルムとイオストラに視線を向けたまま、法王の呼びかけに短く応じた。


「西方師団全部隊の出撃を許可する。ビクティムに戻り、白の魔法使い討伐の準備をせよ。」

「……かしこまりました。」


 ラタムの返事を待たず法王は教会のドアのさらに奥へと消えた。ラタムはエルムに黙礼するときびすを返す。


 世界が歪み、揺れ、収縮し、気が付けばイオストラとエルムは教会の入り口に立っていた。


「いきなりすぎるぞ、イオストラ」


 エルムが苦言を呈する。


「いきなりなものか。一晩悩んだ。」

「法王を人質に取ろうと? 俺が来なかったらどうするつもりだった?」

「お前が来なくてもやるつもりだった。」

「……睡眠不足で判断力が狂ったか……」


 エルムは静かに嘆く。イオストラは唇を尖らせた。


「ああ、全く馬鹿なことを。何で契約書を破った?」

「それは、お前が……」


 イオストラは言葉を切った。自分が何を言おうとしていたのか、唐突に解らなくなった。


「私は……仲間を守る。お前も、仲間だから……」


 しどろもどろに紡ぐ言葉が、次第に細く小さくなる。


「そうか。」


 エルムの返事は短かった。イオストラは慌ててエルムに背を向け、元来た道を戻り始める。風がさらりと髪を攫った。


「やっぱり短すぎるな。」


 エルムは呟いた。イオストラは苦笑して髪に手櫛を入れる。


「好きな長さにしてくれて構わんぞ。」

「本当? 三メートルくらいにしても良いかな?」

「……常識的な範囲に収めて欲しい。」


 イオストラの返事に、エルムは声を上げて笑った。


「よろしく、エルム。」


 イオストラはエルムに手を差し出す。エルムはそっと目を細めた。色を変えた瞳に仄かな熱が宿る。


「ありがとう、イオストラ。」


 柔らかな笑みを浮かべて、エルムはイオストラの手に手を重ねた。灼熱を宿す空気の中で、冷たい手が心地よかった。

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