49.一緒に逃げよう


 政庁の屋根の上からのぞむデセルティコは夕日に赤く染め上げられていた。美しい光景に、イオストラは息を呑んだ。家を失った人々の嘆きも不安も、ここまでは届かない。


 唐突に記憶が喚起される。子供の頃、エルムに頼んでアンビシオン政庁の尖塔の上に連れて行ってもらったことがあった。眼下に広がった小さな世界に、自分が何か大きなもののように錯覚した。


 あの気持ちをもう一度……。


 イオストラは皮肉に笑う。子供の頃の単純さは失われ、高慢も自信もそぐわぬものと気が付いた。大人になるとは自分の器を自覚することだ。それで失うものの、なんと多いことだろう……。


「何故、屋根の上?」


 口から出かかった溜息を呑み込んで、イオストラはエルムに問うた。


「ここなら誰かに聞かれることもないだろう。」


 エルムはのんびりと答えた。


「お前がまだ小さい頃、アンビシオンの政庁の屋根に上ったことがあったな。覚えているか?」

「ああ、覚えているよ。」



 ちょうど今思い出していた。遠く見える景色を睥睨へいげいしたあの日のことを。今は自分の背丈を弁えている。雄大な景色はイオストラの自我を等身大の肉体の内へと押し込むばかり。


 眩しすぎて、何も見えない。


「あの頃……世界はとても小さくて、望みは叶うはずなのだと思っていた。他愛ないことをお前に願っては叶えてもらって……挙句には……」


 鼻腔に込み上げて来た腐臭に吐き気を催した。掌に喰い込んだ爪が皮膚を苛む。


「……あの頃のイオストラは、世界を受け入れるのに必死だった。楽しいことを集め、他人の優しさを求め、美しいものをたくさん見て……母親の死を絶対のものとして受け止めて先に進もうとあがいていた。」


 エルムの口調は妙に優しかった。


「ふっ……」


 イオストラの口から乾いた笑いが漏れた。


「母の死を受け入れられなかったから、ことわりを乱して死者の眠りを穢した……」

「違うな。お前にその願いを抱かせた小説の結末を、お前は知っていたのだから。」


 昔から広く読み継がれている、悲しい愛の物語。殺された恋人を蘇らせた科学者が、その恋人を手にかける、どこにでもある悲恋譚。蘇った恋人は話の通じぬ化け物だった……。


「科学者は恋人の死を受け入れ、改心して先に進む。なんとも単純で、解りやすい。お前はそれを再現したかったのさ。」

「では、私が本当に母上の復活を望んでいたなら……」

「いや、無理だったさ。お前の母親は根源ノ渦へとすっかり還ってしまっていた。直後ならまだしも。」

「そうか……」


 苦い思いがこみ上げて来た。


「母上の死をあれほどに踏みにじっておきながら、私はまだ……」

「……そこまで気に病まれると言い出し辛いんだが、あれはあの日のおやつのミートパイが原料で、お前の母親は無関係だ。」


 イオストラは凍り付いた。思考が高速で空転する。理解はすぐに追いついたが、感情はなかなか動かない。


「……ミートパイ?」

「演出が悪趣味すぎたのは謝ろう。」


 記憶に焼き付いたおぞましい姿と動きと臭い……。罪悪感が薄れて安堵が顔を出すと、それを覆うように嫌悪感が押し寄せる。


「あれは……生きていたぞ。」

「ああ、生きていたんだろうな。意識を持った生命体だったよ。」


 胸やけがした。イオストラに取り返しのつかないものを諦めさせるためだけに生み出され、殺された生命。存在の全てを忌避してきた醜い肉の塊に、嫌悪と同情が沸き上がった。


「……生命への冒涜だ……」

「直接的にも間接的にも無数の命を奪ってきたお前の言葉とは思えんな。」

「敬意に欠けると言っている。」

「無い袖は振れないさ。」


 エルムは酷虐に笑う。


「白の魔法使いが何度生と死の境界を跨いだと思っている? 知り尽くしているさ。生命の無価値さは……」

「やはりお前は化け物なのだな……」


 イオストラは冷めた心地で呟いた。


「そうとも。」


 エルムの笑みに諦念が滲む。


「俺と出会ってしまったのがお前の不幸だよ、イオストラ。お前の母親は聖教会の排斥に失敗し、葛藤しながらもお前に封珠ふうじゅを託した。お前は母の遺志を知らぬままに俺を目覚めさせてしまった。そうでなければ今頃は平凡な姫君としてアンビシオンでのんびり暮らしていただろう。俺などいなくてもお前は母の死を乗り越えた。今上帝きんじょうていもその皇子たちも、ことさらお前を虐げようとしていたわけではない。アンビシオンの後ろ盾と先帝の血をもってツァンラートと婚姻し、玉座の隣に腰掛けることになっただろうと、白の魔法使いが予測しよう。」

「どうしてそうなる。」

「最終手段があると思えばこそお前はこれまで無茶を重ねて来た。それがなければお前はただの優柔不断な小娘さ。大それたことができる器じゃない。」

「それでアンビシオンの長老衆が納得するわけがあるか。」

「お前が反乱軍を率いる器でないと判断すれば、早々に政略結婚に切り替えたさ。平和な未来だ。しかも結構幸せだ。なまじ力を持ったばかりに、お前はそれを取り零した。」


 掲げたエルムの手の中に、有り得たかもしれない世界が映る。イオストラは淑女然として穏やかな表情を浮かべ、温かな幸せに浸っている……。


「何を勝手なことを。お前などいなくとも、私は自力で今の自分に至った。」

「そうかもしれないな。」


 エルムはそっと息を吐いた。


「ならばなおのこと、お前に最終手段は必要ない。お前はこの先も、どんな高い山をも越えていく。傷付き迷いながら、這いずってでも。」

「勝手に纏めに入るな。」


 エルムは終わりを見据えている。それがイオストラには腹立たしかった。


「……どうせもう、長くない。」

「え?」


 イオストラは息を呑む。


「形あるものは必ず壊れる。封珠ふうじゅは元々、短期的に白の魔法使いを顕現させるための道具でね。根源ノ力を出入りさせるたびに摩耗する。ただの人間のごとく行動する限りはまだ当分持つと思うが、白の魔法使いとして振るえる力はあと僅かだ。世界征服が一度できるか否かというところか……」

「せ、世界征服ができるのか?」

「どれだけの被害が出てもいいなら、敵対者を皆殺しにしてやるよ。」

「想定される被害は?」

「第一大陸沈没。」

「却下。」


 玉座を手に入れたところで国土がなければ意味がない。


「ああ、そうだとも。俺を使って戦いを続けることは難しい。だから俺を使って戦いを止める選択を考えるのが最善さ。……けれどイオストラ、もう一つ、俺から選択肢を提案してもいいかな?」


 エルムの目が星の光を宿して輝いた。


「何もかも放り出して逃げる、というのはどうだ?」

「逃げる……?」


 エルムの言葉を繰り返す。奇妙な心地がした。


「周囲の期待に応えるために闘うのを止めろ。自分のためだけに俺を使え。生まれもしがらみも捨てて、自分の幸せを掴め。俺に残された力は世界征服には過分だが、一人の幸せには丁度いい。」


 エルムはイオストラに手を差し出した。封珠が怪しい光を放っていた。


「俺と一緒に逃げよう。」


 エルムの声は穏やかで、表情は優しい。


「聖教会は追って来るはずだ。法王は白の魔法使いを必要としているのだろう?」

「方々に土下座して頼み込むしかないな。」

「……お前に誇りはないのか?」

「そんなものはとうの昔に畑の肥やしさ。」


 エルムはにっこり笑う。イオストラは額を押さえて溜息を吐く。


 想像してみる。


 玉座を諦め逃げ出して、誰の目も届かない遠い場所でつましく暮らす。一人分の幸せをエルムに願って、新しい人生を始めるのだ。長老たちが口を出すこともなく、責任に溺れることもない。自由な人生を、エルムと共に。


 幸せで、優しい世界。


 その想像の中に、幾つもの顔が浮かんだ。リャナ、カレンタル、サファル、セレナ、クエルド、オヴィス、そして長老衆……。ここまで紡いだ絆が、イオストラを決して放しはしなかった。


「夢物語だな。」


 イオストラは答えた。


「お前と逃げたって、私は幸せにはなれない。」

「……お前なら、そうだろうね。」


 どこか満足そうにエルムは頷く。眼球が熱い。込み上げてくる何かを、イオストラは必死に抑え付けた。


「私が違う答えを返すことができたなら、お前は幸せになれただろうか?」

「それはお前が気にすることじゃあないな。」


 エルムはイオストラを責めない。いつもイオストラのことを庇い、案じ、叱咤してきた。


「私はお前を誤解していた。ずっとそうやって私を守ってくれていたのだな。」


 それを受け止められなかったのはイオストラの弱さだった。


「ごめん……ごめんなさい。」

「気にするな。俺は化け物だからね。」


 死ぬのには慣れている。エルムはうそぶく。

 封珠の光が不安げに揺れる。その光に意味を見出してしまうのは、感傷だろうか。


「それを受け取ることはできない。明日の朝、教会に持って来てくれ。」

「……そうか。」


 エルムの手が封珠を包む。不定色の目がイオストラを正面から見つめた。


「楽しかったよ、イオストラ。お前といると生きているような気になれた。」

「今までありがとう。さようなら、エルム……」


 イオストラはエルムに笑いかけると、慌てて踵を返した。屋根の淵にしがみついて、執務室に戻る。こんなささやかな無茶も、もうできなくなるのだ。


 熱いものが頬を伝った。

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