48. 断りたい理由

 風が強くなってきた。風に乗った砂が家の壁に当たって音を立てる。要らない音ばかりが耳について、脳の容量を圧迫する。ざあざあ、ざあざあ。


「イオストラ様、どちらへ?」


 砂の音を割いて、リャナの声がした。


「私は忙しいんだ。エルムや法王にばかり構っていられない。」


 明日到着する友軍を迎える準備をせねばならない。街の復興の目途も立てねばならない。ゴート族との協力体制を正式なものにしなければならない。共通の敵を失い本来の役割に回帰するであろうデセルティコ警備軍をどう処すか決めなければならない。


「あの、顔色が悪いですよ。お休みになった方が……」


 カレンタルがおずおずと声をかける。


「休んだ! 一日も怠惰に眠りこけて時間を無駄にした!」


 カレンタルはびくりと身を竦め、静かにゆっくりと後じさり、リャナの背後に隠れた。


「……あ、」


 イオストラは足を止めて視線を泳がせる。カレンタルの怯えた表情が、自責の念を刺激した。リャナは肘でカレンタルを小突いて、イオストラに困惑の表情を向けた。


「落ち着いてください、イオストラ様。私にお話してみませんか? 一体、何に苛立っておいでなのか。」


 イオストラは躊躇ちゅうちょした。リャナもカレンタルも教会にはいなかった。二人は法王の話を、イオストラとエルムとのいびつな関係を、聞いていないのだ。そのことにようやく思い至った。気が付いてしまうと、知られるのが怖くなった。それなのに一人で抱えきることもできない。


「法王に取引を持ち掛けられて……私がエルムを殺せば私を皇帝と認めて神聖帝国から身を引き、以後二年間は干渉しない、と。」


 結局、イオストラは自身の核心を晒すのを避けた。


「ええ? そ、そんな……!」


 カレンタルは顔を青くした。


「エルムとの会話の内容から、そうなのかな、とは推察しておりました。」


 リャナは真顔で頷いた。


「それで、何を悩んでおられるのでしょう?」

「それは……取引に乗るのが得か否か……」

「乗られるのが賢明でしょう。」


 突然割り込んで来た声に、イオストラは肩を揺らした。三人で話していたはずが、いつの間にか四人に増えていた。


「そなた、クエルド……」

「取り急ぎカテドラルの御方にご報告してまいりました。あの方もこの盟約に前向きな考えをお持ちです。今が白の魔法使いという手札の切り時かと。」


 恭しく頭を垂れたクエルドの表情は、イオストラからは窺えなかった。


「切った後には高確率で敵の手に渡り、何に使われるかも解らぬ万能の手札を、か?」

「賢明な者は白の魔法使いを安易に使おうとはいたしません。あれは敵に回せば恐ろしい存在ですが、味方として使うのは難しい。かつて白の魔法使いが力を振るった傷痕きずあとは、数百年が経過してなお癒えていません。仮に法王があなたとの闘いに白の魔法使いを用いたとしても、強力なヒルドヴィズル程度の力しか発揮しないでしょう。……あなたとて、扱い切れていないはずです。」


 でも、と言いかけて、イオストラは唇を噛む。クエルドの論は的を射ている。何故反論したくなったのかが解らない。


「さらに言えば、法王は白の魔法使いに対抗する手段をお持ちです。例えば、ティエラ様はかつて幾度となく白の魔法使いを殺しています。」

「彼女は必ずしも法王の味方ではないようだが。」


 はい、と、クエルドは首肯する。


「しかし、彼女だけではありません。ラタム氏は経験こそありませんが、先代の白の魔法使いに見出された神殺しです。新しく生まれる白の魔法使いを査定し、不適ならば殺せと命じられている……。他にもいます。ヴァルハラの広場にはりつけにされている狂犬をご存知でしょうか? 封珠ふうじゅ盗難を幇助ほうじょし、ヴァルハラの街を焼いてなお彼が生かされているのは、白の魔法使いを単騎で殺すだけの力を持っているからです。」


 法王が本気で白の魔法使い討伐を決意したなら、エルムはすぐにも討ち取られる。当然イオストラにも相応の被害が及ぶだろう。エルムと法王が口を揃えた通りだ。あの契約は過程の損害を無視して結果を先取る選択だ、と。


「そもそもイオストラ様……。我々は人外の支配から神聖帝国を解放するために闘っております。あなたも即位の暁には聖教会を追放する心算だったはず。法王との対立も、エルム様との決別も、避けられないものです。」


 エルムがいなくともやるつもりだったことだ。そもそも今だって、イオストラはエルムの力を当てにしてはいない。当てにしてはならないと思っている。


「白の魔法使いの仲介にて契約を結べば、いかに砂の蜥蜴と言えども破ることはできません。契約の通りに己の地盤である神聖帝国から離れ、二年間は干渉してこないでしょう。この二年はイオストラ様に与えられる猶予であると同時に、法王さまがご自身の体勢を整えるための時間でもございます。」

「二年が?」


 神聖帝国は千年かけて整えられた地盤だ。それを捨ててゼロから始めるとなれば、二年はあまりにも短いのではないか。


「ヴァルハラはカテドラルの隣にありながら、はるかに遠い地でございます。ただカテドラルとの繋がりを断つだけで聖教会は丸ごと行方をくらますことができる。とは言え、組織と国との繋がりを十全にするのに二年は短うございます。……法王さまはすでにめぼしい国を抱き込んでいるのでしょう。恐らくは北……」

「カンビアル?」


 イオストラは半信半疑で呟いた。


「間の抜けたことだな。この段階からそれほどまでに企みの内を明かされるような粗末な奸計かんけいを巡らせる男か? 奴が?」

「法王さまは大雑把な企みをされる方でございます。いえ、企みなどと呼べるかどうか……。隠すつもりも誤魔化すつもりもないのでしょう。我々、些末な存在に対しては。」


 クエルドの言葉に怒りがちらついた。イオストラな目を瞬かせる。


「私は本日、ティエラ様に強いられて法王さまと直接会う羽目になりました。私の叛意はんいを、法王さまは明確に把握しておられた。もはや命はあるまいと私は覚悟しておりました。……ですが、何も起きない。私を監視する者もいなければ、始末しようという動きもない。釘の一つも刺されない。完全に無視されております。」


 クエルドは激情を誤魔化そうとするように、小さく息を吐いた。


「……泳がされているのではありません。気にも留められていないのです。我々が何をしようとも、あの方は知らぬふりをなさるのでしょう。これまでに命を落としてきた者たち……私の同志やあなたの母上は、法王さまが与り知ろうともなさらなかった場所で勝手にできた罠に足を絡め取られただけの、間抜けな犠牲者に過ぎないのでしょう。」

「鼻を明かしてやりたいと思っているのか?」


 クエルドは驚いたようにイオストラを見た後、首を横に振った。


「感情任せに動こうとは思いません。ただ、法王さまにとって我らはそれほど取るに足らぬ存在です。エルム様の主でなくなれば、あなたもまたその立場に戻るでしょう。そうなれば我らから見れば必然としか思えぬ対立すら、回避できるのかもしれません。」


 争いは同じ次元でしか起きぬものですから、とクエルドは言葉を付け加えた。


「それで善しとせよ、と?」

「私と我が主の目的は神聖帝国の国政正常化であって、聖教会の撲滅ではございません。誤解なきよう。」


 あなたはどうなのか、と問われたような気がした。


「そう、だな……そなたの言う通りだ。」


 怪しいことこの上なく、しかし十分に魅力的な提案。それがどうしてこんなにも受け入れがたいのか。


「どうか正しいご判断を。」


 突然クエルドが早口になった。慌てたように一礼するなりきびすを返し、瞬きの間に姿を消した。唐突な逃亡に、イオストラは唖然とする。


「……イオストラ様は、何を迷っておられるのでしょうか?」


 リャナが静かに問う。彼女の顔を見てイオストラはギョッとした。リャナは明らかに機嫌を損ねていた。


「そ、それは……だから……」

「いい話だと思うのですよね? 受諾するのが賢明だとお考えなのですよね? では何故迷っておられるのですか?」

「だ、だから……それは……」

「断りたい理由をお持ちなのでは?」

「そうですよ!」


 大声で叫んだのはカレンタルだった。


「だって、この契約を受けたらエルムさんは……! イオさんは、それでいいんですか?」

「私の意思に何の意味があるだろう。王であろうとするならば、好悪は度外視して決断せねばならない。」

「王としての決断のためにご自分の意思を押さえることはご立派ですが、ご自分の意思を押さえることを王らしさであるとお考えになるのは違うのではありませんか!」


 イオストラは息を詰まらせた。


「イオさん、エルムさんは――」

「うるさい!」


 イオストラは頭を抱えて叫んだ。


「仕方ない……仕方がないんだ! だってエルムがそうしろって! 犠牲になる本人が受け入れている以上、断る理由なんてないじゃないか!」

「エルムさんだって本当は嫌なんですよ!」


 カレンタルの叫び声が静まると、思い出したように街のざわめきと砂の音とが戻って来た。


「……何故そう言える? 私に解らぬことが、何故お前に解る?」

「え? それは……解りません。でも、エルムさんは死にたくないんです。」


 カレンタルは視線を揺らしながら、けれどきっぱりと言い切った。


「エルムさんは優しい人ですから、きっとイオさんを悲しませまいと思って……」


「そこまでにしてくれないか?」


 低く穏やかな声に周囲の音が吸い込まれる。鮮やかな存在感が周囲を照らして色めかせる。


「エルム……」


 ぽつりと零れたイオストラの声に、エルムは静かに笑みを返した。


「イオストラ、少し……話をしようか。」


 涼しい風が一陣、壊れた砂の街を駆け抜けた。

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