47. 臆病で繊細で、とても優しい

「どんな話をした?」


 イオストラにそう問うて、エルムはすまし顔で紅茶をすすった。


「色々な話を聞いた……。その、えっと……お前、塩なのか?」


 エルムはきょとんと首を傾げた。


「すまない、イオストラ。俺は君が思うよりも凡庸な存在でね。紅茶に塩を入れて飲んだことはないんだ。圧倒的に砂糖さ。」

「いや、そうじゃなくて……」


 まぶたが重く、熱い。頭がしびれているようで、情報が整理できない。


「イオストラ様。」


 リャナが紅茶を差し出した。ソーサーには怪しい光を放つ緑色の珠が載っていた。視線を上げると、励ますような視線が向けられる。紅茶を口に含むと少し落ち着いた。


「ありがとう。リャナの紅茶が一番美味しい。」

「イオストラ様に飲んでいただくのが一番嬉しいです。」


 リャナは顔をほころばせた。何故かカレンタルが身をすくませて、うかがうようにリャナを見上げる。

 二人の様子を見て、強張った脳が少し解れた気がした。


「この世界が何で出来ているのかということを聞いた。」


 イオストラは法王との会話を思い返しながら、ぽつぽつと答える。


「いや、結局のところ根源ノ力というのが何なのかを理解できたわけではないのだけれど。」

「それはね、考え過ぎているんだイオストラ。根源ノ力は根源ノ力でしかない。色々な呼ばれ方があるけれど、どれもその存在を掘り下げるものではない。まあ、強いて関連性の強いものを挙げるなら情報かな……。経験上、根源ノ力を多く持つモノは情報の量も多い。」


 例えば同じ元素で構成された同じ質量の石であっても地面に埋もれているものと外部に露出して風雨にさらされたものとでは根源ノ力の蓄積量が異なるのだという。時の重なりや刻まれた歴史が根源ノ力を増やすのである。

 また根源ノ力の保有量は構造の複雑さにも大きく関連しており、単体よりも化合物が、無機物よりも有機物が、無生物よりも生物が、多くの根源ノ力を保有する傾向にある。

 人間は記憶と思考とによって非肉体的な部分における根源ノ力の蓄積も大きく、また文明の発展によって周辺環境の根源ノ力をも増幅させる。

 人類の発展は世界の根源ノ力の増減に直接的に影響するのである。


「私たちの繁栄がお前を殺すのか?」


 世界の人口は増えている。聖小国乱立時代には大きく減少したが、現在では回復し、聖杖の乙女による救済以来の最大人口に達している。文明の発展も著しい。それが生み出す根源ノ力に白の魔法使いは溺れている……。


「おいおい、あいつはそんなことまで話したのか? 困った奴だな、人の秘密をべらべらと。恥ずかしいじゃないか。」


 伏せた睫毛まつげの向こうで、エルムの目がくるくると色を変えた。


「白の魔法使いは死なないさ。ただ薄くなるだけだ。限りなくゼロに近くてもゼロにはならない。」

「夢を見たんだ。」


 唐突とも思われるイオストラの言葉に、エルムは柔らかく首を傾げた。


「男の子が泣いていた。あの子は自分が何故泣いているのかも解らないのだそうだ。でも、もしかするとあの子は――」

「それは夢だと前にも言った。」


 エルムはきっぱりと言う。


「夢よりも現実の話をしようじゃないか。法王は他に何か言っていなかったかな?」


 沢山のことを聞いた。けれど、それを言葉にしたくはなかった。少し迷った末、イオストラは法王から受け取った契約書を無言でエルムに手渡した。乱暴に懐に入れていたのに、しわの一つもできていない。エルムは素早く契約書に視線を走らせる。


「……『権限を新帝に譲り』の部分は『権限をイオストラに譲り』に直させた方が良い。それから、皇帝と認める旨を公文書として発行させること。他にも数か所直した方が良いとは思うが、基本的に悪くない話なんじゃないか?」

「え?」


 呆けたような声が出た。エルムが頷くとは予想だにしていなかった。


「根源ノ渦に帰還したら……お前はどうなる?」

「そんなことを気にする必要はないさ。」


 エルムは契約書をイオストラに返した。文面がエルムの提案通りに変化していた。


「確認したら署名して法王に渡しなさい。両者の合意をもって契約成立とする。」

「契約の内容を破ることはできない?」

「できないな。この契約は白の魔法使いが仲介する。それは世界と契約するのと同じことさ。違反などできるはずがない。」


 イオストラは目を閉じた。契約に反することができないならば、法王は確実に国を追われることになる。


「法王はこれで良いのだろうか?」

「神聖帝国にこだわりを持っていないのだろうさ。あいつの目的に国は必要ない。」

「法王の目的?」

「世界を救いたいのさ。」


 意外な言葉に、イオストラは瞬きをした。


「何から?」

「今はやめておきなさい、イオストラ。情報の詰め込み過ぎは良くない。今は神聖帝国が法王にとって大きな価値を持っていないことを理解すればいい。だが白の魔法使いはまだ必要だから、お前が持ったままでいると困るんだろう。」


 イオストラは腕を組む。


「……干渉を行わないという制約に二年間の期限が付いているな。」

「永遠というのは無理だろうさ。」

「再び封珠を創って二年後に私と敵対する、ということも?」

「当然あるだろう。」


 エルムはあっさりと頷いた。 


「玉座を取り戻し、聖教会を排除する……。これはお前の挙兵における目的を叶えてやろうという提案だ。白の魔法使いの天寵てんちょうを失うならば、それくらい当然だ。お互いに負担を軽減した上での結果の先取りを、法王は提案しているのさ。ならばいずれ再び対立するのも当然の成り行きだ。」

「お前、何故この契約に乗り気なんだ? 私がこれを受け入れたら、お前は……エルムは……」

「それも結果の先取りさ……」


 エルムはふとまなじりを下げる。


「どういうことだ?」

「難しい話ではないさ。ごく当然の話だ……」


 エルムが何を言っているのか、イオストラには解らなかった。

――本当に、当たり前のことだというのに。


 考えねばならないことが多すぎた。思考は結びつかずに独立で膨れ上がり、空回りする。


「かなり良心的な交換条件だと思うよ。まあ、君の判断に従うが。」


 平然としたその態度が、イオストラを苛立たせた。勢いよく席を立って睨みつけると、エルムは優しく目を細める。


 おかしいじゃないか。


 法王の提案に乗れば、エルムはいなくなるのだ。根源ノ渦へと戻り、限りなくゼロに近い存在として自分の意識さえままならない眠りにつかねばならない。何故それを善しとする?


――イオストラの欲求を叶えるだけの人形だから。


 法王の言葉を裏打ちするように、エルムの態度はイオストラにとって都合が良すぎた。


 あるいは、本来の白の魔法使いは今もどこかで泣いているのではないか。歪められる自我に苦しんでいるのではないか。


「これを受けろと、お前は言うのだな?」


 掲げた契約書がくしゃりと音を立てた。


「止めて欲しかったのかな?」


 イオストラは奥歯を噛み締めた。止めて欲しかったのだろうか。解らない。エルムが何を考えているのか。自分が何を望んでいるのか。エルムの行動の一つ一つがイオストラの自我に懐疑的に絡みついて、精神を迷走させる。


「もう、いい!」


 イオストラは叫んで外に飛び出すと、乱暴にドアを閉めた。


「イオストラ様?」


 リャナの声が追いかけて来た。


 砂漠の街を速足で歩きながら契約書を広げる。先ほど確かに握りつぶしたのに、紙は綺麗なものだった。晴天の下、どこからともなく落ちた水が契約書の表面を滑った。



*****



 イオストラが出て行き、リャナもカレンタルもその後を追うと、半壊した喫茶店の内部には静寂が下りた。ティーカップの傍らに置き去られた封珠ふうじゅに、エルムは七色の視線を注ぐ。


「忘れていったのか、それともわざと置いて行ったのか……」


 鈴を転がすような声は、店の奥から聞こえて来た。軽やかな靴音を立てて近づいてくるティエラを、エルムは振り返らない。ティエラは何気なくテーブルに手を伸ばして、封珠を拾い上げた。エルムは苦笑する。


「おいおい、あの子の許可なく触らないでくれないか? ぞわっとするから。」


 ティエラは冷たく光る緑の目でエルムを一瞥いちべつし、封珠を両掌の間に挟み込んで勢いよくこすった。エルムが身震いすると留飲りゅういんを下げたようで、封珠をテーブルに戻す。


「何をする……」

「嫌だと言われるとやりたくなるのよ。普通でしょ?」


 ティエラはニヤリと笑い、怪しく目を細めた。


「エルムの時間はあまり残されていないようね。」

「お前、女言葉が似合わんなあ。」

「そうかもしれないわね。私も久しぶりに使ったもの。……でも、これが本来の私だから。」

「気のせいだろう。昔の君はドジで可愛い、普通の女の子だった。間違っても嗜虐趣味の冷血美女じゃなかったぞ。」

「それを言うと昔のあなたは臆病な人だったわよね。カレンタルって言ったかしら? あの子、ものすごく似てるわね。」

「気のせいだろう。」

「似てるわ。正直、目を疑ったわ。」


 ティエラはちろりと舌を出して、人差し指を目に当てた。彼女の目は特別だ。見ているのは根源ノ力の流れ。それはまさしく真理である。他者と同じものを見られない代わりに、はるかに深いものを見る。


「どれほど良い目を持っていたところで、人間の心が残っている限り、己の見たいものを見たいようにしか見ないものさ。」

「照れ隠しとしては可愛くないな。」


 ティエラは鼻で笑って肩をすくめた。


「そんなのでは誤魔化されない。何が混ざり込んだところで、あなたはあなた。臆病で繊細で、とても優しい。」


 ティエラがエルムの顔を覗き込む。


「あなたは、これでいいの?」


 ティエラの問いに、エルムはするりと視線を流した。


「仕方のないことだ。所詮しょせんエルムがあの子に与えたい幸せとあの子の望む幸せは一致しないのだから。」


 現状で残った力だけでも世界中の人間を洗脳して盲従させることくらいはわけないのだ。イオストラがそれを望みさえすれば……。


「あの子の選択を尊重するさ。」


 エルムは深々とした溜息を吐いた。


「……何度繰り返しても生きるのが下手ね。」


 ティエラは呆れたように微笑んだ。


「死ぬのは上手くなったかもな。」


 エルムは皮肉に笑う。


「あなたがそれでいいのなら、私から言うことは何もない……」


 ティエラは自分に言い聞かせるように言って、ドアに向かう。


「一つだけ、忠告しておく。」


 外へ出る直前、ティエラは足を止めた。


「選択を尊重するというのなら、情報は全て開示することだな。お前が意図的に制限した情報を基に選んだら、イオストラはきっと後悔する。」


 やはり女言葉の方が耳に馴染む。冷たく固い声を聴いて、白の魔法使いはそう思う。


「身勝手な自己犠牲が誰かを救うと本気で思っているなら、お前は何も変わっていない。エルムなどと言ういつわりの皮を脱ぎ捨てて、早々に根源ノ渦に帰るがいい。永遠に同じことを繰り返して不幸を振り撒け。……さようなら、白の魔法使い。」


 また会おう、と最後に残して、ティエラもまた出て行った。


「……手厳しいな。まだ根に持ってるのか。」


 白の魔法使いは呆然と呟くと、置き去られた封珠に目を向けた。

 エルムの心情を反映してか、封珠は戸惑ったように輝きを揺らしていた。

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