10.全ては神の贄
アルボルの
命示は片手に納まるほどの大きさの球体である。西方師団のヒルドヴィズルは一騎につき一つの命示を持っている。ヒルドヴィズルが命を落とした時、対応する命示が砕け散る。
遺体の残らぬ者が多いヒルドヴィズルの、死者を数えるための道具である。
割れようとする命示を止めたとて、対応するヒルドヴィズルの命が助かるわけではない。命示は生命の状況を伝える手段でしかなく、影響は一方通行なのだから。
それでもテルセラは命示を包んだ。命示の破損は治まらず、ただ
皮膚を裂いた命示の欠片を、テルセラは呆然と見つめた。
「どうして?」
思わず口から言葉が零れる。
「死んだのよ。決まっているじゃない。」
その返答があって、初めてテルセラは自分が心の声を外に零していたことに気が付いた。振り返ると、意地悪な笑みを浮かべたフルミナの姿があった。
「死んだって……アルボルが? そんなバカな……」
「馬鹿はあなたよ。こういう別れは何度も経験しているでしょう? まだ学ばないの?」
フルミナはゆっくりと命示に歩み寄ると、欠片を拾い上げて光にかざす。
「人間ごときがどんなに徒党を組んだところでアルボルを殺せるとは思えない……。やっぱり、いるわね。」
静かな呟きが、テルセラの心を刺激した。血を滴らせる両手を、テルセラはきつく握りしめた。
「アルボルだって解っていたはずよ。無策で挑むはずがない!」
「頭に血が上りやすい奴ではあったからね。」
フルミナはくず入れに命示の欠片を投げ入れる。
「悲しまないのね。」
テルセラは責めるようにフルミナを見た。
「そんな心は失くしたわ。」
フルミナは酷薄に笑む。
「さて、どうやら熱血でお間抜けなアルボルは標的と接触して倒れたようだけれど、私たちはどうするかしら? 追う? それとも、お茶でも飲む?」
「追いましょう。」
テルセラはきっぱりと答えた。
「このまま見失いたくはないわ。とりあえず、私たちだけでも追跡すべきよ。急いでラタムに連絡しないと。」
「落ち着きなさいよ。急いては事を仕損じるわ。」
勢い込んで部屋を出ようとしたテルセラは、フルミナに肩を押さえられて足を止めた。
「急がないと見失う! アルボルがどこで接敵したのかも解らないのに!」
「安心しなさい。デスガラルは無事みたいだから。事情は彼から聞きましょう?」
フルミナが差し出した掌の上で、デスガラルの命示が鈍い輝きを放っていた。
「デスガラルも出撃してたんだ……」
テルセラは思わず顔を
「そんな顔をしないでよ。私の可愛い部下なのだから。結構できる子なのよ? アルボルの足取りは把握しているはずだわ。」
あの男は言葉が通じるのか? そう言いかけて、テルセラは口を噤んだ。
「ラタムへの連絡は私がしておくから、あなたは少し心の準備をしなさい。あいつが敵になるのだもの。あなたが自分で思っているより、よほど心への負担が大きいわ。どんな状況でも平静でいられるように、しっかり準備して。」
思わぬ気遣いに、テルセラの心は揺れ動いた。
「ありがとう、フルミナ……。そうさせてもらうわ。」
「……お礼なんて言わないでちょうだい。」
フルミナはそう残して部屋を出て行った。テルセラはアルボルの死を示した欠片を拾い上げた。
どこでどんな最期を迎えたのか。その瞬間に何を思ったのか。テルセラには解らない。
「私もいつか死ぬのよね。」
テルセラは欠片に向けて呟いた。満ち足りた最期にはならないだろう。ヒルドヴィズルは殺されない限り死なないのだから。
「嫌だなあ……」
目を閉じ天を仰いで、テルセラは静かに呟いた。死ぬのは嫌だ。残されるのも嫌だ。ならばやることは決まっている。ずっとそうしてきた。掌から零れ落ちた欠片たちを置き去りにして……。
「さあ、やるか!」
テルセラは口に出して気持ちを切り替えると、大きく伸びをして部屋を出た。
*****
禁域内の空気は常に澄み渡っている。無駄な成分を一切含んでいない美しく無機質な空気が肺に入ると、体が内側から清められるようだ。
清らかさは冷たさと近い関係にある。ヴァルハラに足を踏み入れる度、ツァンラートは己の人間性を析出させられる気がしていた。
神聖皇帝が第一皇子であるツァンラートは、ヴァルハラへの立ち入りを許された数少ない俗人である。
ヴァルハラは奇妙な場所だった。皇宮に敷地を構えているように見えるが、実際はヴァルハラの方が皇宮よりもはるかに広い。面積から考えて有り得ないのに、何故だか皇宮の中にある。
巨大な白い板の凹凸で全てが形作られているような、継ぎ目のない街。
この街に暮らす人々は外の世界の人々とは様子が違う。深紅の髪、青い髪、部位によって色の代わる髪。黒い肌、黄色い肌、青みがかった肌。耳が長く先鋭化した人もいる。
俗世では滅びた民族が、未だ純血を維持してこの街に暮らしているのである。ただ標本として保存されているがごとく。
「おやあ? 皇子サマじゃあありませんか。お久しぶりです。」
ツァンラートは足を止めた。
清閑な街の広場に、異様なものが浮き出ていた。青白く輝く幾何学模様。その中心、幾何学模様に呑み込まれる形で
「久しぶりだね、狂犬……ナゲル。」
眠そうな垂れ目が印象的な、若い男だ。一筋ごとに濃さの違う茶の巻き毛は、彼が極めて純度の高いバルト族であることを示している。かつて第一大陸の覇を神聖帝国と競い、今では神聖帝国に恭順の姿勢を示す、東の雄バルティア王国の中核を為した民族である。
バルト族もまた今では絶滅したに等しい民族だ。彼の生まれた七百年前にはそう珍しくもなかったかもしれないが。
「狂犬ってのは酷いなあ。俺はいつも忠犬ですワン。」
拗ねたように、ナゲルは言う。
「そうかね。」
ツァンラートは視線を街に走らせた。十年前、この街を炎に包んだヒルドヴィズルの反乱に、彼も加担していた。正に狂犬の所業である。
「そんな無防備な姿でここに置かれて、石を投げつけられたりはしないのかな?」
ふとツァンラートは尋ねた。
「この術式は俺の守護も兼ねているんでね。当たりませんよ、石なんて。それでも十年前には色々投げつけられましたがね。瓦礫とか剣とか罵詈雑言とか。何が楽しいんでしょうねえ。溝に落っこちた野良犬に石なんぞ投げて。」
楽しかったわけではないだろう、とツァンラートは思う。それは心から溢れた怒りであり、憎しみだ。
「この街の人間は、良くも悪くも生きることに関してさっぱりしてますからねえ。十年も経った今となると、俺はただの見慣れたオブジェですよ。人気の待ち合わせスポットになってます。」
「この街の人間が待ち合わせをして遊びに行ったりするのかい?」
「子供のうちはね。」
ツァンラートは周囲を見回した。ただ静かで清らかな、子供の遊ぶ声などとは縁遠い街に思われた。
「いやあ、いつの時代も子供は元気ですねえ。」
子供、とツァンラートは呟いた。
従妹も昔は子供だった。あの頃は彼女の方が上の立場にあったが、そんなことに頓着せずツァンラートによくなついた。屈託なく笑っていた童女が、今ではツァンラートに憎悪の目を向けて、己の正当性を振りかざす。いつ、どこで、どう歪んでこうなってしまったのか……。
「何を思い悩んでおられるのやら。」
ナゲルの嘲笑がツァンラートを包む。
「あなたに悩みなど必要ない。神々の道楽の駒であり続けることを、あなたは選んだんでしょう? ならそれ以降は選択に悩むことはない。そんな思い詰めた顔をせず、明るく楽しく生きればいいじゃあないですか。あなたが負うべき責任は、どこにもありゃしないんですから。」
「ああ、その通りだ。」
先帝は抗う道を選び、今上帝は恭順の道を選んだ。奴隷としての安心と安全を選んだのだ。イオストラはそこから飛び出そうとしている。だが、彼女はそれを意識しているのか……?
「あまりそいつと話をしない方が良い。頭がおかしくなるぞ。」
美しい声がツァンラートの意識を
ツァンラートは振り返り、その場に
「お久しぶりです、ティエラ様。」
緑色に輝く目が、ツァンラートに注がれる。
「法王に用事かな?」
ティエラが小首を傾げると、キンと冴えた空気がざわざわと揺れる。
「はい。ヒルドヴィズルの派兵に関してお問い合わせをさせていただきたく――」
「ああ、その件か。君も苦労するね。」
「いえ。ティエラ様は、何かご存知ありませんか?」
「知らないな。だが、どうせろくでもない理由さ。あの男は陰険だからね。」
ティエラは鼻を鳴らした。ツァンラートは微妙な笑みを浮かべて聞き流す。
「私も君の話を聞きたい。一緒に行くとしよう。」
ティエラは
「ツァンラート、君は何も間違っていない。」
ティエラは呟いた。
「人は世界の仕組みの一部に過ぎない。喜びも悲しみも、愛も憎しみも、全ては神の贄でしかない。狂犬の戯言に心を揺らさぬことだ。」
ティエラはもの問いたげな目をツァンラートに向ける。ツァンラートは為政者の仮面で彼女と向き合う。
「心動かされていると感じられたなら、心外でございます。」
「そう……」
ティエラはゆっくりと微笑んだ。
鮮やかに輝く緑色の目が、見透かすようにツァンラートを見つめていた。
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