第三章 夢の中の姫

11.そこに気付いてしまいましたか

 かつてリニョン王国の王宮として君臨したアンビシオン政庁に、薄暗い空気が立ち込めていた。蓄積した不満の爆発がもたらした高揚は、今や這いよる絶望を前にした不安感へと置き換わっていた。

 反乱の要であるイオストラの行方は、未だに知れない。


 沈み込んだ空気に反逆するように、リャナは肩で風を切ってずんずん歩く。奇異なものを見るような目がしきりに彼女を捉えたが、気に留めない。

 実際のところ、リャナの心は政庁の空気よりはるかに深く沈んでいた。無理にでも胸を反らさなければ、他の者と同じように肩を縮めてしまいそうだ。旗幟きしを変えた直後に主人が行方不明になるなど、最悪ではないか。


「暗いな、リャナ・アーダ。」


 思わず零しそうになった溜息を、リャナはすんでのところで呑み込んだ。尚も生まれようともがく溜息を唇の奥に封じて振り返ると、にやけ顔のサファルと目が合った。


 サファル・ナールソン。先帝の死後イオストラが引き取られたアンビシオン領主ナールソン氏の第六子にして五男である。年齢が近かったために、幼少期のイオストラは専ら彼を遊び相手としていたのだそうだ。つまりイオストラの幼馴染である。

 イオストラは彼を信頼していたが、公人としての彼の評判は、概ね放蕩ほうとう息子という言葉に集約されていた。


「サファル様、会議はどうなさいました?」


 ツンツンと尋ねたリャナに、サファルは苦笑を返す。


「俺がいても仕方ないからさ。抜けて来た。」


 リャナは呆れた視線をサファルに向ける。


「いや、本当だよ? 親父殿は放蕩五男坊の意見なんて求めてないのさ。まあ、建設的な意見なんてどこからも出ないけどよ。」


「どんな調子なのですか?」


 リャナは高まる気持ちを抑えて尋ねた。


「どうもこうも。イオストラの行方は解らんし、捜索に手を取られて軍の再編も遅れている。アンビシオンの方で打てる手もない。ビクティムに巣食った化け物どもが動き出さないのが幸いさ。」


 フロルでヒルドヴィズルと事を構えるか、あるいはさらに戦線を後退させるか。前線を指揮するラディエイト将軍としては後者を選択したいらしいが、イオストラの行方が知れないままに後退することもできない。


「中央連峰が曲者だ。あれを超えられる道が限られている。山のこちら側からでは捜索もままならないってんで、皆頭を抱えているのさ。」

「そう、ですか……」


 実を言えば、リャナはイオストラの身の安全を心配してはいなかった。何しろエルムがいているのだ。だがエルムの存在を知らぬ者には、イオストラの生存は絶望的に映るだろう。安否不明の状況が続けば、アンビシオンは瓦解してしまう。


「……なんかお前、あんまり心配そうじゃないな。」


 サファルは探るような目をリャナに向ける。


「私ごときが心配したところで何になるでしょう。」


 リャナは冷ややかに答えた。そうだな、とサファルは頷いた。どこか自嘲的な声だった。


「実をいうと、俺もイオストラのことはそこまで心配していない。何だかんだと帰って来るさ。お前もそう思うだろう?」


 リャナは否定も肯定もしなかった。サファルは人好きのする笑みの影で、リャナの様子を観察している。


 エルムのことは秘密である、とイオストラには言われていた。だがその秘密を共有するのが自分だけではないことを、リャナは察している。サファルはイオストラにとって気安い相手のようだし、知っていてもおかしくはない。今回話しかけてきたのも、同じ秘密を共有している者を探してのことなのではないか。だが、探し当ててどうしようというのか。


「……とにかく、イオストラの無事が客観的に示されないと話にならん。中央連峰の向こう側からの情報が欲しいんだよ。」


 疑心がぶつかり合って生み出された見えない壁を、サファルは慎重に通り抜けて来た。


「そんなことを私に言われましても。」


 リャナの実家はカテドラルにあるが、アンビシオンに来て以降は連絡を取っていないし、現状では中央連峰の向こう側と連絡を取るのが難しくなっている。ビクティムを経由できない以上、物資も情報も大きく迂回せねば中央連峰を超えられない。さらに言えば、そもそもリャナの両親は重要な情報を得られるような立場の人間ではない。


「あんたの人脈を当てにしているわけじゃない。確認したいだけだ。あんた、イオストラがカテドラルに滞在している時に身の周りの世話をしていたんだろう? イオストラの協力者が誰なのか、知らないか?」

「協力者、ですか?」

「ああ。」


 サファルは首肯しゅこうする。


「イオストラはカテドラルで協力してくれる人物を見つけたそうだ。それが誰なのか、俺は知らされていない。もしかしたら、あんたなら知ってるかと思ったが……」

「存じません。」


 リャナが正直に答えると、サファルは露骨にがっかりした表情を残してきびすを返した。


「ありがとよ。何か思い出したことがあれば俺に教えてくれ。」


 リャナは足早に廊下を進みながらサファルの言葉を反芻はんすうした。

 思考に埋没したまま与えられた自室へ戻る。小さな机とベッドがあるだけの、簡素な部屋である。何となしに施錠した直後、リャナは立ち尽くした。


 小さな部屋の壁際に設置された小さな机の前に屈み込んでごそごそやっている見知らぬ男を視界に収めたためである。


「え? ええ?」


 戸惑いが危機感となり、膨れ上がり、喉から溢れるまでのほんの短い時間。不審者が振り返り、立ち上がり、リャナの口を塞ぐには十分な時間だった。


「お静かに。怪しい者ではございません。」


 怪しすぎる男の、怪しすぎる言葉である。首にひやりとしたものが当たる。リャナはごくりと咽を鳴らした。

 身に着けているのは城の下働きのお仕着せ。ゆったり結ばれた長い灰色の髪。深い青の目には冷ややかな理性がたたえられていた。


「私はある方の使いで参りました。あなたのあるじに関して、お知らせしたいことがございます。どうか騒ぎ立てないよう……。ゆっくりと二回、頷いてください。」


 リャナが指示通りにすると、口元を圧迫していたてのひらがするりと離れた。不審者は崩れた服を手早く整えると、リャナに優雅な一礼をした。


「失礼をお詫びいたします、リャナ・アーダ。私はクエルド・インフィエルノと申します。」

「インフィエルノ……」


 リャナは視線を宙に浮かせて、彼の家名を繰り返した。頭の中に組み立てた協力者候補のリストにその名を探す。


「ああ、お構いなく。偽名です。」

「何故堂々と偽名を名乗る!」


 リャナはじりじりとドアに近付いた。やはりこの男は怪しすぎる。エルムよりも怪しいなんて尋常ではない。


「それで――」


 ご用件は、と問おうとして、リャナはすでに要件を告げられていたことを思い出した。リャナのあるじ、つまりはイオストラについて知らせるために来た、とクエルドは言った。

 一つの問いを自己解決した時、もう一つ問うべきことが生まれる。


「何故私の部屋をあさっていたのですか?」

「おや、そこに気付いてしまいましたか。勢いで誤魔化せると踏んだのですが、意外と繊細なお方だ。」

「繊細でなくとも気になります!」

「まあまあ、お静かに。」


 クエルドは唇に人差し指を当ててリャナをなだめると、困ったような息を一つ零した。


「実は私、極度な人見知りでして。初対面の方と話す前には、その方のことを隅々まで調べ尽くさないと恐ろしくて仕方がないのです。そこで、ここ数日あなたのことを密かに拝見しておりました。お部屋を調べさせていただいたのは、その延長ですね。どうです、普通でしょう?」

「犯罪ですよ。」


 リャナは静かな声で言いつつ、給仕服のポケットをまさぐった。可愛らしいデザインに紛れた大きなポケットの中に、冷たい鉄の感触を見つけ出す。ハサミだ。


「まあまあ、落ち着いてください。調査によって知り得た情報は、必要でない限り他言いたしません。」

「必要なら他言する、と。」


 リャナはポケットの中でハサミを握り込んだ。


「それに、例えばここで、あなたが普段持ち歩いておられるハサミなど出したところで、私には何の脅威にもなりませんよ。これでも不枯ふこの栄誉に浴した身でして。」

「ヒルドヴィズル……?」


 リャナはギョッとして後ずさった。施錠されたドアが、彼女の後退をはばむ。


「恥ずかしながら、雑魚もいいところで……。正面戦闘は不得手ふえてですが、戦闘訓練を受けたこともない少女が文房具を振り回す程度の脅威なら難なく鎮圧できます。」


 クエルドはリャナの机に寄りかかり、余裕ぶって両手を広げて見せる。


「ちなみに、私はけっこう慎重でしてね。もしもあなたが普段から凶器になるものを持ち歩いていたならば、お風呂場にお邪魔させていただくつもりでした。」


 リャナは絶句する。


「いやあ、あなたは良い。その無害さが、本当に良い。力がないからでしょうか。感性が繊細で、周囲のことをよく見ておられる。私と似ているかもしれません。」

「私があなたに似ているだなんて……やめてください。本当に。」


 リャナの嫌悪に満ちた声を受けて、クエルドは少し悲しそうな顔をした。


「それで、私の主人について何をお伝えくださるのでしょう?」


 嫌悪感に蓋をして、リャナは尋ねた。


「あのお方はご無事です。現在は中央連峰を南下しておられます。恐らく一両日中にはインドゥスを経由してデセルティコ砂漠に入られるでしょう。」


 リャナは眉をひそめた。すると、イオストラは南に迂回うかいしてアンビシオンに戻ろうとしているのか。


「彼女はデセルティコとアンビシオンとを結ぶ船を当て込んでいますが、恐らく到着する頃には船は止められているはずです。」

「それは……そうかもしれませんね。」


 二つの都市を結ぶ船の存在を今知ったということを、リャナはおくびにも出さなかった。


「すると、陸路ですか。かなりの難路になりますね。」


 彼女がアンビシオンに帰還するのはいつになるのだろう。リャナは頭の中で日付を数えた。だが、数えたところでどうなるものでもない。領主の息子の発言でさえ何の重みも持たないのに、リャナが持ち込んだ情報に何の価値があるだろう。


「どうして私にその情報をお伝えくださるのです?」

「あなたに協力いただきたいことがあるのです。そのお代として情報をお渡ししました。」

「なんですか?」


 リャナは警戒心を引き上げた。何か犯罪の片棒でも担がされるのではないかという恐怖が、頭の中でひくひくとうごめいた。


「こちらをイオストラ様の本棚に戻しておいてください。」


 そう言ってクエルドが差し出したのは一冊の本だった。


「……戻しておけ、と言いましたが、まさかイオストラ様のお部屋に侵入したのですか?」

「ええ、今後お話しする機会があるかもしれませんから、人となりを知っておきたくて。」


 クエルドは神妙な顔で答えた。


「本棚はその人の内面を映すもの。イオストラ様の本棚は、なかなか面白い内容でした。ちなみにそれはリニョン王国の歴史をリニョンの視点で描いたものです。神聖帝国の最盛期に突如として分離独立し、百五十年にもわたって神聖帝国を苦しめた。いや、実際に凄いことですよ。」


 重そうな本を片手でもてあそびながら、クエルドは語る。


「ところで、リニョン王国の分離独立と時を同じくして、多数のヒルドヴィズルが聖教会から離反する大事件が発生したのをご存知ですか?」

「いえ、存じませんが……」

「でしょうね。あなたが知るはずがありません。」

「じゃあ聞かないでくれます?」


 ですねえ、とクエルドは頷いた。リャナの苛立ちをあおろうとしているかのようだった。


「そのヒルドヴィズル達はリニョン王国の成立を助け、百五十年間守った。そして五十年前に突如として王国を放棄した。彼らは俗に西方教会と呼ばれていました。現在は西方師団と呼ばれています。」

「はあ、西方師団……」


 リャナは曖昧な相槌を打った。聞きなれない単語に戸惑うリャナに笑みを投げかけて、クエルドは分厚い本を机の上に置く。


「西方教会が崇めていたのは名を失った神……。様々な名で伝承に残っておりますが、我々は彼をこう呼んでいます。」


 白の魔法使い、という音を、クエルドの唇は紡ぎ出した。

 リャナは目を見開いた。その言葉は、強烈な記憶を脳内から引きずり出した。緑の霞と消えた怪物と、人という形の理想を煮詰めたような、白く輝く怪しい男……。


「ど、どういうこと?」


 疑問が口をついた時には、クエルドはいなかった。驚いて視線を巡らせると、窓枠から身を乗り出す彼の姿を見つけた。


「では、本の返却をお願いします。また用事が出来たら参りますので!」


 爽やかな声でそう言って、クエルドは外へと飛び出して行った。慌てて窓に駆け寄るも、クエルドの姿はどこにもなかった。


「……何なのよ、もう……!」


 リャナは自分を抱くように腕を組んで、小さな声で呟いた。机の上の本をおっかなびっくり持ち上げる。

 本の返却を依頼するためだけにリャナの部屋に侵入するとは思えない。あの男、何のためにリャナに接触したのだろう。まるで今の与太話よたばなしを吹き込むために来たかのような……。


「勘弁してよ……」


 分厚く重たい本を胸に抱いて、リャナは深く大きな溜息を吐いた。

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