58. たなびく光の帯を残して
紙一重だった。
銃弾が届くのがあと一瞬早ければ。あるいは、ラタムがほんの少し判断を誤っていたなら。
イオストラは勝っていただろうに。
捨て身の攻撃に転じかけたラタムは、しかし鎌を引っ込める。黒い霞が彼の姿を包み込み、届きかけた銃弾の大半を弾き落とす。周囲を敵に囲まれた中に落ちた黒い繭が割れると同時、死が噴き出した。
縦横無尽に走る鎌が運悪く近くにいた兵士の命を
兵士たちの恐怖心が生んだ隙を縫うようにして、ラタムは駆ける。さんざんに軌道を曲げながら、目指す先はただ一点。
「く……!」
イオストラの身体を真っ二つにするはずだった鎌は、寸前で動きを止めた。立ち昇った光が鎌を防ぎ、寄り集まって人の形を成す。
「エルム……!」
エルムはイオストラを抱え上げて後方へと跳ぶ。ラタムは追撃する。引き剥がそうとするエルムにぴたりと張り付いてくる。片手にイオストラを抱え、片手に光の盾を作り、閃く鎌を弾きながら、エルムは駆ける。
「怯むな、撃て!」
傍観に沈む兵たちにイオストラは指示を飛ばす。我に返った兵たちが放った銃弾は
ラタムは火球と顔の間に左手を割り込ませる。炎が爆ぜ、肉の焦げる臭いがした。ラタムは怯まない。動くのも不思議なほどに傷付いた腕でエルムの手を掴んで引き寄せ、鎌を振り下ろす。
イオストラはエルムの腕の中で身をよじり、ラタムの額に銃口を押し付けた。瞬間、視界が回転する。力任せに投げ飛ばされたエルムが体勢を立て直して垂直の崖に両足を着けたのとほぼ同時、巨大な鎌が眼前に迫っていた。エルムは重力に脚力を乗せて崖を下る。行く手にラタムが先回りしていた。鎌は黒い緒に引かれて持ち主の元へと戻る。
鎌とラタムに挟まれている。
イオストラが状況を理解するよりも前に、エルムは崖に腕を突き立てていた。崖から崩れ落ちた石がエルムの落下に倍する速度でラタムに迫る。ラタムは半歩下がって落石から逃れた。
吸い込んだ息が喉を鳴らした。イオストラは自分が息を止めていたことにようやく気付いた。
「お前と闘うために残しておいた力というわけではないのだがなあ。」
苦々しく言いながら、エルムはラタムと向かい合う。イオストラはへたり込むのを辛うじて堪えた。
「別れを告げられるのが良いでしょう。この距離ではあなたに勝ち目はない。」
ラタムは平坦な声で告げる。エルムは肩を竦めてイオストラに視線を移した。
「すまない、エルム……。距離を詰められたのは私の失態だ。」
イオストラはほぞを噛む。目頭が熱かった。どうして何もかもが裏目に出るのだろう。自分の力でことを為すのは、そんなにも無謀な選択だったろうか?
「いや、君のせいじゃないさ。身体強化式を封じられながら単騎でここまでくるなんて常識外れにも程がある。およそ何事においても非常識な奴が悪いと決まっている。仮にラタムが悪くないなら、予測しなかった周りの奴が悪い。」
エルムはきっぱりと責任を転嫁した。
「それは私の本音か?」
些か情けない気分でイオストラは尋ねた。
「慰めくらい素直に受け取れよ。可愛くないぞ。」
エルムは優しげに微笑んだ。
「ありがたいが、私の失敗を認めないわけにいかない。」
「失敗というなら、今回のことよりも前、法王との取引を断ったことこそ失敗さ。あの提案を呑むことが最善の一手だった。君にもそれは解っていただろう? なのに君は間違えた。」
エルムの目に優しい色が宿る。
「俺は嬉しかった。」
鮮やかに色を変ずる目の中で、イオストラが戸惑いの色を浮かべていた。
「俺に願う者はたくさんいたけれど、俺のために祈ってくれたのはお前だけだった。」
エルムの手がイオストラの髪を撫でる。
「ごめんな。エルムはお前の願いを叶えてやれない。けれど忘れないでくれ。たとえこの先何があったとしても、エルムはお前の味方だ。」
「まとめようとするなよ……」
弱々しくか細い声でイオストラは抗議した。エルムはからりと笑ってイオストラに背を向ける。
「別れは済みましたか?」
ラタムは静かに問うた。
「名残は尽きないが、刻限だろう。」
エルムの手の中に、二重の螺旋を描く白い杖が現れる。先端をラタムに向けて、エルムは不敵な表情を浮かべる。
「……ところで、俺を始末してしまえばイオストラに危害は加えないという約束はできないものかな?」
「エルム!」
イオストラの抗議の声を、エルムは片手を軽く上げて押しとどめる。
「できない約束はしない主義です。」
ラタムはにべもない。
「なら、お前を始末するしかないな。」
溜息を吐いて、エルムはイオストラに向けて上げた手を握る。ラタムの足元が爆発した。ラタムの姿は既にない。
エルムの視線がラタムを追う。振り下ろされた鎌を杖で受け、軌道を逸らす。美しく流れる型を断ち切るような乱暴な蹴りが、エルムの腹に食い込んだ。
地面に激しく体を打ち付けつつも体勢を取り戻したエルムは、いつの間にか杖ではなく白い剣を手にしていた。地面に足を踏ん張り、ラタムの追撃に備える。
一息にエルムに追い付いたラタムが掬い上げるように鎌を振った。
ぶつかり合う刃の音が激しく響き、どちらのものとも知れない血が噴き出しては谷を染める。光が弾け、炎が噴き出し、地形が変動する戦場で二騎が舞う。
盛り上がった岩がラタムの足を取る。大振りした鎌が大きく軌道を外れた。ラタムが姿勢を崩した刹那、エルムは大きく踏み込んだ。
「エルム!」
イオストラの叫びは遅きに失した。鎌は後方で軌道を変え、後ろからエルムを刺し貫いた。イオストラはよろめくように一歩、踏み出した。
「イオストラ様、こちらに……」
傍観に呑まれていた兵に後退を促される。イオストラは子供が駄々をこねるように首を横に振った。
「エルム、エルム!」
あらゆる色を湛えた目が、ゆっくりと動く。イオストラと視線を合わせて、エルムは力なく微笑んだ。イオストラはそれに微笑み返そうとする。ラタムはにこりともせずに鎌を引いた。引きちぎれたエルムの体は、瞬時に光の粒となって消えた。
わずかにひと時、たなびく光の帯を残して。
イオストラの顔は半端な笑みを浮かべたまま凍りつく。膝が自重を支える役割を放棄した。へたり込んで呆然と消え去る光を見上げる。涙がこぼれた。
ラタムはしばし光を見送り、しかる後に悠然とイオストラに歩み寄る。
「来るな!」
イオストラの隣に立った兵士が銃を構えた。ラタムは一顧だにしない。銃口から吐き出された銃弾は鎌の表面で固い音を立て、あらぬ方へと飛んでいった。
「……エルム、早く起きろ。エルム……!」
抱いた封珠に、イオストラは震える声をかける。封珠は答えない。ただ静かに冷えてゆく。ラタムは自分に向けられた銃口を無造作に切り払って、イオストラを見下ろした。
「無駄だ。白の魔法使いは原初の流れに帰還した。二度と同じ意識を宿して顕現することはない。」
そんなの嘘だ。イオストラは頑なに首を振る。以前にも同じことがあった。エルムは体を失って姿を消して、けれど数日後には何事もなく戻ってきたではないか。今回だって同じだ。
「もうあなたに打つ手はない。戦いは終わりです。投降して沙汰を待たれると良い。」
「エルム!」
兵たちがざわめいた。見つめる地面が光に染め上げられる。
「……聞こえている。全員を要塞に戻して防御壁を最大出力で展開しろ。以後の対応は任せる。」
ラタムの声が耳に届いた。イオストラは導かれるように顔を上げる。
涙に濡れた頬に熱が注いだ。空が光の海に覆われていた。凄まじいエネルギーを放射しながら、光の海は瞬く間に規模を増し、ゆっくりと降りてくる。
「……え?」
イオストラが呆然と見つめる中、ラタムは鎌に纏いつく黒い霞で分厚い傘を展開した。
光の海が落ちた。
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