59. 無形の災禍

 何が起きたのだろう。


 閉じた瞼の向こう側で光が激しく明滅し、あらゆる音が遠ざかり、冷えた空気が体にかかる。


 目を開くと、青空が広がっていた。イオストラは瞬きを繰り返す。空はあまりにも広く、遠い。


 何故こんなに見通しが良いのだろう。谷間で闘っていたはずなのに……。


 イオストラは慌てて身を起こした。周囲では兵士たちもそれぞれに起き上り、怪訝な視線を交わし合っている。


 そこはただひたすら平らな、純白の大地だった。


「どこだ、ここは……」


 現在地の手がかりを探して見回すと、ラタムが倒れているのに気が付いた。イオストラの兵士たちが皆無傷だというのに、ラタムだけがぼろ雑巾と化していた。


「お前……私たちを庇ったのか?」

「そう見えるだろうか?」

「見える。」


 イオストラは短く答えた。ラタムは何とも言えない表情で黙り込む。


「庇ってなどいない。単にあの光はあなたたちに対して無害だったというだけのことだ。」

「私たちに?」

「あなたと、あなたの仲間に。」

「それは、エルム、が?」


 イオストラの問いに、ラタムは頷いた。


「では、ここは……」


 イオストラは以前に迷い込んだ場所を思い出す。白い枝の屍に覆われた湖。ここはあの場所に似ているように思う。もしかしたら、ここもエルムの……。


「移動したわけではない。」


 ラタムは静かに言う。


「地形が変わっただけだ。」


 その言葉の意味を捉えるのに、しばらく時間がかかった。


「そ、そんな、馬鹿な……」


 見渡す限り、何もない。ただ白い砂の大地と空とがあるばかり。

 立ち上がったばかりだというのに、イオストラは再びその場にへたり込んだ。掌に触れる白い砂はさらさらで、仄かに温かい。


「白の魔法使いの置き土産か……。あなたの敵を、地形ごと排除していったわけだ。」


 ラタムの言葉が終わらないうちに、地面が大きく揺れ始めた。ラタムは怪訝そうに眉を顰める。


 晴れ渡った空を覆う暗雲が渦を巻き、湿った風が吹き下ろす。


「何が、起きている……?」


 その場の誰も答えようのない疑問を口にして、イオストラは天を仰いだ。



*****



 遠くで行われている戦争の気配はアンビシオンには届かない。リャナは戦場のある東の空を眺める。


 リャナに戦況は伝わらない。ただ戦場の方角を見やって溜息をつくばかり。


 アンビシオン政庁の高みに開いた窓から遠くに見える山々は、大陸を分断する中央連峰。あの山脈のどこかでイオストラが戦っている。


 今回もまた、リャナは連れて行ってはもらえなかった。リャナに出来ることはただ彼女が帰る日常を守ることだけだ。


「イオストラ様、大丈夫でしょうか……」


 カレンタルがぽつりと呟いた。兄の件で塞ぎ込んでいたのが回復すると、彼は何となしにリャナの後を付いて回るようになっていた。


 リャナは横目にカレンタルを見た。

 カレンタルの家族は、もうどこにもいないのだ。

 イオストラの挙兵がなければ、誰一人として欠けなかったかもしれない家族。


「ありがとうね、カレンタル。」


 唐突な謝辞に、カレンタルは目を丸くしてリャナを見た。


「え? え? 何がです?」

「イオストラ様を責めないでくれて、ありがとう。」


 カレンタルはオロオロと目を泳がせた挙句、半端な笑みで口元を飾って視線を降ろした。


「誰を責めたって、仕方がないじゃないですか……」


 思うところはあるのだろう。けれどカレンタルはそれを決して口にしない。その優しさが危うい。リャナは意識的に優しい笑顔を作る。


「ね、イオストラ様がお戻りになったら、私たちでお祝いをしない?」

「え?」

「多分、お忙しくなるでしょうし、豪華な宴も催されるでしょう。だから、私たちは質素なもので。サファル様もお呼びして……。参加者が私たちだけなら、エルムも出てこられるしね。」


 カレンタルは吊られたように笑みを浮かべて頷いた。


「小さな部屋でいいわ。可愛らしく飾り立てて、甘いものを集めて!」


 戦後はイオストラも忙しくなるだろう。リャナ達に構っている暇はなくなるかもしれない。何のしがらみもない宴席に意味はなくなるかもしれない。


 それでも、場所だけは用意しておきたい。


「ずっと一緒にいられたら――」


 ドン、と地面が揺れた。


 リャナは体の均衡を崩し、訳が解らないままにひっくり返る。地面が揺れている。高価な花瓶がひっくり返り、廊下に散らばる。零れた水に波紋が広がり、落ちた花弁が躍る。


「な、何? 何なの?」

「た、竜巻……?」

「ち、違うでしょ、地震よ!」


 混乱しきったカレンタルの声を耳にして、リャナは幾分か冷静さを取り戻した。


 果てしなく続くかと思われた揺れが収まると、恐る恐る立ち上がろうとする。両足が震えてままならない。

 窓枠にしがみついて何とか立ち上がって、外を見る。崩れた石壁、立ち昇る煙。沢山の人が往来に飛び出して状況を確認し合っている。


「こ、これは……」


 リャナの額に汗が浮かんだ。かなりの規模の災害だ。この状況でイオストラの本拠地が災害に襲われるなど、あまりにもタイミングが悪い。補給が途絶えれば戦線が崩れる。


「リャナさん……」


 カレンタルの声もまた震えていた。彼が青ざめているであろうことは、顔を見なくともわかった。


「山……山が!」


 カレンタルの言葉の意味を捉えた瞬間、リャナの背筋が凍った。


 アンビシオン政庁の高みに開いた窓から遠くに見える山々。大陸を分断する中央連峰。どこかでイオストラが戦っている。


 その山がきれいさっぱり、なくなっていた。



*****



「なんだったんだ、今の砂嵐は……」


 再興途上にしてまたもや瓦礫の山と化したデセルティコを見渡して、オヴィスは呆然と呟いた。


「あれが、砂嵐? 俺にゃ馬鹿でかい雷に見えたぜ。」

「馬鹿言うなよ、地震だろ。」


 言い争うゴート族の若者たちを横目に、オヴィスは声を張る。


「被害状況の確認急げ! それと駐屯軍に使いを出す。お前、来い。アンビシオンとインドゥス、後フロルに鳥便で速報を送れ。一言で良い。今すぐだ! おい、お前、二・三人連れて水場を押さえに行け。」


 矢継ぎ早に指示を飛ばしつつ、オヴィスは危機感を募らせる。事態への評価が一秒ごとに悪い方へと更新される。


 この状況で助けを求められる外部はアンビシオン勢力だけだが、そちらは全力を挙げて神聖帝国と戦をしている最中だ。救援は見込めない。さらに言えば、デセルティコは帝国側が海洋やデセルティコ砂漠を迂回して南側からアンビシオンを攻撃するような事態を防ぐ役割を負っていた。


 この状況でデセルティコが潰れれば、反乱軍側に勝ち目はなくなる。


「……ち!」


 オヴィスは舌打ちをした。お先真っ暗だが、先を見ていられる余裕もない。無駄と解っていても救援要請をする。その上で、必要とあれば帝国側に再度取り入る算段をつけねばならない。


 そして何より自助努力だ。


「インドゥスに使いを出せ。物資を搾り取って来い!」


 オヴィスの指示に、若者たちは互いに顔を見合わせる。


「でも若頭、インドゥスは無事だろうか?」

「あれだけの地震だ。山崩れでも起きてるかもしれねえ。」

「地震って、お前らな……。ありゃ砂嵐……」


 言いさして、ふと、オヴィスは口を閉ざす。被災した直後、皆が口に出す災害は全く異なっていた。ただ混乱しているだけのように思われたが、未だに認識は一致しない。


 本当のところ、何が起きたのだ?


「いいから行け! とっとと行け!」


 不安げな若者を無理矢理オオアシに乗せて送り出し、オヴィスもまた救助活動に参加する。



 インドゥスからの鳥便が届いたのは、しばらく後のことだった。オヴィスの送った鳥便がようやくたどり着く頃だろう。怪訝に思いつつ、オヴィスは薄く細長い紙に目を通す。血の気が引いた。


 内容は至極簡潔だった。インドゥスが雪崩に襲われたため助けを乞う、とのことだった。


「雪崩……? どこに雪があるってんだ?」


 オヴィスは蜃気楼の向こうに滲む山筋に目をやった。緑の茂るその山で、雪崩など起きるはずがあろうか。


「大変だ、若頭!」

「今度はなんだ!」


 いい加減にしろと叫びたくなるのを、オヴィスは辛うじて堪えた。


「教会の奴が……!」


 すわ襲撃かと思ったが、ゴート族の後から慌てふためいてかけて来るローブの男は動揺しきっており、敵意は見出せなかった。


「なんだよ。」

「これは教会独自の連絡網なのですが……!」


 おずおずと差し出してきたのは奇妙な折り目のついた紙だった。


「独自の連絡網なんて作ってんじゃねえよ! いかがわしい!」


 帝国全土に同胞を忍ばせているゴート族のことを棚に上げて教会を糾弾しつつ、オヴィスは紙を奪って目を通した。


「ヘリオに変事あり……?」


 オヴィスはカラカラになった喉の奥から声を絞り出した。


「なんだこりゃ……。まるで世界中で……」

「神が、お怒りなのです……!」


 男はローブの下で両手の指を重ね合わせ、祈りの言葉を口にする。


「ば、馬鹿馬鹿しい……」


 すんでのところで、オヴィスは祈りを噛み殺した。ゴート族がなけなしの祈りを捧げる相手は美しい女神ただ一人なのである。自分たちを虐げる神に捧げる祈りなど持ち合わせない。


 祈りたくなるのも解るのだが。


 不穏な空気に導かれるように、オヴィスは空を見上げた。



*****



 その災害には定まった形がなかった。


 地震と言う者もあれば、大風と言う者もある。空から光が落ちたと言う者もあれば、大水が世界を沈めたと言う者もある。どこからともなく岩が降り注いだと言う者もある。


 いずれにせよ、その災害は全世界を襲い、少なからぬ傷痕を残した。


 一つの街から各地へ飛ばされた鳥と紙が航路上で交差し、入り乱れ、目的の街に吸い込まれてゆく。人々は驚き、嘆き、畏れた。教会の者が神の怒りを説いた時、共に指を折る者も現れる。


 瓦礫の下から這い出て、冷たい夜空の下、粗末な敷物の上で祈る人の頭上に、さらなる災厄が降り注ぐ。


 無形の災禍はなお継続していた。

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