60. 生命を垂れ流す傷口に

 ビクティム要塞は形を残していた。


 半壊した砦の内側、緑色の霞が幾筋と立ち昇り、刹那の輝きを残して闇に消える。


 死にけぶる空を見上げて、テルは瞬きを繰り返す。目を閉じて開く度に世界が霞んで、遠ざかってゆく。


 まなじりから零れた熱が耳を伝う。


 消えゆくヒルドヴィズル達の輝きは綺麗だった。

 自分も間もなくああして消えるだろう。

 最後に見る景色としては悪くない。

 死んで彼の一部になるのも悪くない。

 死はずっと身近にあった。常に覚悟をしていたはずなのに、目からは次々と温かなものが溢れ落ちて止まらない。


「……死にたくないなあ……」


 思わず上擦った呟きを漏らした。すぐ近くで誰かの呻き声が同意した。すすり泣く声が要塞を埋める。


 声が止むたびに鮮やかな光が空へと昇り、消えてゆく。

 その光を割って、少女が姿を現した。


 輝き中で一層黒々と艶めく長い髪。滑らかな白い肌に、潤んだ黒い目。

 テルは顔を顰める。嫌な女。最期の時にまで乱入してくるなんて。


 酷く意地悪な気分になって、テルセラは無理矢理口角を吊り上げた。


「お、おめでとう……。あなたの勝ちよ。わ、笑えば?」


 イオストラは泣きそうな顔をしていた。もっと勝ち誇ればいいのに、とテルセラは思う。敵を憐れに思うなら、最後まで憎ませる努力をするべきではないか。


「お前たちを助けたい……」


 果たして、憎むべき唇はそんな言葉を紡いだ。


「どうすればいい?」

「普通の人間と同じように治療してもらえれば……」


 戸惑いは口を滑らせる。ついうっかりと、テルセラは素直に答えてしまった。


「解った。」


 イオストラは頷くと、長い髪を翻して踵を返す。


 なだれ込んだ人間たちが死にかけのヒルドヴィズルに手を差し伸べる。空間を満たしていた光が払われて、騒々しくむさ苦しい空気が流れ込む。


「痛い!」


 生命を垂れ流す傷口に当てられた温かな手は、鈍痛を著しく増幅した。きつく瞑った目から締め出された雫が先達の跡を辿って地面に落ちる。


 熱い痛みの中で、テルセラは痛い、痛いと繰り返した。




 急設された野戦病院で応急処置を受けると、テルセラは歩ける程度に回復した。


 治療の邪魔にならないようにとよたよた歩いて外に出て、ラタムの姿を見つける。

 無事だったのか。

 浮かびかけた笑みを引き締めて、テルセラはラタムの傍らに歩み寄り、拳一つ分の間を空けて隣に座る。瓦礫の山の上、相手の気配を探り合う。


「あんたも生きてたか。よかったよかった。」

「お前も。」


 お互い、無事とは言い切れないようだ。羽織った服の下、ラタムの身体にきつく巻かれた包帯には夥しい血が滲んでいたし、左腕が見当たらない。右腕の損傷も酷かった。

 それでも生きてさえいれば、いずれは治る。ヒルドヴィズルは傷を悲観しない。


「死に損ねちゃったわ。まさか助かるとはね。人間の備えも、馬鹿にできないわ。ちょっとした怪我ですぐ死ぬからかしら。」


 腹をさする。傷が鈍く痛んだ。


「でも痛かったのなんのって。ヒルドヴィズルって人間用の麻酔が効かないみたいでさあ。痛いからって力むと針が通らなかったりするし。軍医や衛生兵が半泣きになってて面白いわよ。」

「……支援兵科から情報提供してやれ。困らせるな。」

「やぁねぇ、やってるわよ。支援兵科も全体的に死んだり死にそうだったりで人手がないの。私も少し休憩したら手伝うわ。……でも今は、動いたら内臓が出そうなの。」

「難儀だな。」


 ラタムが吐き出した息には、ほのかに笑みが含まれていた。


「本当に。」


 テルセラは溜息をついた。

 自分の腹腔内を妙に意識してしまう。早く根源ノ力が戻らないものか。すっかり漏出してしまったから、数日はかかるだろうか。


「フルミナはどうした?」


 不意に、ラタムが問う。冷たく硬い声だった。テルは息を詰める。心を整理してから、首を振る。


「遠話、聞いてたんでしょう?」

「見つからず、か……」


 ラタムの声は淡白だった。


「本当、マッドパピーに振り回されたわね。私たち、いつの間にか慢心していたのかしら。一皮むけばあんなにも弱いのに。」


 身体強化式を抑制されれば蹂躙されるばかりになり、光の海に溺れればヒルドヴィズルだけが壊滅して、挙句に人間の救援を受けている。


「……あの光は白の魔法使いによる現象、ということで良いのかしら?」


 腹を押さえる手に、力がこもる。


「不明だ。だが、エルムの存在消滅直後に発生したことを鑑みると――」


 エルムの存在消滅。その言葉に、テルセラは複雑な感情を抱いた。姿も形も同じ。記憶も持っている。けれど自分を愛してくれない、白の魔法使い……。


 憎くて愛しいあの存在が、討ち取られたのか……。


「彼の帰還を引き金に発動する罠?」


 心情を包み隠して、テルセラは推論する。


「あの方の帰還は言うなればエネルギーの濁流だ。それを利用して大創世術を行うことは、不可能ではないように思える。」

「不可能ではないわ。ただ、何か違うような……。うまく言えないんだけれど……」


 テルセラは言葉を切った。明確な反証はない。ただ、テルセラの感性が白の魔法使いの罠を否定する。


 先代の白の魔法使いなら、それをやっただろう。ヒルドヴィズルからの信仰を集めて生まれた武神としての彼は、自らの死すらも冷徹に武器にしてのけたに違いない。

 だがエルムは違う。寄る辺を失った女の子が求めた救いの形。言うなれば彼はイオストラの父であり母であり恋人であり友であり師であり臣である。子供の求める愛情を体現した存在。それが自分の死を利用するものだろうか?


 勿論、エルムの意思が関わっていないとはとても言えない。イオストラと彼女の仲間たちは全くの無傷なのだから。


「そう、まるで……意思はあるけれど何も考えていないかのような……」


 漠然とした印象は、言葉にすることで形を表す。ぼんやりと形が見えたような気がした時だった。


 影が射した。顔を上げると、若い女の姿をしたヒルドヴィズルが立っていた。涙を湛えた青い瞳は、テルセラの、隣に座った人物に向けられている。


「無事……だったか……」


 声が震えていた。


「シスル――」


 ラタムが名を呼んだ途端、シスルはラタムに飛びついた。ラタムは勢いに押されるまま瓦礫の山の上に倒れる。ラタムに取りすがって、シスルは泣いた。ラタムは戸惑ったようにシスルの頭頂部に視線を注いでいた。


「……お熱いこと。」


 テルセラはボソッと呟いて立ち上がる。この場に居座るほど野暮ではない。人目がなくなるわけもないが、せめて隣は開けておこう。


「待て、テルセラ。」


 ラタムに呼ばれて、足を止める。思わずため息が出た。この状況で他の女の名前を呼ぶなんて、本当に何を考えているのか、この男。


「なによ?」

「話は終わっていない。」

「え、あの話、まだ続ける? もう終わったことでしょう。」

「いや……」


 ラタムは残された片腕でシスルの襟首を掴んで脇にどけると、腹の力だけで起き上る。


「すまないが、自力で歩いてくれ。今はお前を支えられそうにない。」

「あ、ああ……」


 正気に立ち返ったシスルは、顔を朱に染めて横目でラタムを窺う。


「すまない、傷に障ったか?」

「……別に。」


 痛かったのか。微妙な間と目の動きから、テルセラはラタムの内心を察した。


「ラタム、腕が……」

「そのうち生える。」

「え? あ、そうか。そうだった……」


 シスルの微妙な表情に、テルセラは共感を覚える。ヒルドヴィズルは人間と近すぎる。そもそも人間だったのだし、変生しても記憶も感情も人間のままだ。だから若い頃には自分が人間と異なる部分を見つけると、浮ついた心地になってしまう。優越感も劣等感も、隣り合わせだ。


 腹の傷の痛みがひどくなってきた。また内臓が零れたら嫌だなあ。ラタムなら平然と掴んで腹に押し込むだろうが、シスルは卒倒するかもしれない。とは言えラタムの隣に再び腰を下ろすのははばかられる。


「手早く済ませましょうか。何の話があるというの?」


 精一杯に軽い声で、テルセラはラタムに問うた。


「お前は先ほど、白の魔法使いが何も考えていない、感情任せの攻撃を行ったようだと言ったが……」

「言ったわ。」

「俺も同感だ。イオストラ様と仲間に被害が及ばなかった点に関しては全く理性的だが、それ以外が雑過ぎる。周辺環境への被害が甚大に過ぎ、それでいて敵を排除しきれていない。」

「……もしかしたら、私たちに手心を加えてくれたのかもよ。」


 そうだと良いな、と思う。そうではないんだろうな、とも、思う。


「そうかもしれないね。」


 鼻にかかった高い声が応答した。ラタムともシスルとも違う声に驚いて振り返ると、緑色に輝く瞳がそこにあった。その隣に、彼女に腕を掴まれてへらへらと誤魔化し笑いを浮かべる奇人の姿もあった。


「ティエラ様……」

「マッドパピー!」


 ティエラが柔らかく目を細めると、緑の輝きが一層強さを増した。


「イオストラ皇女と話がしたいのだが、今は忙しそうかな?」

「恐らく彼女もあなたと話をしたいとお思いでしょう。」


 ラタムの答えを受けて、ティエラはそうかと頷いた。鮮やかに輝く緑の目に、苦い感情が過ったように見えた。

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