61. 君のための世界
「白の魔法使いは駄々をこねている。」
崩壊した要塞からフロルへ、一路駆けるオオアシの背の上。騎乗するイオストラの後ろに立って、ティエラは静かに言葉を紡ぐ。
「自分の気に入った娘を特別に扱え、玉座に据えよ、とね。」
「エルムは死んだ。死ねば白の魔法使いの一部となり、個としてのエルムは失われる……はずだろう?」
背中に感じるティエラの気配に向けて、イオストラは自信に欠けた声で問う。
「……予想外のことだ。」
ティエラは答える。
「我々が思っていたよりも、エルムの意思が強かった。大海に溶ければ消えるはずだった雫が逆に海を自分の色に染めてしまった。……有り得ないことのはずなのだけれど、起きてしまったからには認めざるを得ない。」
ティエラの気配が圧迫感を増す。苛立っている、のだろうか。
「無形の災禍は、エルムの意思だと?」
イオストラは手綱を握る手に力を込めた。
「こんなことで私が喜ぶと思っていたのか、あの男は。」
「意思、と言って良いものかな。今わの際に抱いた無念。理性も知性もない剥き出しの感情だ。君に幸せになってもらいたいという、身勝手で傲慢で、タガが外れた欲望さ。だが、それが世界を呑み込むとは……。感情は時に理を超える。忌まわしいことだがね。」
「そんなものに支配されるほど、この世界は不安定なのか?」
イオストラは信じられない思いで呟いた。
「不安定だとも。そうあれと創られたのだから。」
ティエラは鼻で嗤ってそう答えた。
「そして君は今、世界に寵愛される存在になった。おめでとう。世界は生まれ変わった。ここは君のための世界。君が真に望めばあらゆる願いが叶うだろう。」
「……天変地異など、私は望んでいない!」
「だから、この状況を君にどうにかしてほしいと言っているのだよ。」
ティエラはきっぱりと言う。
「エルムは白の魔法使いの一部へと戻り、白の魔法使いを変質させた。これまでと異なる理が産声をあげている。君があやしてやりたまえ。他の誰にもできないことだ。」
吹き付ける風が不穏な空気を孕んで渦を巻く。さらなる災害の予感が高まる。
「どうやれば良い?」
覚悟を決めて、イオストラは問う。
「とりあえず教会までたどり着きたまえ。どの街の教会であれ、法王が待っているはずだ。」
「今向かっている。全力で!」
教団が教会間を結ぶ移動手段を持っていることが発覚した後に、領内にある教会は全て洗い出して監視下に置かれている。要塞に最も近いのはフロルにある小さな教会だった。
「厄介な奴に愛されたものだね。」
ふと、ティエラが呟いた。どことなく寂しそうなその声に、イオストラは苦い笑みを浮かべた。
「……結局、解らないんだ。エルムは何故私を……」
イオストラはそこで言葉を切った。頬に灯った熱が、それ以上を言わせなかった。
「長い黒髪が好きなのだよ、昔から。」
「は?」
イオストラは目を瞬かせた。
「あれを産み落とした女は長く美しい黒髪の美女だったし、妹も黒い髪を長く伸ばしていた。初めて仕えた相手も黒髪長髪の佳人だったよ。外見だけは、君とよく似ている。性格は反対も良いところだが。」
「や、奴は私の外見を評価してこんな大それたことをしたとでも、言うのか?」
「そうは言わないよ? 無いとは言い切れないけれど。」
「言い切ってくれ、頼むから。」
風に乱れる黒髪を、イオストラは手で押さえた。ティエラはくつくつと意地悪く笑う。
「君があいつに名を与えたからさ。」
不意に、ティエラは笑いを収めてそう言った。
「名前?」
「神になった時、あいつは名を失った。誰もそれを覚えていない。記録にも残らない。だからあれは白の魔法使い。」
ティエラの気配がスッと近づいて来た。走るオオアシの上にしゃがみ、イオストラの耳元で、ティエラはそっと囁いた。
「名前は存在を規定する。神なる存在に名を与えるのは恐れ多い行為だ。
「あなたも?」
沈黙が帰って来た。オオアシの歩みが乱れて体勢が揺らぐ。イオストラは冷や汗をかいてオオアシに制動をかけ、何とか転倒を回避した。
「すまない。気に障ることを聞いただろうか?」
いや、とティエラは冷たく答えた。
「私は、本当の名前以外を彼に与えたいとは思わない。けれど忘れてしまったんだ。」
何かを含んだ彼女の声は、普段の凛としたものから離れて、どこか幼子のようだった。
「私はあいつを名付けられない。」
それでも呼んでやるべきだったのではないか。
そんな余計な言葉を、イオストラはぐっと、呑み込んだ。
ビクティム要塞の陥落以降、アンビシオン側の防衛拠点となっていたフロルは本来、花の咲き乱れる田舎町だった。
一年を通じて街を飾る白い花は美しくもそこはかとない不気味さを孕んで舞い、多くの人に愛された。
花を愛で、人に愛された街はいつの間にか内乱の最前線になっていた。
物々しく行き交う兵士たちの間をすり抜けて、イオストラとティエラは教会にたどり着いた。
混乱が始まるまでは監視下にあった教会の祭壇に、法王はふてぶてしく座していた。
「さて。それでは打開策を話し合おうではないか。」
法王はイオストラに冷ややかな視線を送って、ゆるりと立ち上がる。
「現状がどうなっているか、彼女から聞いていただけたかな?」
顎でティエラを示す法王に、イオストラは頷いた。
「エルムが白の魔法使いの本体を乗っ取ってしまった、ということだな?」
「……平たく言えば、そういうことになる。」
法王の言葉は素っ気ない。
「理は書き換えられた。ここはあなたに優しい世界だ。」
「元に戻すには、どうすればいい?」
「戻したいのか? あなたのための世界なのに?」
「こんな世界、私は望んでいない。」
イオストラは子供だった。自分は世界に虐げられていると思っていた。自分だけが間違いに気付いていて、正しい道を見つめていると思っていた。そして自分にはそれを正す力があると思っていた。そこにエルムが介在するべきでない、とも。
けれどそれは所詮子供の夢だった。イオストラを囲っていた思惑の壁から一歩外に出れば思い通りにならないことばかりで、思っていたのと違うことばかりで、自分がいかに足らないかを痛感するしかなかった。
それでも信じてくれた人や優しくしてくれた人を守りたかった。自分の低い能力と狭い視野に甘んじて、自分たちのための小さな世界を守るために戻れない道を突き進むと決めたのだ。
そこには、エルムも、いるはずだったのに……。
「愚かで身勝手で矮小なあなたの手に世界は収められてしまったわけだ。好ましい状況ではない。」
「だから、元に戻して欲しいと……!」
「元には戻せない。大いなる流れから任意の部分を切り離すことは不可能だ。もちろん放置する気はない。だが、解決には時間がかかる。その間放っておいては千年かけて復活させた文明が逆戻りしてしまう。そこで、あなただ。」
イオストラは、拳を握る。
「何をすれば?」
「私はあなたの意地と自制心を信じる。」
さらりと言って、法王は目を眇めた。
「エルムの意思は白の魔法使いの中に戻ることで大いなる流れを著しく変質させた。だが、変質させた流れを整えるには及ばなかった。理を消しておきながら、新しい理を書き損じたのだ。代わりに誰かが筆を執らねばならないが、今奴が筆を譲るのはあなただけだろう。」
「私が新しい理を記すのか? そ、草案はあるのか?」
「……白の魔法使いとあなたを繋ぐ。あなたが難しいことをする必要はない。」
「繋ぐ?」
イオストラは眉根を寄せた。
「安心したまえ。白の魔法使いのように自我を失ったりはしない。
法王の発言に、ティエラは不機嫌に鼻を鳴らした。
「あなたと白の魔法使いは存在の一部を共有することになる。世界はあなたの望みと強く結びつく。あなたが望めば、災厄も収まるだろう。」
「……
「他の方法がないのだから止むをえまい。こうなれば、私としてはあなたを無下にはできない。お望みの物を差し上げよう。玉座を。」
法王の言葉には苦渋も重みもない。
「今上帝は、なんと?」
「確認するまでもない。」
何の悩みも示さずに、法王は答えた。
ふと、イオストラは憎んでやまなかった叔父の人生に思いを馳せた。
教団に反旗を翻した姉を討った後、彼は何を思い、どう生きたのか。悪評もなければ高評もない治世。法王の代理で統治するが如き王政の末に、姪と対立し、息子を失い……
「私は彼を殺すぞ。」
イオストラは静かに告げた。
「自身を正当な皇帝とするならば、
「それも、確認するまでもないと?」
「確認して何か変わるかね?」
言葉に詰まるイオストラに笑いかけて、法王は大仰に両手を広げた。
「神聖帝国は私の手の中に育ち、敵を呑み込んでここまで大きくなった。天の寵を受けし皇帝よ。あなたにこれを差し上げよう。あなたと私の対立が世界の糧とならんことを……」
広げた手を動かして指し示した先は、最前まで法王が座していた祭壇だった。
促されるままに、淡く輝く祭壇へと、イオストラは一歩を踏み出した。
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