最終話. この先も、ずっと……
気が付けば、イオストラはいつか見た景色の中に一人、立っていた。
薙いだ湖。水に根を張る白い巨木。その根に絡まるようにして沈む沢山の白の魔法使いと、湖底で渦を巻く緑の輝き。
木の根元で、白い髪をした子共が泣いている。
なぜ泣いているのかも解らずに、子供はずっと泣いている。
イオストラは
「あれが求めているのはお前ではない。お前にできることは、何もない。」
耳に届いた懐かしい声に、イオストラは振り向いた。
「エルム……?」
エルムの目に宿る色が、水底から立ち昇る光に合わせて揺れる。いつもと変わらない姿。けれどどこか、何かが違う。
「いや、エルムじゃ、ないのか?」
白の魔法使いは柔らかく口角を上げる。
「エルムは白の魔法使いだが、白の魔法使いはエルムではない。お前とエルムが出会うことは二度とない。」
イオストラは拳を握る。冷たくなった指先が掌に爪を食い込ませる。
「エルムを、返してくれないか?」
「水に混ぜた水を、区別して戻すことが出来るか? エルムは戻らない。」
色の変わる一対の目が、冷たくイオストラを映していた。エルムと同じ姿の、エルムではない白の魔法使い。
「そして変質した白の魔法使いも戻ることはない。」
悲しみも怒りも示さず、彼はただ淡々とそこにある。
「お前は白の魔法使いにとって特別な存在となった。世界はお前を愛し、限りなく甘やかすだろう。お前の望むと望まざるとに関わらず。」
無感情に言葉を発する白の魔法使いに、イオストラは手を差し出した。
「何の真似だ?」
「私はあなたと繋がるためにここへ来た。」
「知っているとも。法王に言われてきたのだろう?」
白の魔法使いは目を細めた。鮮やかな目が不可解な感情を示す。
「それがどういうことなのか、知りもせず……」
「どういうことなのか、教えてくれ。」
「白の魔法使いと結べば、お前は人よりも高次の存在になる。」
聞かれるがままに、白の魔法使いは答える。
「白の魔法使いは全知にして全能。しかし力を振るう道を持たない。お前はその意志となり、知識を引き出し、能力を執行する道となる。この世に知らぬことはなく、届かぬ夢も消えて失せる。」
「それは……夢のような話だな。」
「悪夢だ。知る喜びも達成の満足も、お前の人生から失われる。」
「それくらいは……許容するしかないさ。」
「なぜ?」
「白の魔法使いの暴走で、人がたくさん死んでいる。こうしている、この時も。」
「暴走……」
白の魔法使いは二度、瞬きをした。
「確かに暴走と言って差し支えないが、結局のところ、白の魔法使いはお前の願望を叶えたに過ぎない。」
「え?」
イオストラは身を固くした。
白の魔法使いが掲げた手の上に現れた球体に、世界の今が映し出される。無形の災禍に晒された人々。痛々しい傷に、無数の死。嘆き悲しむ人々。そんなこと、イオストラは望んでいなかった。エルムの望みだとも思えない。ただ不幸なめぐりあわせの末に誰も望まぬ結果に陥ったというだけのこと、のはず。
「この光景を望まなかったと、断言できるか?」
「でき——」
イオストラは言葉を切った。ライフィスに殺されそうになった時のことを思い出す。彼の死を望んだつもりなどなかった。けれど、ライフィスは死んだではないか。
「エルムに意思など存在しない。あれが何かをしたのなら、それは必ずお前の内から生じた願望に従ったものだ。白の魔法使いを使役するということは剥き出しの自分を映す鏡を見せつけられ続けるということ。現状を見ろ。こんなものを抱えたお前が、白の魔法使いを導くのか?」
「責任逃れのつもりはないし、議論が少々脇にそれるが——」
イオストラは大きく息を吸って、気を落ち着ける。
「エルムに意思がなかったとは、私は思わない。白の魔法使いがどうなのかは知らない。だが、エルムは人格を持っていた。願望も欲望も持っていて、それが思い通りにいかないことに不満を抱く。一個の人格だ。だからこそ、あなたを変質させ得たのではないのか? あいつの人格をなかったことにするのは、私が許さない。」
イオストラを見つめる白の魔法使いの目が暖色と冷色を同時に浮かべて揺らぐ。
「そう思うのなら、強いて反論はしない。結べば理解できることだ。だが——」
白の魔法使いは言葉を切って、目を伏せた。
「責任逃れはしない。この状況はエルムではなく、私が招いたことだ。あなたがそう言うのなら、そうなのだろう。それでもエルムは私の鏡などではない。あなたもだ。私は一人ではなく、あなたと一緒に、歩みたい。」
差し出されたままの手に、白の魔法使いの視線が注がれる。
「今の白の魔法使いは存在としての変質に伴って不安定化している。数年で安定を取り戻すだろう。そうすれば、白の魔法使いと直接結ばずとも災厄は収められる。」
囁くように白の魔法使いは言う。
「数年で収まる災厄のために、お前が人としての生を
「これが数年続くのか。」
イオストラは苦く笑う。
「それだけのことを放っておく勇気は、私にはないな。」
「被害を受けるのはお前にとって何者でもない存在ばかりだ。お前が大切に思う存在がいるとすれば、その者たちは被害を受けない。この災厄は、お前には害をなさない。」
「私が起こしたことだ。」
イオストラは強く答えた。
「私は皇帝となるために事を起こした。苦しむ民を放置することはできない。」
「……君はそうやって、自分を殺し続けるのか。」
小さな溜息に、イオストラはハッと顔を上げた。正面から見つめた一対の目に、鮮やかな光が躍る。
「私らしいだろう?」
「悲しいほどにね。」
白の魔法使いは苦笑した。
「俺は君を救いたかったのに、君は君を救おうとしない。」
「私は私を救うし、お前のことも救いたい。」
イオストラは一つ深呼吸して、目いっぱいに笑った。
「一緒に来てくれないか。この先も、ずっと……」
白の魔法使いは鮮やかで儚い笑みをこぼして、イオストラの手を取った。
触れた手の温もりが掌に染み入って、イオストラの全身を包んだ。
*****
晴れ渡る空の下、新しい時代を迎える喜びと興奮が人々の心を浮つかせる。
幼い日より夢に見た日を、イオストラは遠い心地で迎えた。
法王は拍子抜けするほどにあっさりとイオストラを皇帝と認め、皇族も貴族も誰一人として逆らわず。
国民たちは目に希望と未来だけを映して、新たな皇帝の戴冠を讃えている。
望んでいた景色。欲していた時間。
笑みはなく、涙も零れない。
重く輝く皇帝冠を頭に載せて、万来の喝采に包まれても心動かず。
一度読み終えた物語を読み返しているように、驚きは遠く、感動は薄い。
人生を費やして夢に見た戴冠式を終えれば、残るのは夢の片付けばかり。
幼い日々は去ったのだ。
「イオストラ様!」
色を失くした世界の中で、その声は確かな輝きを放ってイオストラの鼓膜を揺らした。
リャナとカレンタルがキラキラと輝く目をイオストラに向けていた。
「ああ、久しぶりだな……」
自分の言葉に温かなものが宿る。二人と相対して初めて、酷く強張っていた自分自身に気が付いた。
「今朝がたカテドラルに到着しました。ご挨拶できなくて申し訳ございません。」
リャナは丁寧な所作で、けれど優しく柔らかく叩頭する。カレンタルはその動作をぎこちなく真似る。
「あの、お忙しいとは思うのですけれど、もしよろしければ私たちにもお祝いの席を設けさせていただけませんか? 私たちとであれば、エルムだって一緒にいられますし。」
温かいものが胸に満ちて、せり上がって、目に宿る。
「ああ、そうだな……。エルムも、一緒に……」
笑顔の上を温かなものが滑り落ちた。
困ったような風が窓から吹き込んで、髪を撫でた。
*****
後の世に神聖帝国中興の祖として謳われる皇帝イオストラの在位は、穏やかに幕を開けた。
緑玉の天寵 文月(ふづき)詩織 @SentenceMakerNK
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