07. 取り落としたもの
低く質素な天井が、イオストラの意識の覚醒を出迎えた。
ゆっくりと身を起こす。体が重い。意識と肉体との間に得体の知れない隔たりが横たわっている。
「あ、目を覚まされたんですね!」
聞いたことのない声に、イオストラの警戒心が刺激された。きつい視線を向けると、金髪碧眼の青年が怯えたように身を
「おいおい、命の恩人にその態度はどうかと思うよ。」
聞きなれた声がイオストラの態度を
イオストラは戸惑った。質素と表現するのも
ここはどこなのか。金髪の男は誰なのか。もしかしたら、エルムがイオストラのために創り出した人物なのではないか。そんな疑いが頭をもたげた。
「命の、恩人?」
イオストラは慎重に言葉を紡いだ。
「そう。たまたま通りかかった彼が、家を貸してくれたんだぞ。」
イオストラは半信半疑に青年を見つめた。青年はおどおどと視線を揺らす。
「私はイオという。君の名を聞かせてもらっても良いか?」
「ぼ、僕はカレンタルです。カレンタル・ロコニオといいます。」
上ずった声でカレンタルは名乗った。青い目は自信なさげに動き回り、挙動もそわそわと落ち着かない。
「ここはモント村。山間の小さな村だ。行き倒れていたところを助けてもらったんだぞ、お前。」
エルムは澄ました顔で付け加えた。
「助けたなんて、とんでもないです。僕の方こそ、エルムさんに助けていただきました!」
イオストラはエルムを横目で見た。エルムが人助けをするというのが、
「それで、一体どうしてあんなところに倒れていたのですか?」
カレンタルはいかにも恐る恐るといった様子でイオストラに問うた。
「急ぐ用事があって、つい歩き過ぎてしまった。アンビシオンに向かっていたのだが、ビクティムが封鎖されていてね。」
イオストラは答えた。
「ビクティムですか……。そういえば、反乱軍に占拠されたと聞きました!」
イオストラはそっと目を閉じた。反乱軍。それが嘘偽りないこの村の認識なのだろう。
「ビ、ビクティムを通れないとなると、一度南下して砂漠に出るしかないと思います。」
「なんとか山を越えられないだろうか。」
「む、無理ですよ! 危険すぎます。」
イオストラは唇を噛んだ。こんなに急いでいるのに。
「デセルティコまで行けば船が出ているはずです。」
「船!」
イオストラは思わず浮ついた声を出して、咳払いをした。疲労を訴える両足をそっとさする。ここまでの陸路を思い返すと、船旅はなんとも甘美な誘惑だった。
「助言に感謝する。では、失礼させていただこう。」
「ええ? 待って下さい!」
立ち上がろうとしたイオストラをカレンタルが慌てたように押し留めた。
「酷い顔色です。微熱もあるし……。そうでなくても、すぐに出発するなんて無理ですよ。もうすぐ日が暮れるんです。遭難しますよ!」
カレンタルは小声の早口でまくし立てるように言う。イオストラは押し黙った。
遭難はしない。エルムがいるからだ。それを前提に、イオストラは安心して無茶を繰り返してきた。だがエルムの力を知らぬ者からは命知らずな行動に見えるのだろう。
何ひとつとして願わなくとも、イオストラはエルムに依存している。
唇を噛んで俯いてしまったイオストラに、カレンタルはおどおどと言葉をかけた。
「その……今夜はこちらで休んで行ってください。お夕飯の準備、して来ますね。」
そう言ってカレンタルは外に駆け出して行った。
枠の曲がった出入り口にはドアが
「……奇跡の力を使ったか?」
イオストラは静かにエルムに問うた。
「お前を助けるためにということなら、使っていないよ。彼はたまたま付近を通りかかった善良なる帝国臣民さ。目の前で危機に陥っていたので助けてやったが、そんなことをせずとも彼はお前を助けただろう。意思に腕力が伴っていなかったから、そこは手を貸してやったがね。」
「随分とカレンタルに親切なのだな。」
「困っている人を見たら助けるのが人道というものだろう?」
エルムは薄く笑ってそう言った。胡散臭いことこの上ない。
「まあ、いい。」
イオストラは固い床に薄い布が敷かれただけの寝床に手を触れる。
「行くぞ、エルム。」
立ち上がるのを拒否する足を励まして、イオストラは無理矢理に立ち上がる。
「おいおい、カレンタルの忠告を聞いていなかったのか? 彼は真当なことを言っていたぞ。」
「そんなことは解っている! だが、今は無茶をしてでも先を急がなければならないのだ!」
たったの一日で、ビクティム要塞は化け物たちの手に落ちた。次はどうなる? イオストラがぐずぐずしているうちに、連中はどれほどのものをイオストラから奪っていく?
「立ち止まっているわけにはいかない……!」
「そうかい。だが、たまには立ち止まらないと、取り落としたものに気付くことさえできないぞ。」
イオストラは眉を
「思わせぶりではないか。私が何を取り落としてきたというのだ?」
「あらゆるものを取り落としている。この上さらに、お前は大切なものを取りこぼそうとしている。」
「大切なもの?」
エルムはもったいぶった笑みを広げる。
「カレンタルは夕食にシチューを作ろうとしている。」
たっぷりの間を置いて、エルムは秘密を暴露するかのように小声で言った。
「……それが?」
イオストラは冷たい声で問いかけた。
「
「うん、それで?」
イオストラの声音からまた幾分かの温度が去った。
「ご馳走してもらおうじゃないか。人の親切は素直に受け取るのが、正しい人の有り方だぞ。」
「行くぞ。」
イオストラは冷たく言い置いて家を出た。
「本当に欲しかったものを見失っているということに、お前はいつ気が付くんだい?」
彼女が音の届かない距離まで離れた頃に、エルムはぽつりと呟いた。意地の悪い笑みが透け、輪郭が歪む。
やがて彼の姿は溶けるように消えた。
冷たい空気の残る小さな家は、静かに
*****
カレンタルは浮かれていた。誰もいなかった家に人がいる。それだけで薄暗く寒かった家が、明るく温かくなった。
人と食事をするのはいつぶりのことだろう。カレンタルは鼻歌交じりに買い物をした。普段の彼とは違う様子に、村人たちは怪訝な視線を送り合った。
今晩は最大の贅沢品、シチューを作る。客人が喜ぶ姿を想像して、カレンタルは頬を緩ませた。
「なあ、聞いたか? 反乱軍、負けたってよ。」
「反乱軍の行き倒れを見たって話も……」
耳を
反乱軍が負けた。反乱軍の行き倒れ。アンビシオンに行きたい、イオという少女。アンビシオンといえば西の大都市だが、そこが反乱軍に占拠されたという話はなかったか……。
(あの二人、反乱軍?)
不意に下りて来た思い付きに、カレンタルは驚愕する。冷や汗が噴き出した。カレンタルは家に向かう足を速める。
小さな村だ。カレンタルが二人を家に連れ帰ったことは
村の入り口で騒ぎが起きたのはその時だった。異様な
カレンタルは家へと駆け戻った。息せき切って飛び込み、逃げろと叫ぼうとしたところで、家にもう誰もいないことを知り、思わずその場に座り込んだ。逃げてくれて良かった。安心の
「なんだ、誰もいないジャん。」
奇妙な
「え、ええ……。ひ、一人暮らしなので……」
恐怖感に囚われて、カレンタルは後ずさる。
「君が急いで帰るからあ、誰か匿っテるのかなあって思いましてえ? これって短絡的だったかなあ? 僕、短絡的だと思ううう?」
「い、いえ。そんなことは……」
「嘘つくナよぉ!」
男は突然激高した。
「嘘吐きいいいい!」
金切り声で叫んで、男は腕を振り回す。
赤黒く塗装された銀色のきらめきが、カレンタルの視界で閃いた。
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