19.あの方々を試してはならない
塩の味を
湖上都市ヘリティア。巨大な塩湖の上に乱立する塔と風車を橋で繋ぎ合わせた奇妙な都市である。無計画な増改築の結果、さながら迷宮のような様相を呈する、乱雑で美しく、奇妙で歴史あるリゾート地。
前線の指揮官に任命された人物が
イオストラ
主戦場となったレムレス平野とヘリティアは距離があり過ぎるのだ。この距離があらゆる情報の
無能な皇族が玉座を狙う競争の箔付けのためだけに兵士たちの命を懸ける現場に押し入り、我儘を撒き散らして混乱させる。なんて不快な話だろう。
ライフィス皇子の悪手は自軍の動きを阻害するだけに留まらなかった。ヒルドヴィズルの介入を不快がって、西方師団の長たるラタムをヘリティアに呼び付け、数日に
どうやらライフィス皇子は相手の時間を拘束することに上下関係を見出す人間であるらしい。現在はラタムを自身が逗留する領主邸に呼び付けて、数時間かけて苦情の申し立てをしている最中であった。自身の上司が無能者に振り回されるのを見るのは心地よいものではなかった。
抜けるような空を見上げて物思いに
それは
全部で五羽。ラタム宛ての文だったが、シスルでも開封可能に設定されていた。軽く力を注ぐと、鳥は折り目を伸ばして平面へと回帰する。ラタム
五通が全て同一の内容であることを確認すると、シスルは金の髪を翻してラタムのもとへと走った。
領主邸はヘリティアの中心に
ヘリティアは生活用水に塩が含まれるせいで植物の栽培が困難なのだ。そのため自宅に植物を飾ることが上流階級のステータスとなっており、身分の高い者は狂ったように自宅を植物で飾り立てている。その
「止まれ。」
館の入り口を挟むようにして立つ門兵が、シスルを見咎めて立ちはだかった。
「西方師団長補佐のシスルと申します。師団長に会わせていただきたい。」
実のところ、この名乗りには
「ああ、リニョン王国の亡霊どもか……」
吐き捨てるように門兵が言った。シスルは眉根を寄せた。
西方師団はリニョン王国に
かつて西方教会のヒルドヴィズルは厳密な組織を形成し、集団としての武力を確たるものとした。リニョン王国滅亡の折、本家の聖教会はその組織をそっくりそのまま呑み込んだ。
つまり西方師団はかつて神聖帝国に反逆し、敗れて軍門に降った組織なのである。
それは公然の事実ではあるが、広く一般に知られているとは言い難い。それをこの男が知っているというのが、どこか不自然に思われた。
「何故、そんなことを……?」
シスルは慎重に問うた。
「すっかり噂になっている。お前たちがリニョン王国側の存在だってことはな。」
門兵は冷たく言い放つ。その目には隠そうともしない
「師団長の補佐ってことは、あんただろ? リニョン王国では名の知れた軍人だったそうじゃないか。」
いよいよ妙だ、とシスルは胸中で呟いた。西方師団の実体が知れているのはまだいい。だが、シスルの個人情報についてはどうだ。シスルが人間であった時代のことを知る者は少ない。シスルが把握している範囲ではラタムだけ。家名は捨てたし、名も変えた。さらに言えば、五十年も前のことだ。それなのに、何故噂に上る?
「あんたらが反乱軍に俺らの情報を売ってんだろ? 解ってるんだぜ!」
「そうか。
シスルの冷やかな態度は門兵の気に障ったらしい。二人の門兵の苛立ちが空気を凍らせる。シスルの瞳孔が
緊張感が臨界点まで高まった、その瞬間。どこか間の抜けた音を立てて、門兵が背に守っていた扉が開いた。緊張感は蜘蛛の子を散らすように消え去った。
あるいは扉の奥から現れた男に吸い取られたようでもあった。無機質な光を宿した灰色の目が向けられると、門兵はすっかり色を失って、一歩二歩と後ずさる。
門兵の心胆から温度を奪い去った灰色の瞳に映る自分の姿を目にして、シスルの心臓は熱を灯した。
「何事だ?」
低く平坦な声は高ぶった怒りを抑え込む一方で、シスルの心臓を跳ね回らせる。シスルは意識的に深く一息ついてから、口を開いた。
「ケンドリムからの報告です。」
遥かビクティムから飛来した紙を差し出す。記されているのはラタムがシスルを伴ってビクティムを出てから数日のうちに生じた
アルボル死亡、テルセラとフルミナがデスガラルを前衛に据えて目標の追跡を開始。そんな状況が記されていた。
ラタムは手紙を読み終えると紙を裏返し、無言でシスルに手を差し出した。シスルはその手にペンを載せた。
「テルセラかフルミナから報告はあったか?」
「いいえ。ありません。」
シスルはきっぱりと答えた。この手紙はラタムが報告を受けていることを前提に記されているようだが、こちらとしては寝耳に水である。
「消失したのでしょうか?」
紙の鳥を用いた連絡方法は手軽だが、問題がないわけではない。情報が行方不明になることがある、というのはその最たるものである。宛先の人物を見つけ出す精度は非常に高いが、敵に撃ち落とされる、野生の鳥に襲われるなどの理由で消失することがある。だからこそ三通以上を同時に出すのが決まりとなっていた。
「さて、どうだかな。」
ラタムは手紙の裏面に簡単な指示を走り書きしてシスルに手渡した。シスルは残りの四枚の手紙に返信を重ねて、掌で強く圧迫した。全ての手紙に返信が複写されたのを確認するシスルの頭上から、落ち着き払った声が注ぐ。
「行くぞ。」
シスルは顔を上げた。ラタムは既に領主の庭の外に向けて歩き出していた。シスルは慌ててその背を追う。
「ライフィス殿下は?」
声の届く範囲に人がいないことを確認すると、シスルの口調から丁寧さが抜け落ちた。
「礼は尽くした。」
ラタムは平坦な声で答えた。機嫌が悪いわけではない。彼は
領主邸を内包する巨大な塔の外側に出ると、シスルは返事を写した手紙を空に放った。紙は強風に乗ってひらひらと舞ううちに自然と折り曲がり、鳥の姿を取ってビクティムの方角へと飛んでいく。
そこにはラタム自ら目標を追跡する旨が記されていた。
「お前はビクティムに戻っていろ。」
「馬鹿な……」
シスルは眉を
「心配無用だ。」
ラタムは静かに答えた。淡々とした彼の声は嫌な想像を掻き立てた。
「待ってくれ。」
行かせてはならない。思わず声をかけて袖を掴むと、ラタムは怪訝そうにシスルを振り返った。
「少し落ち着いて考えてみないか? 今回の作戦はおかしい。投入を許された戦力はたったの百騎。占拠した要塞を掌握することすらままならない小人数だ。人手不足解消のために協力すべき友軍では妙な噂が流れて不信感が広がっている。その上、この少人数を指揮するのに西方師団の四幹部が総出だぞ?」
「何が言いたい?」
ラタムの声の温度がいつになく低い。シスルは生唾を飲んだ。
「法王様は……西方師団を切ろうとお考えなのではないか?」
ラタムは灰色の視線をシスルに注ぐ。シスルは緊張に頭皮を強張らせて、ラタムの言葉を待った。
「……今回の作戦は百騎規模の作戦に四幹部が同行しているのではない。四幹部規模の作戦に百騎が同行しているのだ。」
ラタムは静かに言う。シスルもそれは理解していた。白の魔法使いの前には限られた者しか立つことができない。だからこその四幹部出撃。他のヒルドヴィズルは四幹部を彼に届かせるための人手でしかないのだ。だが……
「規模が中途半端だと言っているのだ。白の魔法使いと闘える者は西方師団の外にもいる。彼らとの共同任務であれば――」
「ごめんだな。」
ことのほか冷たくラタムが言った。シスルは一瞬言葉に詰まる。西方師団以外のヒルドヴィズル。それはつまり、リニョン王国の存在した時代には西方師団と殺し合った者たちである。実際に刃を交え、傷つけ合い、盟友を殺し殺された間柄。遺恨もあるのだろう。だが、今は味方なのだ。
「――彼らとの共同任務であれば、十騎規模で任務に当たることができた。それなら帝国軍との摩擦は最低限で済んだ。」
「あるいは二百騎のヒルドヴィズルを投入していたなら、この戦いはもう終わっていた。」
ライフィス皇子の横槍さえなければ、という言葉をは危うく呑み込んで、シスルは先を続ける。
「法王様は軍事には暗いかもしれないが、それが解らないほどに愚かではないはずだ。」
ラタムは目を閉じると、シスルに背を向けた。
「教えたはずだな、シスル。」
低い声でラタムは言った。
「あの方々を試してはならない。」
シスルは唇を引き結んだ。立ち尽くすシスルを後に残して、ラタムの背中が遠ざかって行く。
「あなたはそれでいいの?」
ラタムは足を止めなかった。言葉が届いたのかどうか、シスルには解らなかった。
*****
ライフィスは苛立っていた。
優秀過ぎる異母兄と異母姉に
この反乱は名を上げ認められる最大の機会だった。即座に逆賊を討ち倒し、賞賛の声に包まれて聖都に戻るはずだったのだ。だが戦闘は長期化し、化け物どもに手柄を横取りされた。ライフィスに向けられたのは賞賛どころか軽蔑だった。
だが、今はライフィスも知っている。この状況を導いたのはライフィスの力不足ではない。これはあの化け物どもがリニョンの残党と繋がって企み、演出した難戦だった。
「貴重な情報を感謝しているよ、クエルド・インフィエルノ。」
「お役に立てて光栄でございます。」
灰色の髪のヒルドヴィズルはそう言って
「君たちからの支援は非常に役に立っている。私をこの大役に押し上げてくださったことといい、姉上にはどれほど感謝しても足りない。よろしく伝えてくれたまえ。」
「ライフィス様のご活躍、セレナさまもお喜びになられるでしょう。」
クエルドの丁寧な態度に、ライフィスは満足する。
第一皇女セレナ・ヘラード。
「私が至高の座についた
「ええ、セレナさまもお喜びになられるでしょう。」
クエルドは爽やかに笑って答えた。二人の間に沈黙が降りる。
「さて、下がるがよい。私もビクティムに移動する準備をせねばならぬ。」
「
礼儀正しくそう言い置いて、クエルドはくるりと踵を返す。ドアに向かわず窓から出るのはやや礼に反しているが、彼の立場を思えば仕方のないことだった。己の理解力に感心しつつ、ライフィスは腕を組んだ。
今後は怪物どもとの合同作戦となるが、奴らが腹の内で何を考えているのか、ライフィスは既に知っている。身中の虫に警戒しながらことを進めるとなると、かなり困難な作戦になるだろう。化け物どもを出し抜くために、どのような策を講じるべきか……。
己の知略を試す機会を得て、ライフィスの心は高ぶっていた。
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