18. すべて私の掌の上※

 銃口の先にいるのは獲物だと決まっている。

 カレンタルが獲物を仕留めたことはない。彼はいつも殺意を人差し指に乗せることができずに、獲物がその場を去るまで惰性で銃口を向けていた。


 自分よりもはるかに強大で凶悪な、憎むべき敵を前にしても、カレンタルの人差し指は動かなかった。撃つべきタイミングは何度もあったのに、それを全て見送った。


 撃つつもりもないのに、銃口を下ろすことができない。デスガラルという男の存在が、カレンタルの恐怖心を殊更ことさらあおり立てた。彼の姿が、彼の声が、カレンタルの中に潜む何かを刺激するのだ。呼吸が速くなり、不可解な汗が沁み出した。


「きっと君を守って見せる。」


 少女がそう口にした次の瞬間、カレンタルは突き飛ばされた。イオを庇うように覆いかぶさったエルムの体を、四本の爪が貫く。

 その光景を見た瞬間、カレンタルは驚くほど冷徹に人差し指を曲げていた。発射された魔弾はデスガラルの肩を弾き飛ばした。どろりと濁った赤が撒き散らされる。


—―熱い! 痛い! 苦しい! 怖い……


 血の臭いに引きずられるように、不気味な声がカレンタルの内部で湧きあがった。不定形の影が伸縮を繰り返しながら、カレンタルの中で徐々に形を成してゆく。そして不意にくっきりと、明確な姿を取り戻した。


 瞬間、忌々しい記憶が怒涛どとうのように押し寄せる。


 体を切り刻まれた。骨を踏み砕かれた。生きたまま焼かれた。村人たちの悲鳴が響く暗闇の中に、一人取り残された……。


 取り戻した記憶は、カレンタルに一つの事実を容赦なく突き付けた。


—―そう、隠していたのよ。あの女は……。


 どこからともなく不気味な声が響いた。


—―彼女のせいであなたの村は巻き込まれた。あなたは酷い目に遭ったでしょう? あの女はそれをあなたに隠していた。


 甘く酷虐こくぎゃくに、声は囁く。


—―許せるの? あなたはこれを、許していいの?


 あえぐように息をする。カレンタルの頬を涙が一筋、伝い落ちた。


 世界は歪んでしまった。

 平穏な日々はもう二度と戻らない。

 生まれ暮らした村は消え、隣人たちも皆死んでしまった。

 カレンタルの存在はぽっかりと世界から浮き上がり、孤独に漂っている。


 カレンタルの平穏の終わりを告げた、少女。ぼろぼろに疲れて傷ついた、高貴な少女。闘いを終えた安堵の滲む表情を目にして、カレンタルの中に苦いものが沸き上がる。

 ふわふわと覚束おぼつかない中、奇妙な衝動がカレンタルの心をくるくる回す。何故だかカレンタルは、イオストラを撃たねばならないという強迫観念に囚われていた。一方で、撃ちたくないと心底から思いもした。


—―何故撃たないの?


 どこかで声が囁いた。


(だって、撃ったら殺してしまう……!)


—―あら、それは悪いことかしら?


(悪いよ!)


—―本当に? あなたはそうと納得しているの? それは押し付けられた倫理なのではなくって? ねえ、どうして殺しちゃいけないの?


(なんで、だったっけ……?)


 浮かんだ疑問はカレンタルの意識を包んでさらい、どこかへ持ち去ってゆく。自意識の中から人差し指の感覚が零れ落ちた。発砲音が響き、腕に重い衝撃がかかる。射出された銃弾は真直ぐにイオストラに向けて飛び、彼女を庇うように差し出されたエルムの腕を吹き飛ばした。血の緒を引いて腕が地面に落ちた。


 やめてくれと懇願するイオストラに向けて、何か酷いことを叫んだ。言葉の刃はイオストラを傷つけた分だけ、カレンタルも傷つけた。誰も彼も、体も心も、ぼろぼろだ。


 自分が生み出した残酷な光景を前にして、カレンタルの心は凍り付いた。恐怖も優しさも氷の奥に埋もれて縮み上がる。平静に、冷淡に、カレンタルは引き金を引いた。

 血が舞う。肉が飛ぶ。淡々と人差し指の曲げ伸ばしを繰り返す。一度引いてしまった引き金は、驚くほど軽い。


 カチリ。


 銃声の代わりに鳴った乾いた音が、カレンタルを我に返した。頭部を失ったエルムの体がかしぐ。


「……エルム……」


 イオストラの呟きが、カレンタルの心を殴りつけた。カレンタルはよろよろと後ずさる。

 殺してしまった。噴き出す罪悪感に溺れて、呼吸ができない。時間を失った視界の中、差し伸べられたイオストラの指の先でエルムの体が輝き、弾けて消える。カレンタルの手から空になった猟銃が零れ落ちた。

 意思を無視して体が震えた。滲む視界を動かしてエルムの姿を探す。確かに存在した彼が、消えてしまった。まるで悪い夢でも見ているかのようだった。恐怖と罪悪感は消えない。消えたのは確かに足元を支えていたはずの現実だった。


「弾切れ、か。拍子抜けだわ。つまらない……」


 弾け飛んだ現実の中に、悪夢で聞いた声がぬるりと滑り込んできた。カレンタルは反射的に振り返る。

 ヒールが石畳を打つ音が、彼女の歩みに合わせて高らかに響く。波打つ黒髪が遅れて揺れた。艶めかしい赤に塗られた唇を、ピンクの舌がぬらりと舐める。赤く輝く目がカレンタルを映して、愉快そうに細まった。


「人の心は弱い。どれだけ体が強くとも、心を壊せばそれまでのこと。屈強な肉の塊でいかに強固に守ろうと、言葉一つで瓦解する。万能の神でさえ守り切ることはできなかったわね……」

「お前が……フルミナか。」


 イオストラは硬い表情で呟いた。女性は沈黙をもって肯定した。


「お前が、カレンタルを操って……!」


 強い怒りをたたえたイオストラの言葉を、カレンタルはすがるような心地で聞いた。操られていた。その事実が、カレンタルが罪悪感から逃れるための細い糸だった。


「私だけが責められる筋合いはないわ。あれは彼の本心よ。彼は心からあなたを憎み、殺したいと思ったの。だから引き金を引いた。私はそれをほんの少し後押ししただけよ。」


 フルミナは鍵盤けんばんはじくように柔らかく滑らかに指を動かした。丁寧に赤く塗られた爪が、十指じゅっしの軌跡を鮮明に描く。


「傷つけたくないと思ったのも本当、殺したくないと思ったのも本当。人の心ってとっても複雑で、整合性なんてないのよ。だからこそ行為によって評価される。」


 フルミナの声が滲んで聞こえた。忍び笑いが怪しく揺らぐ。眠気に浮かされた時のように、視界がぼやけて遠ざかる。


「本当に、ままならないものね。こんなにうまく操っているのに、思う通りにはならないの。あの男の救った命が、あの男の創った弾丸で、最愛のあなたを撃ち殺す……。私、そんな展開が見たかったなあ。」


 天と地が混じり合い、音が空気に溶けて、もう何もかもが解らない。焦点の消えた視界の中で、点々と残る赤だけがカレンタルの意識を惹きつけた。


「黙れ!」


 裂帛れっぱくの声と共に、歪んだ世界の端で赤が滲んだ。唐突に、カレンタルの意識が晴れた。まず目に映ったのは、イオストラの姿だった。彼女の剣の切先は持ち主の手の甲に突き刺さっていて、身じろぎの度に血を滲ませた。


「なによ。」


 フルミナは鼻白んだように呟いた。赤く輝いていた彼女の双眼は、澄んだ空の色をしていた。彼女が目に指の腹を押し当てると、緩やかにカーブした透明な膜が眼球からがれ落ちた。


魔具まぐが一セット、無駄になったじゃない。」


 忌々しげに言って、彼女は同じような形の、赤く輝く膜を目にめ入れた。双眼が禍々しい赤色を取り戻す。


「それがお前の、幻の種か?」


 イオストラは顔を歪めて手の甲から剣を引き抜いた。


「これだけではなくってよ?」


 フルミナは優雅に指を動かした。赤く塗られた、爪。ついつい目で追ってしまう。


「五感で私を捉える限りは逃れられない。あなたの苦痛も快楽も、全て私のてのひらの上。ねえ、私だってむごい真似はしたくないの。あなたの持っている封珠ふうじゅを、私にちょうだい?」

「断る!」


 イオストラは剣にすがって立ち上がる。平衡感覚が狂っているのか、彼女の体は危なっかしく揺れていた。


「そう……」


 フルミナは嬉しそうに笑って、イオストラに人差し指を向けた。


「そう言うことなら仕方がないわね。あなたに、極上の苦痛を—―」


 フルミナが唐突に言葉を切った。彼女の赤い視線の先で、身構えたイオストラの首から下がる宝玉が眩い輝きを放つ。光は収束し、柱となって空に昇ると、弾けて傘状に広がった。流れ落ちた金の筋が空に弧を描き、街を覆う半球のドームを形成する。


「な、なに……?」


 フルミナが戸惑った声を上げた。ドームの中心に、巨大な目が開いた。



*****


「空の目? 街全体を覆うほどの……?」


 フルミナの驚嘆が、はっきりとイオストラの耳に届いた。歪んでいた視界が戻り、唖然と空を見上げるフルミナの姿をはっきりと捉える。視界を狂わされた反動か、世界は一層鮮やかにイオストラの目に映った。


 イオストラは剣を構える。傷の痛みも不安も、今はない。絶対の自信と高揚感が、イオストラを支配していた。へその上から無尽蔵の力が沸き上がり、体の中を循環する。身を低めて地を蹴れば、凄まじい推進力がイオストラを瞬時にフルミナの懐に送り込む。


「何ッ?」


 赤い目が驚愕きょうがくに見開かれた。イオストラの振るった剣がフルミナの騎士服を裂く。切れ目から血が沁み出して服を汚す。痛みか屈辱か、フルミナの表情が歪んだ。フルミナは即座にイオストラから距離をとる。


「支援系創世術……?」


 自身に問うような呟きを発しつつフルミナが体勢を立て直した時には、既にイオストラはフルミナの目の前にいた。剣を振り抜く直前、跳び退る。側面から飛来する光の矢の存在を、視認するよりも遥か以前からイオストラは知っていた。


 屋根の上で、テルが片膝をついてイオストラを狙っていた。頭部から流れたおびただしい量の血が、彼女の半身を朱に染めている。


 フルミナの速度が上昇する。イオストラは怯まなかった。フルミナの視線の動きから、彼女が逃げを意識していることを看破していた。

 彼女は近接戦闘が得意ではない。周到に企み、敵を術中に陥れ、支配する。難易度の高いその技術を習得したがために、実戦の技術も経験も最低限しか得ていない。

 テルもまた同様である。前衛に据えたデスガラルが動けない今、二人は必ず撤退を選ぶ。

 いつの間にかイオストラはそんなことを知っていた。


「逃がすか!」


 後退を続けるフルミナに、イオストラは食らいつく。


「しつこいわね!」


 フルミナの声に、焦りと苛立ちが滲む。高々と振り上げた手の指の間に挟んだ剃刀ていとうを起点に、淡い光が細く長く伸びていた。まるで剣のように。そう連想した瞬間には、イオストラは大きく後退していた。フルミナの手の動きに合わせて振り被られた光が、家の壁を軽々と裂いた。


「夢を見るのに首から下は邪魔でしょう? 切り落としてあげるから大人しくなさい!」


 声と共に何かがに入り込もうとするのを、イオストラははっきりと感じた。だがイオストラの内側から溢れ出す力が容易たやすくそれを跳ね退ける。

 言葉通りに首を狙ってきた光の刃に向かって、イオストラは駆けた。身を低くして地面を滑り、刃をい潜る。フルミナの傍らを滑り抜け様、脇腹に刃を埋め込んだ。


「っあああ!」


 苦悶くもんの声を残して、フルミナが崩れ落ちる。イオストラは横目に刃の汚れを確認した。浅い。致命傷には足りない。即座に身を翻し、トドメの一撃を加えようとした、その瞬間。体重移動の隙を狙いすまして、脇から一騎が突進してきた。

 イオストラは咄嗟とっさに剣を立てて身を庇った。テルの正拳突きがイオストラの剣の腹を直撃する。呆気ない音を立てて、剣が折れた。

 テルは即座に跳び退ると、小柄な女性の外見に似合わない力でデスガラルとフルミナを抱え上げた。


「お互い、ここまでにした方が良さそうだわ。また会いましょう、イオストラ殿!」


 テルは意地悪く笑ってそう言い残すと、一目散に逃げ出した。


「待て!」


 イオストラは後を追おうとして、そのまま地面に膝をついた。突如として体が鉛のように重くなった。空を見上げれば、街を覆っていたドームが崩れるように消えてゆく。首から下げた封珠を、イオストラは握り締めた。それはひんやりと冷たかった。


「イオ……さん……」


 カレンタルがおずおずと声をかけて来た。イオストラは封珠を首から外すと、恐る恐る手を開く。


「僕……僕……!」


 カレンタルの眼球が、盛り上がった水分の奥で揺れていた。


「……安心しろ。きっと、大丈夫だから……」


 その言葉はカレンタルではなく、自分自身に向けたものだった。


 イオストラの手の中で、封珠は淡く儚い光を灯していた。

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