幕間短編

001. お母さまを生き返らせてください※

 今はもう思い出の中にしかないその部屋には、イオストラの求めるものが全てそろっていた。


 小ぢんまりとした部屋の床は毛足の長い絨毯に覆われていた。ソファには羊の毛皮。硝子ガラスのテーブルの上にはチョコレートにクッキー、温かなミルクにハチミツ。樫の古木こぼくから切り出した棚には難しそうな古い本がたくさん並んでいて、暖炉の炎の揺らぎに合わせて柔らかく表情を変化させた。


 カテドラルの皇宮のどこかにあった、母とイオストラだけの部屋。政務に忙殺される母がイオストラと共にわずかな時を過ごした、優しい空間。


 ソファに腰掛けた母の膝の上で、ハチミツをたっぷり入れたミルクを飲みながら話をする。

 最も愛おしく思い出すのは、そんな記憶である。



 *****



 その日その部屋で、母はイオストラに奇妙なものをくれた。緑色の輝きを封じる小さな宝玉。目をしばたかせるイオストラの髪を、母は優しく撫でつけた。娘と同じ色の髪が暖炉の光に照らされて黒々と輝いていた。


「しばしの別れです、イオストラ……」


 母は優しい笑顔でそう言った。


「どこかへ行ってしまうの?」


 イオストラは不思議に思って母に問うた。母の笑顔がくしゃりと歪む。それがイオストラを不安にさせた。


「あなたは気高く生きなさい。その宝玉は、きっとあなたを助けてくれるでしょう。」


 優しい声でそう言って、母は不意に表情を引き締めた。


「私は失敗をしました。けれど間違いはしなかった。間違いを犯すとしたら今からです。あなたにこれを託すのですから……」


 女帝は鋭さを宿した目でイオストラを見つめる。イオストラは緊張に肩を縮めた。


「まだ幼いあなたにこんなことを託したくはなかった。けれどあなたしかいないのです。どうか私の遺志を継いでください。」


 逡巡しゅんじゅんの後、女帝は静かに言葉を重ねた。


「歴史を人の手に取り戻す。多くの人が目指し、為せなかった悲願を、あなたが……」


 皇帝の声が震える。夜の色をした母の目が揺れた。最後まで言葉を発せられぬまま、母はイオストラの部屋から出て行った。


 それが、イオストラが彼女と過ごした最後の時間だった。


 次にイオストラが対面した時、死に化粧を施された彼女は棺桶の中で永久の眠りに浴していた。静謐せいひつに抱かれて安らかに目を閉じた彼女は、とても綺麗だった。


 イオストラは母の死を受け入れることができなかった。


 時はイオストラの納得を待たなかった。母の死と共に、当たり前に手の中にあったものが零れ落ちていった。


 皇帝としてはあまりにも幼過ぎるという理由で、玉座は取り上げられた。

 優しかった人々は離散した。

 自由に動ける場所が、少しずつ制限されていった。

 母と過ごした小さな部屋は倉庫へと変貌を遂げた。


 そしてついに、イオストラはカテドラルに居場所を失った。

 彼女は西の都アンビシオンに身柄を預けられることとなったのである。



 *****



 アンビシオンはかつてリニョン王国の王都として栄えた。神聖帝国に併合された現在は旧リニョン王国の貴族、ナールソン家が領主として治めていた。

 ナールソン家の現在の主はドナン・ナールソン。人の好い笑みで表情を飾る老齢の男性である。


「ようこそおいでくださいました、イオストラ殿下。かつてリニョン王国に仕えた身として、高貴な御身をお世話させていただけること、至上の誉れにございます。」


 この老人は母の死を喜んでいるのだろうか。ぼんやりと、イオストラは思った。


 アンビシオンの人々は親切だった。人々が浮かべる笑顔の一つ一つが、歓迎の言葉の一言一句が、母の死を祝福しているように思われた。


 ただ一人、ナールソン家の五男サファルだけは非友好的だった。それはそれでイオストラを怯えさせた。

 イオストラは与えられた部屋に引き籠り、ぼんやりとした日々を過ごした。


「こんなところに閉じ籠っていてはいけない。」

「気持ちはわかるが、歩き出さねばならない。」

「世の中にはもっと辛い思いをしている人もいる。」


 口々に言って、アンビシオンの人々はイオストラを彼女のからの内側から引きずり出した。無理にでも歩き出させれば立ち直ると、彼らは思っていたのである。


 結果、イオストラはますます頑なに心を閉ざした。


 次第にイオストラは誰にも相手にされなくなった。領主の息子サファルだけが、しつこくイオストラをつつき回した。


鬱陶うっとうしいなあ! しゃんとしろよ!」


 誰もがイオストラを腫物はれもののように扱う中、サファルは妙に攻撃的だった。彼のことが恐ろしくて、イオストラはますます委縮した。


「いい加減にしろよ! 辛気臭い顔ばっかりしやがって!」


 ある時ついにサファルは強引に扉を開き、イオストラを部屋の外へと引っ張り出した。


「放して! やだあああ!」


 イオストラの悲鳴を聞きつけた警備兵が飛んできて、雇い主の息子と客人の姫がめているのを発見し、二人を丁寧に引き離した。サファルはこっぴどく叱られた。

 イオストラは叱られなかった。大人たちはイオストラに慇懃いんぎんな謝罪をしたが、誰も彼女のことなど見ていなかった。

 サファルはにらむようにイオストラを見つめていた。彼は謝罪をしなかった。



 その日の夜、イオストラは母から手渡された宝玉を月明かりにかざして眺めていた。玉の中で鮮やかな光が鼓動のように揺れていた。

 涙が顔を伝って流れ落ちる。熱い雫の通った跡が、酷く冷たく顔を刺す。

 一人ぼっちだ。後から後から湧き出す温かい涙が、冷たい道を辿って落ちる。持っていたものを全て失って、一人ぼっち。月の光が滲む。目を閉じると、あふれた涙が新たな道を肌に残した。

 顔に当たる月明かりが、不意に陰った。誰かの温かな手が、イオストラのほおを優しく撫でて涙を拭う。


「お母さま……?」


 イオストラは目を開けた。目の前にいたのは、見たことのない人だった。月明かりを受けて白く輝く髪、夜空の色をたたえた双眼。彼ほど美しく怪しいものを、イオストラは他に見たことがなかった。


「おめでとう。君の想いは俺を定義した。」


 彼はゆったりとした微笑みをイオストラに向けて、滑らかな低い声で囁いた。


「さあ、願いを言ってごらん? 君の願いを叶えてやろう。どんな願いも、いくつでも……」


 イオストラの涙を拭った手を、彼はそっと差し出した。イオストラは夢見るような心地で、涙の上から手を重ねた。


 辛い思いをしている自分の下に、神様が降りて来てくれた……。


 その時のイオストラは、確かにそう思ったのだった。



 *****



 白い人の手を取った翌日、サファルはイオストラに謝罪をした。

 これまでの態度が嘘のように、サファルは優しくなっていた。イオストラはどもりながら謝罪を受け入れて、二人は和解した。


 奇妙な万能感が、イオストラの胸を満たした。彼には本当に力があるのだ! イオストラは興奮に頬を上気させて、首から下がる緑の玉を握った。玉はほのかに温かかった。


 サファルと二人で受ける家庭教師の授業が苦痛でなくなると、イオストラの日常はにわかに楽になった。おぼろげだった周囲の景色が鮮やかに広がった。

 一通りの授業を終えて部屋に戻ると、イオストラは白い人を呼び出そうと試みた。そう言えば名前を聞いていない。


 緑色の宝玉を揺さぶりながら感動詞を重ねて呼びかけるうち、内部の光が膨れ上がって空間に溢れ出し、人の形を取った。一部の無駄なく美しい、完璧なる人の姿が、イオストラを見下ろして怪しく笑う。


「呼んだかな? 小さなお姫様……」

「うん。サファルのいじめをやめさせてくれて、ありがとう!」


 白い人は目を瞬かせた。一瞬遅れて口元に笑みが広がる。


「君はもう少し自分に自信を持つべきではないかな?」


 白い人の言葉の意味を捉えかねて、イオストラは小首を傾げた。白い人は、それ以上何も言わない。ただにこにことイオストラを見つめていた。なんとなく照れ臭くなって、イオストラはもぞもぞと体を上下に揺らした。


「あのね、私はあなたを、なんて呼んだらいいの?」

「俺という存在を決めるのは君だ。好きなように呼んでいい。」


 イオストラは少しの間迷ったが、やがて花のような笑顔を咲かせた。


「じゃあね、エルムって呼ぶね。」

「エルム? エレメントの略称かな? なるほど、俺のことをよく解っている。君はとても賢いね。」

「えれめんと?」


 イオストラはきょとんと首を傾げた。


「ううん、違うよ。お庭に生えてた、木のお名前。とっても大きくて、立派なの! お庭の真ん中にあって、沢山のお花に囲まれているのよ。聖杖の乙女の救世の旅の後、最初に生えたのがあの木なんだって!」


 赤くひび割れた大地から芽を出し、人々の希望と共に大きく成長した木の逸話は、皇宮の庭の中央に根を下ろす巨木と共に語り継がれてきたもの。死にかけの心を癒してくれる彼にぴったりだ。イオストラは頬を上気させた。


 白い人はゆっくりと目を細めた。長い睫毛まつげが橙色の目を覆うと、虹彩が冬の空の色に変じた。


「君はとても愚かだね。」


 吐き捨てるように、白い人は呟いた。イオストラの後頭部の皮がキュッと縮まった。


「それが当然なのだろう……。賢い者が、俺に祈ったりするはずがないのだから。」


 そう言って、彼はそっとイオストラの頭を撫でた。イオストラは胸を撫で下ろす。


「さあ、愚かで無分別な我が創造主。君は一体、何を望むのかな?」


 エルムの双眼が弧を描いた。


 この時自分が何を祈ったのか、イオストラは覚えていない。忘れてしまうほどに他愛ない願いであった事だけは確かだ。


 それを皮切りに、幼くて他愛ない願いをイオストラは次々と叶えた。お菓子が欲しい、玩具が欲しい、食事から苦菜にがなを抜いてほしい、翌日予定されている試験を延期させてほしい、剣の試合で勝ちたい……。

 全ての望みは難なく叶った。イオストラはあらゆる人から愛され、褒められ、甘やかされた。

 エルムがいればイオストラは何だって手に入れることができた。彼女の願いはアンビシオンの政庁の隅々までを満たし、彼女を甘く柔らかな幸福の内に包んだ。

 けれど何故だろう。イオストラは奇妙な虚無感を覚えていた。何もかもがそこにあるのに、何かが決定的に欠けていた。


 本当はこんなもの、欲しくないのではないか?


 ふと、イオストラはそれに気が付いた。


 本当に欲しいのは以前と変わらぬ幸せだった。今は倉庫となったあの部屋に詰まっていた、ほんのささやかなもの。自分が欲しいのは、ただそれだけではなかったか。

 暖炉の熱を宿す小さな部屋。毛足の長いカーペット、向かい合うソファ、背の低いテーブル、チョコレートにクッキー、温かいミルクにハチミツ……。古い紙の香りに満たされた、小さな一部屋。


 そこにはもう、母はいない。世界のどこにも、彼女はいない。あの小さな部屋は、決して完成しない。あの愛おしい時間は、もう二度と帰って来ない。




 イオストラの諦念を覆したのは、サファルと机を並べて受けていた文学の授業だった。転寝うたたねをするサファルの隣で、催眠術の如き授業に懸命に耳を傾けていたイオストラは、授業で取り上げられた作品のあらすじに強く惹かれた。


 女科学者が主人公の、悲恋の物語だった。失った恋人を惜しみ、蘇らせるために試行錯誤を繰り返す物語……。


 死者を蘇らせる。その題材はイオストラの心を強く捉えた。

 それは特段珍しくもない題材である。様々な時代、様々な形で人の想像に上った、全く平凡な願い事。だがそれはこの時までイオストラの発想に上らなかったのである。


 教師の口から発せられる催眠音波は、もはやイオストラには通じなかった。イオストラの精神は昂って、幸せな妄想は留まるところを知らない。


 普段真面目なイオストラが授業中にそわそわと落ち着かないのを横目に確認し、サファルは密かにいぶかしんだ。


 退屈な授業を終えるなり部屋を飛び出して弾むように廊下を駆けていく少女を、サファルは不安げに見送っていた。



 部屋に戻ると、おやつにミートパイが用意されていた。美味しそうな匂いがイオストラの興味を惹き付けたが、彼女はそれに手を付けなかった。

 後でお母さまと食べよう。そう思うと、美味しそうなミートパイはより一層美味しそうに見えた。


 イオストラはベッドの上に教科書を放り出し、緑の宝玉を突いてエルムを呼んだ。エルムはすぐに現れた。


「さて、可愛いお姫様。今度の望みは何だろう? 世界の果ての国に行きたいか。空を飛びたいか。あるいは海底の散歩でもいかが?」


 エルムの提案は、一つたりともイオストラの心を打たなかった。ほんの数時間前であったなら、その全てがイオストラの心を揺らしたに違いない。だが、今の彼女はただ一つの想いに支配されていた。


 ――お母さまに会いたい!


「あのね、あのね!」


 イオストラは頬を上気させる。口にしようとした途端、授業時間を使って丹念に温めて来た言葉は突然怖気おじけて、喉の奥へと潜り込んだ。酸欠の魚のようにぱくぱくと口を動かして、イオストラは俯いた。前髪がイオストラの顔をそっと隠した。


「……お母さまが欲しいな、って……」


 呟くような小さな声で言って、イオストラは上目遣いにエルムの顔をうかがい見る。彼がいつもの優しい笑みを浮かべているのを見て取って、イオストラは心底から安堵した。


「なるほど、今度の望みはオカアサマ、か。いいよ、作ってあげよう。どんなオカアサマがいい?」


 エルムの問いに、イオストラは首を傾げた。何を問われたか、よく解らなかった。


「お母さまはお母さまよ。先帝、アイエル陛下……」


 ぼそぼそとイオストラは呟いた。


「つまり先帝と同じ人物を作れば良いわけだな? 任せたまえ。人間のコピーは俺の十八番おはこだ。」

「違う! そうじゃ、なくて……」


 何かが邪魔をして、言葉を上手く見つけられない。鼻の奥が冷たくなった。滲む視界に、不意にエルムの顔が現れる。


「その願いは天に顔向けできないものなのかな?」


 エルムはしゃがんだ姿勢でイオストラを見上げ、耳に心地よい声で問いかける。


うつむかねば口にできないような願いならやめておきなさい。」


 エルムはそうっと氷の色を宿した目を細めた。イオストラは唇を噛んだ。イオストラの願いは誕生を拒絶するように胸にしがみついていた。そのくせ一瞬ごとにどんどん膨れ上がって、口からはみ出そうとするのだ。

 何も言えずにいると、エルムの顔が視界から消えた。

 話は終わりと言わんばかりに立ち上がったエルムは、ぶらりとテーブルに近付いて、おやつに用意されたミートパイを勝手に口に運ぶ。


 ――お母様と食べるつもりだったのに!


 イオストラは涙の浮かんだ目でエルムを睨み、願いを叫んだ。


「お母さまを生き返らせてください!」

「ほえ?」


 エルムがとぼけた声を上げて振り返った。藤色の目に、凶悪なまでの決意を漲らせた幼子の顔が映っていた。

 さくり、さくり。ミートパイを咀嚼そしゃくする音が、周囲の無音をイオストラに伝える。

 エルムがミートパイを嚥下えんげし、唇を一舐めするまでの時間が、イオストラの小さな体に異様に重く伸し掛かる。


「届かぬものに手を伸ばすのは人のごうというものか。ああ、愚かだな……」


 エルムは静かに微笑んだ。


「解った。君が望むならそうしよう。」


 イオストラの全身を冷たいものが這い回った。どこからともなく緑色の輝きが沁み出して、部屋を薄く照らした。


「さあ、願いの成就をその目でしかと見るがいい。」


 エルムが高く指を鳴らした。その瞬間、光が弾けた。目の潰れるような緑光りょっこうの輝きがより合わさり、部屋の中心に収束してゆく。イオストラの胸の内で甘い期待と胸の悪くなるような不安が混じり合う。

 光はやがて収まり、部屋は再び落ち着いた明るさを取り戻す。それに合わせるように、おぞましい臭気がイオストラを襲った。イオストラは咄嗟に鼻を押さえた。


 腐った肉の塊が、カーペットの上を這いまわっていた。べったりとした黒髪を伝って、とろけた皮膚の欠片が落ちる。


「な……なあ?」


 イオストラは言葉にならない声を上げて立ち尽くした。


「どうしたんだい? 君が望んだオカアサンだよ?」


 いつも通りのエルムの笑顔が、腐った肉の向こうからイオストラを見つめていた。


「ヴェアアァア、ウアアェエア」


 腐肉は異様な声を発した。とろけた声帯とちぎれた舌は人間の声を生まなかった。


「ち、違う……! こんなの違う! お、お母さまじゃない!」


 イオストラは金切り声で目の前のものを否定する。


 ――死んだ恋人を追い求めた女科学者は、最終的に恋人を復活させることに成功する。だが蘇った恋人は狂っていた。彼女は変容した恋人を追って旅をして、その果てに恋人を手にかけた。

 多くの派生作品を生み出し、現在では一つのテンプレートになっている悲恋譚。

 その結末を、イオストラは知らなかった。


「おや、せっかく作ったのに、気に入ってはいただけなかったか。」


 エルムはとても楽しそうだった。温かく見えていた笑顔が、今はただ恐ろしかった。


「ヴェウウ、ヴァウウ!」


 朽ちた手がイオストラに伸びる。腐った臭いが迫ってきた。


「やだあ! た、助けて!」

「助けて、というと? 殺していいのかな? オカアサンだよ?」


 イオストラは早く浅い口呼吸を繰り返す。肋骨が膨らむ度に胸の悪くなるような空気が口の中に流れ込み、口腔粘膜からイオストラの嗅覚を侵した。ぼろぼろと涙が零れ落ちる。背中が机に当たった。空になったミートパイの皿が、高い音を立てて床に落ちる。


「イオストラ?」


 窺うような声と共に、部屋のドアが開いた。汚れ切った空気に、一筋の清涼さが流れ込んで来た。部屋に入り込む光を背負って、サファルが立ち尽くしていた。


「おや、見られてしまったか。」


 エルムが呟いた。サファルは恐怖の視線をエルムに向け、即座に踵を返して逃げ出した。


「まあいいか。記憶なんていくらでもいじれる。」


 エルムはごく気楽に言った。イオストラは机に背を預けたままへたり込んだ。腐った臭いが強くなった。空の眼窩がんかの奥にわだかま深淵しんえんが、イオストラを見据えている。溶けた肉が涙のようにただれた頬を伝った。イオストラは震える手をそれに伸ばした。


 軍靴ぐんかの音が響く。エルムが光となって消えた瞬間、開いた扉の向こうから物々しい警備兵が飛び込んで来た。彼らの後ろにサファルが立っていた。


「な、何だこれはっ?」

「魔物、なのか?」

「イオストラ様、こちらに!」


 警備兵がイオストラを部屋から連れ出した。崩れてゆく手がイオストラを追うように伸ばされる。苦渋の末に、イオストラはその手を振り払った。


「この、どこから入り込んだんだ!」


 警備兵の怒声と、朽ちた喉が絞り出した悲鳴がイオストラの耳に届く。イオストラは警備兵に促されるまま、ふらふらと廊下を歩いた。


「汚ねえな、掃除が大変だ。」

「臭いが取れんぞ……」

「おい、バケツ持ってこい!」


 熱くなった目から、涙が零れた。棺桶に納まった母の美しい姿がまぶたの裏にちらついた。イオストラの願いはあの美しいものを穢した……。大粒の涙が顔を伝って流れてゆく。震える喉から零れる声を、唇を噛んで抑え込む。


「泣くなよ……」


 困ったような声がした。サファルの青い目が、肩越しにイオストラを見つめていた。いつの間にか、イオストラはサファルに手を引かれていた。


「もう何にも怖いものはいないから、泣くな……」


 少しだけ頬を赤らめてそう言うと、サファルはぷいと前を向いた。ますます涙が勢いを増した。叫び出したい気持ちは、もはや抑えようがなかった。


「うわあああん! お母さまああああ!」


 イオストラは恥も外聞もなく泣きじゃくった。サファルは彼女の手を引いてずんずん歩く。何も言わず、振り返りもしなかった。



 *****



 心に溜まっていた涙はすっかり流れ出してしまったらしい。ひとしきり泣くと妙にすっきりとした気分になった。何も感じない、空っぽな気分。新しく宛がわれた部屋の窓から、イオストラはぼんやりと空を眺めていた。


「ああなるって、解ってたの……?」


 イオストラは視線を空に向けたまま、ぽつりと尋ねた。


「古今東西、死者の復活を求めた者の行き着く先は決まっているのだよ。」


 ゆらりと空間に現れて、あざけるようにエルムは言った。


「どうして教えてくれなかったの……?」

「教えろと言われれば教えたとも。だが君は尋ねなかった。君の思慮の浅さと自助努力の欠如。その結果さ。」

「嘘吐き。役立たず。どんな願いも叶えるって、言ったくせに!」


 イオストラは膝を抱えて呟いた。膝小僧に吐息が落ちる。


「嘘なんて吐いていないとも。君の望みは、確かに実現したじゃあないか。」

「あんなこと望んでなかった……!」


 膝の間に顔を埋めて、イオストラは叫んだ。心の底からの望みを、彼は叶えてくれなかった。思い通りになったものは、何ひとつとして胸を満たさなかった。


(思い通りになったもの……?)


 イオストラは未だ温もりの名残を宿す手のひらに視線を注ぐ。


 サファルはとても優しい。だが、彼はイオストラに対して、恐ろしく攻撃的だったはずだ。

 アンビシオンの皆もイオストラに優しい。だが、初めからそうだったか?

 皆がイオストラに優しくなった時、イオストラは気楽にこう思った。エルムが願いを叶えてくれたのだ、と。

 それが何を意味するのかを考えもせず……。


「……エルム。ねえ、エルム! 今の皆は、本当の皆なの?」


 すがるような気持ちでイオストラはエルムに問うた。エルムは一瞬の無表情を挟んだ後に、意味深長な笑みを浮かべた。虹色の目が酷薄な光を宿す。


 女給たちが噂話を交わす声。警備兵たちのぼやき。趣味のように陰謀を巡らせる官吏たち。温かな手。何もかもが唐突にぼやけ、偽物の輪郭を帯びる。


 自分の手に届かない願いは、自分の制御下に納まらない。苦しいほどの後悔と罪悪感が、空っぽな心を緩やかに満たす。


「……悪魔。」


 イオストラは乾いた声で呟いた。


「俺はただ願いを叶えただけだがね。」


 エルムは穏やかに応じた。


「さて、イオストラ。愚かな君が次に俺に願うものは、一体何かな?」


 イオストラは答えられなかった。頭蓋の中には何もない。

 エルムは柔らかな笑みを浮かべて彼女の沈黙に寄り添っていた。


 願いを見失ったまま、彼女は歩き始める。

 その傍らには、白の魔法使いが佇んでいる。 

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