45.万能の力を持ちながら、それを操る意思を持てぬ無能な神

 イオストラの脳は法王の言葉をなかなか受け入れようとしなかった。理解との衝突を繰り返す言葉をこねくり回して捻り出したのは、あまりにも陳腐な言葉だった。


「つまり、白の魔法使いとは……神だということなのか?」

「ああ、あの方は神だ。ただし聖教会が崇める創世神ではない。彼もまた被造物。他の被造物とは一線を画するものの、神としての格は極めて低い。」

「聖教会の奉ずる神はただ一柱と思っていたが?」

「信仰の対象が分散すると管理が面倒なのでね。」


 法王は億劫そうな溜息を吐いて、またも聖職者とは思えぬ言葉を吐いた。


「創世神は現代にセプテムベールと御名みなを残しておられるが、神代においては同格の神々が無数に存在したという。被造神は創世神がお創りになられた世界を管理運営するお役目を持つ存在。他の被造物と同じく、意味があって初めて生み出された存在よ。しかも白の魔法使いは半ば人の身として生まれた後に先代の被造神から御座を受け継いだもの。純然たる神ではない。……それだけに力不足が目立つ。」

「確かに普通のヒルドヴィズルとそれほど違わないように思うが……」

「それは彼が本来の力を出せていないためだが……」


 呆れたように法王は言った。


「それは……封珠ふうじゅに封じられているから?」

「封珠は確かに彼の本来の力を押さえているが、彼があなたの期待に沿った力を振るわないのはそのせいではない。海洋王国を海に沈めた時も、デセルティコ平原を砂漠に変えた時も、聖小国乱立時代に兵器として国々を滅ぼして回った時も、彼は同じく封じられていた。期待できる出力は今の方が大きいほどだ。……そもそも彼は封じられていないと力を振るうことができない。」

「どういうことだ?」


 イオストラは首を傾げた。法王は少し考えるように視線を動かした後、慎重に口を開いた。


「詫びの後に訂正させていただこう。河のモデルで彼を水に例えたが、あれは正確とは言い難かった。……そうだな。この河が塩水であったとしよう。その場合、塩が彼だと思えばいい。塩の魔法使いだ。」

「し、塩の魔法使い……」


 思わず復唱したイオストラに、法王はうっすら笑って頷いた。


「水の量に関わらず、塩の量は一定だ。つまり、全体の水量が少なければ塩分は濃くなり、水量が増えれば薄くなる。今の時代、河は豊かな水を湛えていて、舐めても何の味もしない。白の魔法使いは夢の中。万能の力を持ちながら、それを操る意思を持てぬ無能な神だ。」


 世界の全てを知り、世界の全てを操り、しかし決して自身の意思を持たない。それが白の魔法使い本来の姿。


「塩味を濃くするには塩分だけを抽出すれば良い。封珠とはつまり、河に含まれる塩を凝縮した濃塩水を湛えた水槽だ。この状態になって初めて、彼は力を振るうことができる。封じられた上での話だがね。」


 もしも封珠が壊れれば、白の魔法使いの意識は再び巨大な河の中に溶けて消えるだろう。心も記憶も全て無限大に希釈され、零の如き無限の存在へと回帰する。


「封珠による白の魔法使い召喚の技術が確立されたのは聖小国乱立時代でね。各国はそれぞれに白の魔法使いの意識の欠片を拾い集め、個別に召喚して兵器として用いた。召喚された白の魔法使いの意識はやはり希薄なもので、主の意に沿う操り人形に限りなく近い。それが指の一振りで山を消し飛ばし、瞬き一つで島国を海に沈める。当初は聖教会も随分と苦しめられたものだ。だから強力な白の魔法使いの召喚を防ぐために、彼の欠片の過半を手元に置くことにした。」


 法王は静かに手を握る。何かを掴もうとするように。


「先代の封珠に宿った白の魔法使いは私と共に神聖帝国を形成し、育て上げた。そして今では西方師団と呼ばれるヒルドヴィズル集団を引き連れて西方教会を作り、百五十年に亘って神聖帝国の敵として立ちはだかり、砕け散った。それが五十年前の話だ。」


 西方師団を率いた名もなき白の魔法使いの存在はそこで終わり、意識は大いなる流れに溶ける。


「そして再び白の魔法使いの過半を集めて私が作った封珠が、巡り巡ってあなたの手に渡ったというわけだ。」


 服の胸元にしわが寄る。イオストラの手が強く掴んだせいだった。指先が冷たくなっていた。


「そ、それほどまでの力を持っているとは、とても……」


 気が付けばイオストラは法王の言葉を否定する材料を探していた。カレンタルの命を救った代償に力に大きな制限が付いたし、テルセラとフルミナとデスガラルの連携には苦しめられた。撃たれて行動不能にもなった。戦闘力は明確にラタム以下だった。


――何故こんなにも、法王の話を否定したいと思うのだろう?


「あいつの力が期待に満たぬならばそれは君の問題だぞ、イオストラ。」


 唐突にティエラが口を挟んだ。法王は素気なく頷いた。


「封珠を作るのは非常に難しいことでね。白の魔法使いの意識を集めれば集めるほど、それ以外の根源ノ力も混入してしまう。封珠で囲ったところで白の魔法使いの意識はそれほどはっきりとしたものにはならないのだ。不足分を埋めるものがあって初めて、白の魔法使いはその力を振るうだけの意識を得ることができる。そしてエルムはあなたの願いによって定義付けられた白の魔法使いだ。」

「意味が……解らない……」


 震える声でイオストラは呟いた。法王がにたりと歪んだ笑みを浮かべる。


「エルムは形成されて以来、徹頭徹尾、あなたの願いに従っている。あなたは公平さを重んじるが故に正面から挑む者を絶対の力でねじ伏せることを好まない。理不尽には理不尽をもって応じようとするが、自分の側から相手に理不尽を突き付けることはできないのだ。……あなたの性分が、白の魔法使いの力を大きく制限している。」


――その言い分は、いかにも理不尽だ。イオストラ皇女。


 ティエラの言葉が甦る。イオストラは一歩、後ずさる。


 相手を理不尽に捻じ伏せることを好まない。耳に心地よい清廉な人物像だ。イオストラは自分に理解できない不思議な力による解決策を常に拒んで来た。


「あなたを信じて付いて行った兵たちが蹂躙じゅうりんされようと、あなたを待つ仲間たちを不安がらせようと、あなたを助けた青年の命が危うくなろうと、白の魔法使いは真の力を解放しようとはしなかった。あなたの意地は、人命よりも尊いのであろうな。」


 不思議な力で解決できることを知っていて、イオストラはそれを選ばなかった。


「あなたは実に強固な美学をお持ちだ。死に際してまでそれを保つことは、さすがに難しかったようだが……」


 カレンタルを救った時には目に見えて衰弱したエルムが、イオストラを救っても平然としている。それはどういうことなのだろう。


「白の魔法使いを従えるということはね、自分の剥き出しの欲望と向き合うことだ。」


 結論に至るのを嫌がる意識に、法王の声が滑り込む。


「……私の傷を癒したのは……」

「死にたくないと望むのは当然のことだ。」

「……じゃあ、ライフィスを殺したのは――」

「自分を殺した相手に強い憎しみを向けるのもまた、当然のことだ。」


 果たしてイオストラはライフィスの死を望んだのだろうか。敵として殺す覚悟はあったつもりだ。それでも死を望んだつもりはなかった。しかし事実として、エルムはライフィスを殺した……。


「かつて白の魔法使いの主となった者のほとんどは白の魔法使いの手で殺されている。忌憚きたんなく叶えられる己の願いの醜悪なことに耐えきれず、誰もがやがては自罰を望む。」


 法王はライフィスの屍に目を落とす。


「今のあなたには、理解できない話ではなかろう?」

「エルムが……私の願いを具現化した存在だと……!」

「その通りだ。エルムは白の魔法使いの力とあなたの望みの仲介者にすぎぬ――」


「あまりにも言葉が過ぎるのではないか?」


 ティエラの声が法王の言葉を遮って響いた。


「何もかも鵜呑みにするな、イオストラ。その男の言葉は虚実が入り乱れて絡まっている。人を助けた後のエルムの衰弱度合いの違いなど、救護対象者の重症度に相関したものに過ぎない。ライフィスを殺したのも君ではなくエルムの意識が働いてのことだ。あいつにも自我はあるのだから。」


 見れば、ティエラの横顔にはくっきりと嫌悪の色が浮かび上がっていた。


「エルムの意思、ね。それはあなたの願望では? 仮に今の封珠が壊れた後に別の主に召喚され、新しい主がそうと望んだなら、白の魔法使いは平然とイオストラ殿下を殺すでしょう。あれは主によって何色にでも染まる。」


――今は邪魔なんだ。


 いつだったか、エルムは確かにそう言った。自分もいつかは捨てられるのだろうと、あの時イオストラは確かに思った。前の白の魔法使いの頃に結んだ縁を覚えていてもエルムはイオストラの味方だった。イオストラの望みを映す鏡のような存在だから……。


「白の魔法使いの起こす理不尽は、全てあなたの意思に基づいて起きたものだ、イオストラ皇女。」


 法王はゆっくりとイオストラに歩み寄る。イオストラはまた後退あとじさった。


「欲望とは能動的に叶えるものだ。それを己は為せるのか? それを神は許すのか? 行動は理論と理性とに抑制される。為そうという意思とそれを為す能力と為す許可があって初めて、欲望は叶う。これほどの壁を越えてなお、人は欲望に流され過ちを犯す。この上白の魔法使いの主となればどうなる? あれは万能の力を以て主の欲望を自動的に叶える装置だ。主は欲望を押さえるためにこそ能動的にならねばならぬ。そうでなければ欲望は無限に成就されるからだ。やがてあなたは自分の欲望に押しつぶされて死ぬのだ。」


 法王はさらに距離を縮めて来る。イオストラは中途半端に体重を後ろにかけた状態で立ち尽くしていた。


「あれは人間に扱えるものではない。白の魔法使いを手放しなさい。そうしたら世界の半分はあなたにあげよう。」


 耳元で囁かれた言葉は、ねっとりと脳をくすぐる。


「……どういう意味だ?」


 イオストラの声は自分でもそうと解るほど生気に欠けていた。


「鈍いな。あなたが最も欲しているものを差し上げようと言っているのだ。白の魔法使いを手放したなら、神聖帝国の玉座はあなたのものだ。聖教会は神聖帝国から手を引こう。」


 イオストラは目を閉じてこめかみを押さえた。情報と感情の渦で頭がぐちゃぐちゃになっている。


「意味が解らない……」

「あなたにとっては悪い話ではなかろう?」

「そちらにとってはどういう話になる?」

「余計な犠牲を払わずに負けられる、というところか。」


 法王は滞りなく答えた。


「エルムの封珠は強力だ。あなたが本気で彼に命じれば、聖教会を追放するなどわけない。だがこちらにも白の魔法使いを討伐できるヒルドヴィズルが数騎いる。このままぶつかったなら、私は聖教会の地盤を失い逃れざるを得なくなり、あなたの手には砕けた封珠と荒廃した国土と、泥と血にまみれた玉座が残るだろう。誰一人として得をしない。ならば互いに損を最低限にしようではないかという提案だ。」

「国を追われることが聖教会にとって最低限か?」


 腑に落ちない。頭の働きがひどく鈍っていて考えることができない。聖教会は神聖帝国での権力を維持するために暗躍してきたではないか。それが易々と帝国を手放すというのか。


「胡散臭い……。仮に私がエルムを手放したなら、途端にお前たちは牙を剥くに決まっている。」

「受け入れてくれたならば私とあなたの間に誓約を結ぶことがエルムの最後の仕事になるだろう。決して破ることのできない誓いだ。あなたは封珠を手放し、私は聖教会と共に神聖帝国を離れ、二年間は決して手を出さない、と。」

「エルムに?」


 意外な言葉だった。法王はエルムに知らせぬように取引を行うつもりだろうと思っていた。


「彼に知らせぬようにことを進めると思っていたかな? エルムはあなたのためだけに存在する白の魔法使いだ。あなたが本心から死を願えば死ぬ。隠れて交渉する必要はないのさ。」


 法王は大きく手を広げて見せた。隠し事はないとでも言うようだった。


「急ぐつもりもない。明日、あなたの呼び寄せた兵士たちがこの街に到着する前に返事を聞かせてくれたまえ。それまで私はこの教会に滞在する。……良い答えを期待しているよ。」


 法王が指を鳴らすと、大聖堂の扉が外から開いた。法王はイオストラに古びた紙を一枚差し出した。細かな装飾の施された分厚い紙には、法王が口にした通りの誓約文が書き込まれていた。


*~~~~~*

イオストラ・ミュトラウス・レイカディアは白の魔法使いエルムとの契約を破棄し、彼に根源ノ渦への帰還を命ずる。さすれば法王ラプテ・ブレーザーはイオストラ・ミュトラウス・レイカディアを神聖帝国唯一皇帝と認め、法王が持つ聖教会の権限を新帝に譲り国外へと退去し、二年間は一切の干渉を行わぬものとする。

*~~~~~*

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る