31. 角砂糖一つ
カテドラルの皇宮のさらに奥には、皇族のプライベート空間――いわゆる後宮が広がっている。
緑に満ちた広大な庭園は年中花に満たされて、甘やかな匂いが漂っていた。
敷地内には皇族の住う宮が点在している。宮の外は全て皇族共有の敷地だが、宮からの眺めを主人の好みに合わせるべく振るわれる庭師たちの奮闘が景観に
庭園を網の目状に走る複数のせせらぎが注ぐ中央の蓮池のほとりには上品なクロスを懸けられた小さなテーブルが設置され、高級なティーセットが広げられていた。
「やあ、セレナ。君にものんびりとお茶を飲む日があるのだね。」
声をかけると、セレナは怜悧な笑みを浮かべて振り返った。
「どれほど忙しくとも、ここでのティータイムは厳守することにしておりますの。ツァンラート様が昼の後宮においでなのも、珍しゅうございますね。」
言って、セレナはツァンラートに椅子を勧める。いずれ今上帝の後を継ぐツァンラートと、その補佐に就くセレナ。現在は父の治世を支える優秀な
そう、異母兄妹。ツァンラートはセレナにとって兄なのだ。だがセレナがツァンラートを兄と呼んだことはない。
「君には負担をかけて申し訳ないと思っているよ。イオストラの一件が片付くまで、もうしばらくバタバタすると思う。職務も溜まっているだろう?」
「ええ、お恥ずかしいことですわ。」
セレナはゆるりと口端を吊り上げた。柔らかく縮れた金髪が風に揺れ、甘い香りをツァンラートの鼻腔に送る。
「よければいくらかこちらで引き受けようか?」
「あら、お気遣いありがとうございます。でも結構ですわ。自力で何とかいたします。」
湯気を立てる琥珀色の液体に、セレナは角砂糖を落とす。一つ、二つ、三つ、四つ……。砂糖の飽和した紅茶をかき混ぜてミルクを注ぐと、白い液体が煙のように広がった。妹の健康を案ずる言葉を、ツァンラートはなんとか呑み込んだ。
「君らしくもないミスも目立っているよね。デセルティコ・アンビシオン間の船舶往来禁止令の処理を忘れるなんて……」
「その件はご迷惑をおかけしました。新参の事務が書類を紛失してそのままタスクから外れていたようでしてね。ツァンラート様にご指摘いただけなければそのままだったかもしれません。」
「イオストラも運がないね。放置されていれば逃げ切れたかもしれないのに。」
「……ええ。処理された以上、ぎりぎりで間に合わないでしょうねぇ。」
セレナの溜め息が紅茶の液面を揺らした。ツァンラートの前に紅茶が差し出される。
「さすがに君の過負荷をこのままにしておくのは気が咎めるな……。人材を貸し出そうか。」
セレナはしばし黙考した。ツァンラートは無粋なほどつぶさに彼女を観察する。視線の動き、瞬きの回数、呼吸のリズム。それらは彼女の内心とは全く離れた場所で動いているようだった。やがて彼女はゆっくりと首を傾けて、ツァンラートに微笑みかけた。
「そうですね……。ツァンラート様にも現状はご負担が大きいこととは思いますけれど、もしも余った人材がおりましたら二人ほどお貸しいただけますか?」
ツァンラートの負担と自身の負担。借りられる人数とさせたい仕事。まるでそれらを考えていたかのような物言いだった。だが実際は何を考えていたのか……。
「一つ、聞いてもいいかな?」
ツァンラートは僅かに身を乗り出した。紅茶から立ち上る湯気が顎を温める。
「ツァンラート様らしからぬ愚問ですこと。不都合な質問をされたなら相応の対応をするだけですのに。」
「……どうしてライフィスを鎮圧軍の司令官に推挙したんだい?」
からかうようなセレナの答えを流して、ツァンラートは静かに問うた。セレナはあら、と首を傾げた。
「間違っていたとお思いですか? 順当な人選だと思いますわ。私やツァンラート様が出撃するわけにはまいりませんもの。」
「間違っていたと言わざるを得ないんじゃないのかな。」
「あら、そうでしょうか? 反乱軍は潰走いたしましたし、よろしいのでは?」
「結果的には、ね。だがヴァルハラが開門しなければ潰走していたのは我が軍だっただろう。」
ヴァルハラの開門は皇帝の思惑とは無関係に起きたことである。反乱軍の進撃を阻むことができたのは偶然に等しい。
「……ライフィス様は有能とは言えないお方。」
歌うように優しく、セレナは残酷な事実を告げる。
「けれどお生まれ故に、次期皇帝の候補であられます。イオストラ様以上に強力な、ツァンラート様のライバルです。勿論、ツァンラート様は歯牙にもかけておられないでしょうけれど。」
「セレナ、あまり弟に酷いことを言うものじゃないよ。」
ツァンラートが
「ツァンラート様がいらっしゃるために、ライフィス様の能力に関してはこれまで議論の
「すると君は、レムレス平野の戦いは負けても良いと思っていたのかな?」
「ええ、そこまでは譲っても良かろうと思っていましたよ。ツァンラート様とライフィス様の後継争いを未然に防ぐためですから。兄弟同士の争いなど、見たくありませんもの。」
「
セレナはふわりと肩を竦めた。ツァンラートは出された紅茶を傾けて、目を白黒させた。ぬったりとした甘みが喉にこびりつく。
「これは、甘すぎるな。元の風味が台無しだよ。」
「元などどうでも良いのです。私が私の好みに合わせて整えますから。」
「……そうかい。」
ツァンラートは紅茶色の飽和砂糖液を眺めた。甘くもなければ温かくもない男の顔が、液面で静かに揺れていた。
「僕はね、セレナ。できれば弟とも従妹とも争いたくないと思っているよ。勿論、妹とも。」
「道理ですわね。争わなければ玉座はツァンラート様のものでしょうから。」
「それは僕が玉座に相応しい人間だからだろうね。」
ツァンラートはさらりと笑った。セレナは表情を変えなかった。
「ええ、私もそう思いますわ。ツァンラート様に導かれる神聖帝国の未来は、とても明瞭です。明瞭、故に明確……」
「……なるほどね。よく解ったよ。」
席を立つツァンラートに、セレナは何の反応も示さなかった。
「悲しいよ、セレナ……」
ツァンラートが言葉通りの表情を作ると、朱に塗られた唇がゆっくりと笑みの形を作った。ツァンラートは諦念を吐息に乗せて甘ったるい紅茶に零すと踵を返した。
その表情は、既に冷酷な為政者のものだった。
*****
ティーカップに付着した紅を指でなぞって、セレナは物憂げに息を吐く。
「どうやらバレているようですわね。」
「あなたの背信に気付けるのは、流石ご兄妹というところでしょうか。」
その声はテーブルの下から聞こえた。セレナは溜息を吐くと、テーブルクロスに隠れているのをいいことにはしたなく足を組んだ。小さなテーブルの下にいるはずの何者かに足は触れなかった。
「それではまるで、私とツァンラート様が仲の良い兄妹のようではありませんか。私は彼のことも他の皇子皇女殿下のことも、兄とも妹とも弟とも思ったことはなくってよ。」
「それは随分と冷たいですね。」
「そうかしら? 私は随分とマシだと思うけれど。ツァンラート様は妹と思っても容赦しないわ。」
「セレナ様が欠ければあらゆる業務が滞ります。ツァンラート様はそれをよくご存知では?」
「そうね。間違いないわ。」
現在の国政はセレナへの属人化が著しい。この状態でセレナを排除しようものなら帝国は大混乱に陥るだろう。ツァンラートはまずセレナの任を一つずつ剥ぎ取らざるを得ないし、当然それを黙認するセレナではない。
「しかし、こうなると行政処理を意図的に遅延させる手は使えませんね。過負荷の解消という名目で仕事をとられては困ります。」
「お逃げになった方が良いのでは?」
テーブルの下の声に心配そうな気配が滲んだ。セレナはあら、と首を傾げる。
「ツァンラート様は有能なお方。あなたを早期に取り除く必要があるとなれば、禁じ手に訴えることもございましょう。聖教会ならば、あなたを排して何ら混乱を起こさぬことも可能です。」
「心配性ですね、あなたは。」
「臆病なのですよ。」
セレナが控えた言葉を、テーブルの下の声はきっぱりと言い切った。自嘲の気配はない。
「あなた様が業務を放り出して逃げ出せば、中央はこれ以上なく混乱します。御身の安全を確保しつつ彼女を支援する、これが最上の方法と思いますが。」
「あなたも解っているでしょう。私の役割はこの内乱に彼女を勝たせることではないの。内乱に勝った彼女の治世が円滑に始まるように体制を整えておくことです。」
内乱に敗れて散るようなことになればお話にならないので止むを得ず支援しているだけなのである。
「全く、内乱などなんと非効率的なことを……。北からの視線が、最近ますます熱いと言うのに。」
第一大陸を東西南北に四分する中央連峰の北にある国、カンビアル。雪と氷に閉ざされたこの国は神聖帝国との戦争に敗れて以降沈黙を決め込んでいたが、最近になって再び活性化しつつある。
資源も実りも薄い氷の大地だ。戦ったところで手に入るものなどないのだから、かの国との戦争は避けて通りたい。この時期の内乱は正に悪手。失望を隠し切るのは難しかった。
「半端に優秀な者は扱いにくいわ。ライフィスを傀儡にした方がマシだったかしら……?」
「あの方は確かに扱いやすいですね。百回に一回程度それらしい
「……乗り換えるのも悪くはありませんね。」
呟いた時、セレナは視界の隅でちらちらと動くものを見つけた。蝶が舞っている。見ない種類だ。ひらひらと近づいてきた蝶をテーブルの下から伸びた手が素早く掴んだ。本当にそこにいたのか、とセレナは些か意外に思った。
「セレナ様……」
戸惑ったような声が、クロスの下から漏れ出した。
「どうしました? 良くないお知らせ?」
あの蝶はヒルドヴィズルが連絡用に用いる折り紙だったのだ、とセレナは当たりを付けた。
「ええ……。ライフィス皇子がデセルティコを占拠したそうです。」
セレナは一時脳を凍結させた。数秒かけて再起動してなお、彼女は激しく混乱していた。
「え? なんで?」
およそ疑問という疑問は自己の内側で解いてしまう彼女が、らしくもない声を上げた。
「さ、さあ?」
テーブルの下でも戸惑いが広がっていた。
「……すぐにライフィス様のところへ。」
「し、しかし……今御身の傍を離れるわけには……!」
混乱の余り脳は際限なく回転し、未来へ未来へと思考を勧めようとする。セレナは懸命に自分の脳を現在に繋ぎ留めて考えをまとめた。
「彼女への支援を中止すれば当面の危険はありません。ツァンラート様も、この状況では私を利用せざるを得ませんし、何より……私たちは仲の良い兄妹ですから。」
「そ、そうでしたか?」
セレナはクスッと笑ってカップの中身を飲み干す。落ち着いたふりをしたことで、内心も落ち着きを取り戻す。
「デセルティコにはイオストラ様もいらっしゃるはずですが……そちらはどういたしますか?」
「必ずお守りしなさい。」
「処分しなくて良いのですね?」
確認するようにテーブルの下の声が言う。
「処分? 何を言っているのです。神聖帝国を導く唯一無二のお方ですよ。忠誠心を正しくお持ちなさい。」
「あ、はい。畏まりました。ですが、私の忠誠心はあなただけのものですよ。」
「ならば本名くらい教えなさい。」
笑ったような吐息が漏れて、テーブルの下から気配が消えた。セレナはテーブルクロスをめくって中に誰もいないことを確かめると、全身から力を抜いた。
「この国を導くに足る人材は、やはりイオストラ様しかいないようですね。はぁ。」
溜息一つ落として、セレナは角砂糖一つ、口の中に投げ入れた。
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