第六章 交易都市攻防戦

32. 成長には問題が必要なんだよ

 聖教会が支配する聖域ヴァルハラは、神聖帝国の地図には載っていない。法王の張る強烈な結界によって外界から隔絶されたその街への入り口は、転移の創世式のみである。


 白く美しく、そして冷たい街だった。ここで生まれ育った人々は街によく似て、整然として冷たい。

 純白の特殊建材で舗装された街を行く人々の外見は千差万別なのに、皆同じ服を着て、同じ速度である同じ経路を同じ間隔で歩き、一様に無言だった。

 彼らと異なる歩みをするものを、彼らは気に留めない。ただ外界人げかいじんとして区別するだけだった。


 地面を這って何かを探す女を目にしても、彼らは清涼なる無関心を貫いた。だが外界人であるシスルにはそれを無視するのは難しかった。


「テルセラ様……? どうなさったのですか?」


 声をかけられたテルセラは、今にも泣き出しそうな青い目をシスルに向けた。


「落としたの!」


 唐突にしがみつかれて、シスルは目を白黒させた。


「な、何を?」

「これくらいの大きさの、割れて欠けた透明な玉! 見なかった?」


 人差し指と親指とで作った円をシスルに示して、テルセラは目を潤ませる。


「とても大切なものなの。一緒に探して! 何でもしてあげるから!」


 シスルは不快感に顔を歪ませた。テルセラは不思議そうにシスルを見る。


「仮にも四幹部の一人がそのようなことを仰るのは慎むべきでは? 私が不当な地位を望んだらどうなさるのです?」

「あら、今以上にラタムの近くにいられる地位なんてないわよ。」


 目を瞬かせること、数回。羞恥とも抗議とも判らぬ奇声を上げて、シスルは身を引いた。テルセラはシスルを放さなかった。


「お願いだから手伝ってよ! じゃないと私の部下にしちゃうわよ! あなたって結構支援兵科に向いてるし!」

「脅しのつもりか、勧誘か、どちらなのです?」

「手伝いなさいよ! これは言うなればあなたがラタムの形見の呪いの鎌をドブに落として探しているような状況なのよ。助けてあげたいと思うのが人間でしょう?」

「あんな不気味な鎌は要らない! それと、ラタムを勝手に殺さないでいただきたい! 大体、私はラタムの形見をドブに落としたりしない! そもそも我々は人間じゃないでしょう!」


 テルセラは頬を膨らませてシスルをにらむ。シスルはひとつ息を吐いて肩の力を抜いた。彼女の言動に苦言を呈しはしたものの、助力を断る意図はなかったのである。


「わかりました。この辺りに落ちているのですか?」

「どうだろう。今日は結構走り回ったからなあ。」


 テルセラは首を傾げて虚空を見つめ、この日の行動履歴を列挙する。それを聞いて、シスルは頭痛を覚えた。


「ヴァルハラ全域を探索せよと?」

「だから手伝ってって言ってるんじゃない! 待って、逃げないでぇ!」


 シスルは逃亡に失敗した。


 さんざんカテドラルを探して回った末に、探し物を発見したのはシスルでもテルでもなく、通りすがりのヒルドヴィズル、ルイだった。


「こんな大事なものを落とすんじゃない!」


 厳しい声でそう言いつつ、ルイはテルの頭を乱暴に撫で回して去って行った。割れた硝子玉のようなものを両手で包み持って、テルは全身の力を抜いた。


「良かった……。本当に良かったあ!」


 その玉は、シスルの目にはそれほど貴重なものには見えなかった。


「大切な人の形見なの。」


 シスルの怪訝そうな視線を受けて、テルはその玉を差し出して見せた。


「大切な人?」

「そう、大切な人。今はもう、ここにはいないけど……」


 テルは懐かしむような微笑を玉に注ぐ。


「ヒルドヴィズルの恋……。あなたは、おかしいなんて言わないわよね?」

「誰かにおかしいと言われたのですか?」

「そう考えるヒルドヴィズルは結構多いわよ。」


 テルは天を指した指をくるくると回す。


「ヒルドヴィズル……。固定された生命。永遠を生き、そして何も残さない。私たちに生殖能力はないの。知ってるでしょう?」

「……はい。」


 シスルは目を伏せて頷いた。


「恋は生殖による世代交代を必要とする不完全な生き物の名残。半端者の証。そう思う奴、多いみたい。」

「ラタム、も?」

「そうね。」


 シスルの胸が静かな痛みを訴える。シスルの表情の変化を見たテルが、慌てたように言葉を付け足す。


「ほら、あいつヒルドヴィズルになるためだけに育てられた、純粋培養のヒルドヴィズルだからさ。価値観が人間的じゃないの。べ、別に否定しているとかではなくてね? 他人事なのよね! あ、でもでも、あなたが来てからのあいつ、かなり柔らかくなったような気がする。少しは人間的な感性を身に付けたんじゃないかしら? あいつって基本的に優秀なんだけど、時々問題を起こすのよね。ほら、立場的に人間とやり取りすることも多いじゃない。あなたなら補佐できるんじゃないかしら? 最近まで人間だったんだし……。あ、これはラタムがあなたの能力目当てにあなたを引き込んだという話ではなくって。あ、だからと言って下心があってあなたをスカウトしたとか、そんなのでもなくって――っ!」

「あの人が私を異性として意識していないのは解っています。」


 暗い声でシスルは言った。テルは困ったように視線を泳がせる。


(だからせめて仲間としてあの人を支えたい……)


 シスルがその言葉を口にしなかったので、テルはいつまでも調子外れの慰めを吐き出し続けていた。



 なんておこがましい考えだったのだろう。

 支えるどころか、邪魔をした。足を引っ張った。



 追憶を離れて目を開くと、不規則な木目がシスルを見下ろしていた。年代を感じる木の天井だった。

 何度か瞬きを繰り返すうちに自分の状況を思い出す。即座に身体強化の式を励起し、飛び起きようとした。体を巡る根源ノ力が盛大に空回りし、シスルはベッドから転げ落ちた。


「……無様だな。」


 心底馬鹿にした声がかかる。音源を睨むと、白の魔法使いの不定色の目がシスルを興味深そうに眺めていた。


「身体強化に任せて逃げ出そうとしたようだが、お前の式は封じてある。今の状態じゃイオストラにも勝てないさ。」


 言われてみれば、へその上あたりに違和感があった。服をめくってみて、シスルは頬をひくつかせる。万人が見れば万人が下手くそと罵るような珍奇ちんきな絵が、そこにはあった。


「なんだ、これは……」


 声が情けなく震えていた。


「だから、お前の身体強化を封印している――」

「この、落書きが?」

「ああ、模様自体はどうでもいいんだ。呪を込めたのはインクの方だからな。」

「では何故こんなバカみたいな絵を描いた!」


 白の魔法使いは意地の悪い笑みを広げる。


「お前がこういう反応をするんじゃないかと思ったからだ。……いつまで腹を出しているつもりだ?」


 シスルは顔を赤らめて腹を隠した。


「……普通は模様の方に意味を持たせるものじゃないのか。」

「それはインクに式を乗せきれない時の手法だな。魔法陣とか、ああいう奴な。創世力以外に図を書く技術が要求されるし、陣を見たら術の系統が丸わかりだし、いいことは一つもない。やらずに済むならやらない方が無難だ。」


 シスルは黙って腹を押さえた。こんなものにヒルドヴィズルの力を押さえるほどの効果があるというのが信じ難かった。


「よくも、こんな……!」

「腹に少しばかり滑稽こっけいな模様ができたからってうるさい奴だな。誰かに見せる予定でもあったのか? ラタムとか。」

「あるわけ、ないだろ。」


 食いしばった歯の間から呻くような声が漏れた。白の魔法使いは悪意の笑みを深める。


「イ、イオストラ殿下はどこに?」


 白の魔法使いがこれ以上口を開く前にと、シスルは話題を転換する。


「街に出てるよ。船が見つかればそのまま出発する手はずさ。俺はお前の見張り。」

「……アンビシオンへは、船で?」

「ああ。イオストラはそのつもりでいるよ。」


 シスルの質問に、白の魔法使いは拍子抜けするほど呆気なく頷いた。シスルは唇を舐める。

 現状は不本意この上ないが、前向きに考えれば、シスルは相手の情報を得る機会を手に入れたのである。

 優位を確信した時、人は良く喋る。加えて、強者故の余裕だろうか。白の魔法使いには情報に対する慎重さがない。あるいはシスルを生かして帰す気がないだけなのかもしれないが。


「アンビシオンまで無事に戻ったとして、その後どうしようと? ヒルドヴィズルに対抗する手段を、イオストラ様は持ち合わせているのか?」

「その心配は要らないな。あの子はただ腹をくくればいい。そうすれば俺が望みを全て叶えてやる。」

「……大言壮語を吐くな。」


 手段もなければ考えもないらしい、とシスルはエルムの言葉を解釈した。あまりの無謀さに頭痛を覚える。白の魔法使いのお遊びと愚かな姫の無為無策むいむさくに巻き込まれて、多くの人が死んでいる。


「私が足を引っ張らなければ、お前はラタムに負けていた。」

「言ってて悲しくならないか? お前こそ、イオストラの慈悲がどれほど自分たちに幸いしているのか、知るべきだと思うが。」

「うるさい、負け惜しみをするな。」


 ラタムが崇拝しテルセラが愛した存在がこの程度か。そう思うと悲しくなった。


「テルセラ様は今でもあなたを愛しているぞ。」

「馬鹿な女だな。」

「ラタムは未だにあなたの指示に従っている!」

「うん、偉い偉い。」

「ルイはあなたに殉じて死んだんだ!」

「ああ、封珠ふうじゅを持ち出したのはあいつだったな。おかげでイオストラと出会えた。感謝している。」

「あなたは皆を無責任に投げ出した!」


 シスルは叫んだ。エルムはピクリとも表情を動かさなかった。


 シスルは知っていた。この高次存在にとって人もヒルドヴィズルもちりに等しく無価値で無意味であると。テルセラの愛もラタムの信仰もルイの犠牲も、何ひとつとしてこの存在を縛りはしないと。

 だが、いざその通りであることを突き付けられると、心穏やかではいられなかった。


「あなたは……リニョンも見捨てた。」

「ああ、そう言えばお前はリニョン王国に忠実な軍の犬だったね。リニョン王国は歴史的な役割を見事に終えた。それだけのことだ。」


 白の魔法使いの言葉には悲しみも苦しみも罪悪感も、何ひとつとして伴ってはいなかった。本当に、なんとも思っていないのだろう。


「あなたの視点ではそうなのだろうな。だが、あの国に生まれ、あの国を愛し、未来を夢見ていた者も大勢いたのだ。」

「それこそ下らんな。社会福祉は神聖帝国が引き継いだだろうが。」

「それで問題が起きなかったとでも言うつもりか!」

「いいや、問題だらけだとも。だが……成長には問題が必要なんだよ、お嬢さん。」


 シスルの背筋を冷たいものが這った。

 上位存在たちがどのような意図を持って神聖帝国を導いて来たのか、シスルはラタムから聞いて知っていた。それなのに、今この時まで白の魔法使いがイオストラに味方する理由を掴めなかった。鈍いとしか言いようがない。


「……神聖帝国の歴史は戦いの歴史……。五十年の平和は、長かったか?」

「ふん、腹に愉快な落書きのあるお馬鹿な小娘かと思えば、それなりに頭が働くじゃないか。」


 腹に絵を描いたのはあんただ、という声がシスルの頭の片隅で持ち上がったが、それを声にする余裕はなかった。


「貴様、イオストラ様を――」

「だが勘は悪いな。俺ではなく北に目を向けてみることだ。」

「……北?」


 シスルが首を傾げた時だった。

 街のどこかで、悲鳴が上がった。



*****



 砂の街デセルティコは砂漠という環境要因に加え、接岸可能な港がもたらす諸文化がひしめき合い、独特な文化を築き上げている。


 もっとも、それを見て回る余裕はイオストラにはなかった。宿屋にシスルとエルムを残して船着き場に急ぐ。

 船が出るまでに時間があるようなら一度宿に戻るし、すぐに出港できるならそのまま乗ってしまう。距離が離れればエルムの顕現が自然と解除されて封珠に戻って来る。宿代は置いてあるから、シスルが出る時に払うだろう。


 砂漠の苦難を共にしたオオアシをデセルティコ側の貸し出し所に戻し、船着場へ。


(思ったより遠いな……)


 イオストラは来た道を振り返る。宿から随分と離れた気がする。こんなに離れて、エルムの顕現体は維持されているのだろうか。


 以前よりも距離を取れるようになってはいないか。


 ふと浮かんだ考えを、イオストラは振り払った。今は余計な思考に頭を割く余裕はない。


 家も道も固めた砂でできている。色とりどりの防水布を屋根とした露店が、砂一色の街に鮮やかに映える。街を歩く人は少なく、店番たちは退屈を持て余しているように見えた。


「内戦の影響、ですかね……?」


 カレンタルがおずおずと呟いた。


「うん……」


 イオストラは曖昧に頷く。


「交易は続いているけど、観光客は来なくなっちゃったのさ。」

「そりゃあ、困るよねえ。観光客を当て込んで商売してんだ。」

「どうすりゃいいんだ……」

「くそ、反乱軍の奴ら……!」


 そこかしこで交わされる会話が二人の耳に潜り込んで、精神をチクチクと苛んだ。イオストラは唇を引き結び、強いて顔を上げて歩を進める。


「ねえ、そこの君。聞きたいことがあるのだけれど、答えてくれるだろうか?」


 妙な文言の声掛けだった。イオストラは足を止めて振り返り、息を呑んだ。


 とても美しい人だった。

 それ自体が発光しているかのような鮮やかな緑の目が強烈な印象をイオストラに植え付けた。強烈な太陽光を弾き返す黒髪は短い。尊大なまでに自信に満ちた声からは想像できないくらいに小柄で華奢だ。すらりと伸びた手足は中性的で、整い過ぎた顔が性別の判断をさらに困難にしていたが、声からするに女性のようだった。


「なに、構えないでくれたまえ。大したことではない。人を探しているのさ。この男なのだけど。」


 そう言って彼女が差し出した絵を見て、イオストラは戸惑った。描かれているのは、白い体と赤い目をしたハエだった。


「あの……絵、間違っていないだろうか?」


 イオストラは恐る恐る問いかけた。


「ん? 間違っていないよ。貰ったのはこの一枚だけだもの。」

「そ、そうか……」


 戸惑いを膨らませるイオストラと自身が差し出したハエの絵とを見比べて、その人物は首を傾げた。


「その、探し人は、どこに描かれている?」

「真ん中に。堂々と。」


 彼女はまたアルビノのハエを指さした。


「……も、申し訳ないのだが、その……いちいち個体を識別していないというか。いや、それは白ければ目立つだろうけれど、あんまりじっとは見ないというか。」

「そう、か……。どうやら嘘は吐いていないね。おかしいな。……まあいい。もしも見かけたら、教えてくれ。」

「あ、ああ。気を付けておく……」


 イオストラは曖昧に頷きながら、カレンタルをせっついた。早めにこの人物から離れた方が良いと判断したのである。


「まあ待ちたまえ。君にはまだ聞きたいことが――」


 彼女が言いさした時だった。

 街のどこかで、悲鳴が上がった。

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