04.横たわる三日月のような※
ヒルドヴィズルが殺気と共に剣を抜く。イオストラは
人間がヒルドヴィズルと闘うのは難しい。だが不可能ではない。イオストラには磨き続けた剣技がある。対策を怠らなければヒルドヴィズルを倒せるはずだ。
まず、決して攻撃を止めようとしてはならない。そもそもの
ヒルドヴィズルが足を踏み出した。体重が前方に移動するのに合わせて突き出された剣を、イオストラは身を
体重移動を突いた動きに反撃することは不可能。そのはずだった。イオストラは
無理な動きは十分な隙となったはずだ。敵が人間であったなら。だがヒルドヴィズルは圧倒的な力で条理を曲げる。
隙を
髪と頭皮の結合は思いのほか強く、イオストラはつんのめって倒れた。
ヒルドヴィズルはイオストラの髪を束ねて掴み、持ち上げる。何本かの髪が頭皮から離れる感触がした。
イオストラは爪先立ちながら剣を持ち替え、ヒルドヴィズルの腹を狙って背後に突き出した。刺さった感触はなかったが、剣はすんとも動かなくなった。ヒルドヴィズルの脇に挟み込まれたらしい。最後の抵抗とばかり唸り声を上げて
「イオストラ・オーネ・レイカディア殿下、一緒に来ていただこう! お前もだ! おとなしく――」
エルムに剣を向けたヒルドヴィズルの言葉が途切れた。イオストラの髪を掴んでいた左手がぽろりと落ちる。軽く指を曲げた手は、虫の死骸のようだった。空気抵抗と重力の狭間でふわりと広がり落ちる黒髪に、噴き出した赤色が沁み込んだ。
イオストラは両足が地面に降りると同時、潰れるようにへたり込む。
「汚い手で彼女に触らないでほしいな。」
「うるさい黙れ。」
エルムが言うと、ピタリと悲鳴が止んだ。ヒルドヴィズルは尚も叫び、転げ回っているが、彼の咽は音を生じなかった。イオストラは座り込んだまま、のたうち回るヒルドヴィズルを見つめた。
「俺の力を使うまいという心がけは立派だがね、無理なんだよイオストラ。」
横たわる三日月のような笑みを浮かべて、エルムは言う。
「力で負けるなら技で上回ろうとでも思ったのだろうが、ヒルドヴィズルは歳を取らない。最も生きた年数の少ないヒルドヴィズルでさえ、お前と同等以上の年月を武の鍛錬に費やしている。個の人力でヒルドヴィズルを上回るものがいたのなら、それはもとより人間の枠に収まり切らない異常者なのさ。」
エルムは何かを懐かしむようにあらゆる色を宿す目を細めた。
「無理なものか……!」
イオストラはゆっくりと立ち上がる。
「無理だとも。意地を張らずに俺に頼るといい。あの程度の
エルムがゆるりと視線を動かす。釣られて視線を投じれば、片手を失くしたヒルドヴィズルがよろめきながらも立ち上がろうとしていた。血は
「腕を失くした程度ではヒルドヴィズルは死なない。体力の消耗は
エルムの手がイオストラの肩に
「逃げるのも逃がすのもまずいよなあ? お前の消息が知られてしまう。こいつはここで殺しておかねばならないんだ。だがお前に彼を殺す力はない。なあなあ、どうする? どうすればいい? 言ってごらん?」
ヒルドヴィズルは冷静な目でイオストラとエルムの様子を
「力を使うのを
イオストラを守り、願いを叶えるこの男。彼はイオストラを
イオストラは唇を引き結んだ。剣を構え、ヒルドヴィズルに向かう。エルムは呆れたような、しかしどこか面白がっているような、そんな溜息をわざとらしく吐き出した。
ヒルドヴィズルの視線が動く。視線の誘導。体重移動の駆け引き。そう言った面において、このヒルドヴィズルの技量はイオストラよりも確実に劣っている。
相手の意識が撤退に向かっていることをイオストラは看破していた。彼にとってイオストラはか弱い存在だろう。すれ違いざまに一撃を入れれば砕け散るような、
一方でエルムだ。いとも簡単に腕をもぎ取られたのだ。エルムに背中を向けて逃げようとは思わないだろう。そう仮定する。ならばこのヒルドヴィズルの生き残る筋は一つ。
じりじりと、イオストラはエルムから距離をとる。ヒルドヴィズルの緊張が高まった。殺そうとはしないだろう。この場を生きて脱するための命綱。大切な人質なのだから。
ヒルドヴィズルが動いた。一瞬の溜め動作を挟み、理外の
「
「まだだ。」
かったるそうな声がした。頸動脈を断ち切られてなお、ヒルドヴィズルの命運は尽きていない。異様な体勢に体を捩り、早く鋭く腕を振る。余裕を欠いた一撃に加減はない。人間の頭を容易く砕く拳が、イオストラの顔を襲う。
「汚い手で触るなと言っただろう。」
エルムの声が空気を揺らがせた瞬間、ヒルドヴィズルの姿が弾ける。緑色の光の群れが極光のようにぬたうち、消えた。その時になってようやくイオストラは息を吸い込み、尻餅をついた。
いつから息をするのを忘れていたのか、思い出せない。何度も地面に打ち付けた臀部が鈍い痛みを訴えた。
「ああ、やはりかなり若いヒルドヴィズルだな。未熟さが目立つ……」
エルムは満面の笑顔でイオストラを見下ろした。そら見たことかと言っているように見えた。イオストラは視線を伏せる。結局この男に守られた。それは彼女にとってあまりにも屈辱的だった。だが彼女の顔を伏せさせたのは恥ばかりではない。恐怖だ。無様で醜悪な死が、圧倒的な現実感を
「安心しろ、イオストラ。俺がお前を守る。どんな危険もお前の命を奪いはしない。だからいくらでも失敗を重ねればいい。何度でも助けてやるからさ。……だが。」
エルムは膝を折ってイオストラに視線の高さを合わせ、
「願わないこと、命じないことは果たして免罪符になるのかな?」
笑みの形で開いたエルムの口から
「おお怖い。」
エルムは軽やかに立ち上がり、イオストラに手を差し伸べる。
「いつまでもここにいない方が良い。あのヒルドヴィズルは仲間と共に行動していた。間を置かずにここまで来るぞ。」
「なぜそんなことが解る?」
「さあ、どうしてだろうねえ?」
エルムはわざとらしく首を傾げた。
「……行くぞ。」
結局、イオストラはエルムの言を入れた。だが手は取らなかった。震える膝を
「頑張るねえ。」
からかうような呟きが、イオストラの耳に潜り込み、いつまでもいつまでも反響していた。
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