第五章 砂の姫

26. 辱めないでいただきたい


 イオストラ殿下からの報あり。インドゥスに到達。デセルティコより船でアンビシオンに帰還予定。

 鳥の足に括り付けられていた円筒は、手紙と共に安心と楽観の空気を包んでいた。グラノス・ラディエイトは鼻にしわを寄せてその空気が肺に流入するのを拒む。


 ビクティム要塞からの敗残兵が流れ込んだフロルは、アンビシオンから送られてきたものと真逆の空気に包まれていた。


 誰もが間近に死を感じ、竦み上がっている。ヒルドヴィズルとぶつかった兵のほとんどが命を落とした。それを目の当たりにし、逃げ延びた者たちは心身共に重い傷を負い、恐怖を刻み込まれた。

 彼らの恐怖はヒルドヴィズルと相対していない兵士にまで伝染し、臨時の前線基地には密やかな恐慌が広がっていた。


 勢いそのままにヒルドヴィズルが追撃を行っていたなら、この戦いは既に終わっていただろう。だが、何故か奴らはそれをしなかった。

 彼らは現在もビクティム要塞に留まり、不気味な沈黙を保っているのである。


 動くはずのところで動かないことが、余計に恐怖を掻き立てた。何を考えているのか分からない相手は恐ろしい。敵は常識の上を行くのである。


「百騎、か……」


 斥候からの報告に、グラノスは低く唸った。


「これほどの兵力差がありながら、惨敗を喫するとはな……」


 こうなった要因は複数あり、多くは一度経験すれば避けて通ることのできるものだった。二度目ならば同じ結果にさせない自信はある。敵の情報を揃え、対策を怠らなければ兵力差に任せて圧倒できる。


 だが、兵士たちに刻み込まれた恐怖心は如何いかんともしがたかった。圧倒的な敗北が、彼らの心を折ったのだ。理屈で恐怖心を克服させるのは難しい。兵士たちの士気の回復は絶望的だった。


(連中が動き出せば、我々は負ける……)


 眉根に皺が寄るのを、グラノスは辛うじて堪えた。


(イオストラ様は、間に合うか……?)


 いつの間にかグラノスの頭の中には砂時計が出来上がっていた。

 さらさらと零れ落ちる砂を、ただ恨めしく、なす術なく眺めている。



 *****



 オオアシは騎乗用として飼い慣らされた動物ではあるが、本来の目的とは無関係に様々な色彩変異が品種として固定されている。金色の鱗と赤い目を持つ黒色素欠乏型アルビノ、純白の鱗に黒い目を持つ白化型リューシスリスティック、体側を飾る青い筋の周囲を黒い枠が飾る拡枠型オケーティー……。

 身分の高い者は好みの品種に騎乗して楽しむのである。


 デセルティコ砂漠周辺で見られる黒いオオアシ――黒斑オリエンティルは、ただ外見の美しさを求めて生み出された他品種とは異なり、実用的な目的の下で改良された品種である。

 黒と白の鱗が交互に並んで縦縞を為し、色に由来する温度差が生じるわずかな空気の流れによって砂漠の熱さを軽減するのである。

 専用の靴を履いた巨大な足が熱砂を踏んで自重を乗せると、足下の砂が沈み込んだ。煉瓦れんが造りの街道は砂の底に埋もれているが、それでもトカゲの足を最低限支えている。

 平地とは違う体の揺れに初めこそ戸惑ったイオストラだったが、慣れてしまえば沈む分だけ歩みの衝撃が和らげられてむしろ歩きやすい。イオストラを乗せたオオアシは大きな歩幅で軽やかに砂漠を進む。


「これなら今日の夕方にはデセルティコに着くな……」


 イオストラであれば、敵がインドゥスに孤立していると知った時点でデセルティコの港を封鎖するだろう。だがその情報が確定したのは最速で見積もっても二日前。デセルティコほどの大きな港の管理権限が前線指揮官にあるとは思えない。

 カテドラルに情報が届き、港の封鎖が決定され、その情報がデセルティコに届くまでには相応の時間がかかる。それに、港封鎖の手続きはイオストラの協力者を通すはず。彼女が妨害の限りを尽くして港封鎖の発令を遅らせてくれるだろう。余裕で間に合うというのがイオストラの読みだった。


 大きなトカゲの大きな背中から伝わる砂漠の熱に温められて、イオストラは妙に安らいだ心地になった。砂漠の熱とはどれほどのものかと危惧きぐしていたが、思いのほか優しい熱だ。

 頭から被った熱避けの布を外すと、温かな太陽が頬を照らした。布越しに感じていたものよりもさらに優しい光だった。


 イオストラとくつわを並べるカレンタルは、すれ違う人々がいぶかしげにするのを見て小首を傾げた。イオストラの首から下がる緑色の玉が、太陽の光を受けて鈍く輝いた。


 インドゥスとデセルティコを結ぶ砂漠の街道は、古龍の遺跡と呼ばれる都跡を通っている。街道を整備する工事の手間を少しでも軽減するために、太古に整備された遺跡を通しているわけである。


 太陽が中天に差し掛かるよりも前に、イオストラとカレンタルは遺跡に差し掛かった。半ば以上砂に埋もれた街には、かつての栄華の面影がもの寂しくこびりついている。砂の海から斜めに生えた塔の残骸の上部には、時を刻むのを諦めた時計が埋もれていた。


「この遺跡、昔はどんなところだったんでしょう?」

聖小国乱立せいしょうごくらんりつ時代のものだそうだよ。」


 今から千年ほど前の百年間。小国がおこっては滅びる、不安定な時代だったそうだ。

 誰がどのように国を興し、いかにして滅んでいったのか、細部に亘って掴むことは難しい。この遺跡もまた名前すら忘却されて、ただ古龍の遺跡と呼ばれている。


「……古龍って何です?」

「エンシェントドラゴンのことだよ。第四大陸に生息する強力な魔物さ。海洋諸国の方では目撃されることも多いらしいし、第四大陸に近い場所では古龍信仰も盛んだと聞くが、第一大陸で目撃されることは歴史的に見てもまれだから、知らないのも無理ないかな。」

「……どうしてここが古龍の都なんです?」


 カレンタルに問われて、イオストラは視線を虚空に向けた。考えたこともなかったのである。


「この場所にあった街が滅び去った後、この地に古龍が飛来したためだ。」


 落ち着き払った低い声が、二人の背後から聞こえて来た。脊椎に電撃が走ったような気がして、イオストラは振り返った。


 背の高い男が物静かに歩いてくる。彼の足が砂を掻き分ける度に頭の高い位置で結われた黒髪が柔らかく揺れた。刃の色を宿した視線は真直ぐにイオストラに向けられていた。


「そ、そうなんですね……」


 人見知りと気遣い屋の性質に挟まれたカレンタルがびくびくしながら相槌あいづちを打つ。一瞬遅れて彼の身に着けた服がテルとフルミナ、そしてデスガラルが着ていたそれと同じであることに気が付いて、緊張は恐怖へと変わった。


「古龍は数十年に亘りこの地に留まり、海洋諸国との貿易で富を溜め込んだデセルティコと神聖帝国との間の障壁となった。一個体の害獣が国家に与えた損害として他に類を見ない規模と言えよう……。最終的にはヒルドヴィズルが派遣され、古龍は退治された。」


 イオストラの姿を映す鉄の色の目を、男はスッと細めた。


「化け物が帝国の歴史に為した功績を誇りたいのか?」


 イオストラは冷ややかに応じた。


「左様。」


 男の声は、それにも増して冷ややかだった。


「……イオストラ殿下とお見受けいたします。西方師団を任されている、ラタムと申します。ついて来ていただけますか?」


 イオストラは息を呑む。拳を握って手の震えを誤魔化した。西方師団の長、死神ラタム。聖教会の外側にまで名を届かせる、伝説のヒルドヴィズルである。


「嫌だ、といったら?」

「この場で俺と白の魔法使いの戦闘が始まります。街道を破壊するのも通行者を巻き込むのも忍びない。」


 ラタムの視線がゆっくりと遺跡を巡る。人の声が近づいてくる。イオストラは深呼吸をして首から下がる封珠ふうじゅを握った。エルムからの反応はない。


「……いいだろう。案内するがいい。」


 イオストラが答えると、ラタムは頷いてきびすを返した。

 イオストラはまずたじろいだ。彼があまりにも無防備に背中を晒したので。無警戒なのか、強者の余裕なのか、それともイオストラを試しているのか。トカゲの鞍から下がる剣の柄が、強く意識に訴えかける。


 ――やめておけ。


 頭の内側に響いた声に、イオストラは動きを止めた。石を投じられた水面のように空間が揺らぎ、エルムが姿を現した。イオストラではなく、ラタムの隣に。


「久しぶりだな。」


 ごく気安くエルムはラタムに声をかけた。ラタムの眉が不快げに寄った。


「……アルボルを、殺したのですね。」


 冷ややかな声には哀惜が含まれていた。


「殺したとも。いけないか?」


 エルムはせせら笑う。


「いえ。負ければ死ぬ。当然のことわりです。」


 言葉とは裏腹に、責めるような空気が滲む。イオストラは顔をしかめた。奥歯が危うげな音を立てる。

 アルボル。カレンタルの村を襲った岩巨人ゴレム。許すべからざる敵だった。あのような怪物のために心動かす者など、許せるはずがない。


「貴様の仲間は……アルボルは……」


 イオストラは震える声を絞り出した。


無辜むこの民を虐殺し、村に火を放った。」


 ラタムは足を止める。肩越しにイオストラを見つめる灰色の目に、鋭い冷気が宿る。イオストラは負けじと眼光を鋭くした。


「貴様らのような化け物が功を誇るなど笑止千万。神聖帝国の歴史に貴様らは必要ない。必ず駆逐してくれる。」

「……アルボルは、」


 ラタムの声は静かだったが、目の中には明確な嫌悪が宿っていた。


「挑んでくる者には容赦しないが、武器を持たぬ者を攻撃するような蛮人ではなかった。……無礼な認識を改めていただきたい。」

「事実だ。」

「見たのですか?」


 ラタムが静かに問いを投げる。


「なに?」

「アルボルが無辜の民を虐殺するのを、あなたはその目で見たのですか?」


 見たとも、と答えようとして、イオストラは戸惑った。……見ただろうか?


「あの、イオさん? アルボルって……?」


 泳いだ視線の先にいたカレンタルが、不思議そうに首をかしげる。


いわおのような巨体を誇るヒルドヴィズルだ。君の村を襲った主犯だ。」

「あ、あの……僕、デスガラルさんしか見ていません。」


 おずおずと、カレンタルは指摘した。イオストラは絶句する。ラタムの隣でエルムがゆっくりと笑みを浮かべる。滅ぼされた村にアルボルがいた。イオストラが実際に見たのはそれだけだった。


「部下の管理不行き届きはアルボルの失態です。それによって非戦闘民に少なからぬ犠牲を出したことに間違いはない。闘いで命を落とすのもヒルドヴィズルの宿命で、恨む筋合いではない。だが、奴が最も嫌悪した行いをもってその名誉をおとしめるのは許し難い。」


 ラタムは目を細める。


「あなたはヒルドヴィズルを化け物と呼ぶが、我々にも感情があり、矜持きょうじがあるのです。敵であるあなたにそれを尊重せよとは申しません。だが辱めないでいただきたい。」


 それだけ言うと、ラタムは再びイオストラに背を向けて先に進む。イオストラはしばしその場に立ち尽くした。


「どうした、イオストラ?」


 声をかけられて、イオストラは顔を上げる。エルムはオオアシの頭の上でしゃがんで、イオストラの顔を覗き込んでいた。


「お前、知っていたのか? アルボルが村を襲ったわけではないと……」

「だったらなんだというのかな?」


 エルムはわらう。イオストラは目を見開いた。


「村を襲っていないヒルドヴィズルであれば和解の余地があったとでも言うのか?」

「それは……」


 イオストラは口籠る。


「そんな選択肢はなかったろう? お前に敵対する相手は全て理性のない化け物や大義のない悪なのだから……」

「そんなわけないだろう! 私は……私は――」


 オオアシが首を傾げた。合わせてエルムの身体が傾く。エルムはイオストラを斜めに睥睨へいげいする。


「気にすることはない、イオストラ。ラタムは純粋培養のヒルドヴィズルなので闘いに理想を求めるところがあるのさ。闘いは言葉で通じ合うことのできなかった者同士が互いの尊厳を踏みにじるものだ。貶め辱め犯し尽くして悪いところなどない。」


 それとも、とエルムは口元の笑みを深めた。


「相手には相手の正義がある。そんなで、お前の剣は鈍るのか?」


 イオストラはオオアシの手綱を引いた。オオアシが大きく頭を振る。エルムはひらりと跳んで、砂の上に着地した。その音だけを耳に捉えて、イオストラはラタムの足跡を辿る。

 足跡の先で、ラタムは黙ってイオストラが追いつくのを待っていた。敵意も害意もなく、ただそこに立っている。まるで普通の人間のように……。


 己の価値観が底知れぬ泥に沈みゆくのを感じ取って、イオストラはオオアシの手綱を強く握りしめた。

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