27. 世界で最も貴重な宝

 ヒルドヴィズルはヒトの構成式に四つの創生式を組み込む処理によって肉体を変化させて創り出される生物兵器である。

 人という枠組みを離れ、世界の源流へと一歩近づいた存在。筋肉量に不相応な膂力りょりょくを発揮し、ことわりに乗じて奇跡を為すのに必要な最低限の能力を持つ。肉体は固定され、外的要因なくして死ぬこともない。


 ラタムがヒルドヴィズルに変生して、すでに二百年以上が経過していた。鋭敏で鮮烈な感覚は人間の時代に感じたものを遠ざけ、埋め尽くす。ラタムには人間の感覚が理解できない。


 その節穴の目で何を見ているのか?

 怠惰な嗅覚で何を感じているのか?

 腐った耳で何を聞いているのか?


 皇女を乗せたオオアシが流砂に足を踏み入れて悲痛な声を上げた。ラタムは足を止めて振り返る。オオアシと共に、皇女は砂の沼に沈んでゆく。従者の男が何事かわめいている。白の魔法使いはじゃれ合う小動物を眺めるような風情で彼女らを見守っていた。


 ラタムは溜息をいて引き返した。皇女とオオアシを砂の底から引っ張り上げる。襟首を掴まれて宙づりになった皇女は、涙に濡れた目でラタムをにらんだ。


「な、何故助ける?」


 皇女は砂と共に言葉を吐いた。


「いけませんでしたか?」


 ラタムは首を傾げた。彼女が何をいぶかしく思っているのか、理解できない。


「私はお前の敵のはずだ!」

「……私の敵は、殿下、あなたではない。」


 その答えが気に入らなかったか、皇女の目に敵意が燃える。


「私を呼ぶなら、敬称は陛下だ。」


 吐き捨てるように皇女は言った。ラタムは小首を傾げた。仮にもラタムは今上帝きんじょうていの陣営に属しているので、彼女を陛下と呼ぶわけにはいかない。だが本人が嫌がる言葉で呼ぶのもどうなのか。片手に皇女をぶら下げたまま、ラタムは真剣に悩んだ。

 皇女の怒りは徐々に高まっていく。早めに解決策を提示せねばならないだろう。

 実のところイオストラが腹を立てているのは犬ころのように襟首を掴んでぶら下げられっぱなしの状態に対してであって、敬称に関してはさほど深刻な怒りを抱いていなかったが、ラタムはそれに気付いていない。


「いい加減にしろ!」


 助けられた感謝とぶら下げ持ちへの苛立ちとの板挟みになって束の間されるがままだったイオストラが、ようやくラタムの手を払う。流砂から救い出されたオオアシに怪我がないのを確認すると、ひらりとまたがった。


「礼だけは言っておく。助かった。」


 体中から怒りを発散しつつ言い捨てて、皇女は次なる流砂に向けて歩き出す。ラタムは咄嗟とっさに皇女の襟首を掴んで引き戻した。


「な、何をする!」


 またもや襟首を掴まれて、イオストラは抗議する。


「……俺の足跡を辿って下さい。少なくとも流砂に落ちることはない。」


 皇女はきょとんとラタムを見た。ラタムは皇女を解放し、自分の足跡を辿った。白の魔法使いが待っていた。


「可愛いだろう? イオストラは。」


 彼が目を細めると、空の青を映していた瞳が砂の色へと変化する。ラタムは知らず拳を握った。

 白の魔法使いの目の色一つで、多くのヒルドヴィズルが右往左往した。その目が青く変わったからと死んだ者がいた。その目が赤く染まったからと殺された者がいた。こんなにも変わりやすいもののために……。


「自力で流砂から抜け出すことも出来ず、流砂を感知する術も持たぬ。そのくせ蛮勇ばかりが一人前だ。俺には理解しかねます。」


 ラタムは手に絡め持った緑の宝玉の首飾りに視線を注ぐ。皇女が首から下げていた封珠ふうじゅ。「エルム」の本体であり、皇女の生命線とも言えるものだ。それをあっさりとられ、しかも気付いてもいない。ただ一度助けられたというだけで、ラタムに対する皇女の警戒心は大きく揺らいだのである。無力なくせに愚鈍なこと著しい。


「そこが可愛いんじゃないか。」


 白の魔法使いはラタムの足跡を辿る皇女に目をやって、小さく笑った。


「……あれが天のちょうたまわる器でしょうか?」

「お前もあの年の頃はあんなもんだったぞ。まあ、覚えてないか。二百年も前のことだものな。」


 白の魔法使いは懐かしむように視線を虚空へと向ける。


「覚えておいでなのですか。」

「他人の恥は忘れない性質たちでねぇ。」


 白の魔法使いはからかう口調で答えた。


「それで? お前はこの後どうしようと? 封珠の回収が任務なら、それは既に果たしたことになるな?」

「持ち帰り、あるいは破壊することが任務です。白の魔法使いがいずれかを容認してくださるならば、任務は終了同然と言えます。」


 白の魔法使いはにんまりと笑う。


「残念ながら、それはない。」


 白の魔法使いとラタムの視線がぶつかった。未だ互いに殺意はなく、しかし戦闘の開幕が近づくのを確かに感じていた。


「確認させていただきたい。彼女への寵は白の魔法使いの意に沿うものですか?」

「いいや。」


 エルムはあっさりと首を横に振る。


「俺にとってあの子は特別だが、白の魔法使いにとっては何の意味もない存在だ。」


 長い睫毛まつげの奥で、あらゆる色が渦を巻く。


「ならば憂慮なく任務にあたらせていただきます。」

「そうしなさい。」


 エルムは穏やかに答えた。


「……ありがとうございます。」


 ラタムは足を止めた。エルムは大きく跳躍して、遅れて追尾してきたイオストラのオオアシの頭の上に着地する。二人の間に横たわっていた空気が俄かに張り詰めた。


「エルムなどという下らぬ殻から白の魔法使いを解放する……」


 戦闘開始の合図であった。



 エルムがオオアシの頭に着地すると同時に、寸前まで漂っていたどこか牧歌的な空気は霧散した。唐突に高まった緊張感を前に、イオストラは息を呑んだ。

 ラタムの手の中に武器が現れる。黒い霞のようなものに覆われ、脈動しているかのように形を変えるその武器は、身の丈を超える巨大な鎌のように見えた。


「あれが、死神の名の由来か……?」


 いつもなら笑ってしまうところだ。鎌は元来農具であって、武器ではない。農民が横暴な領主や凶暴な魔物などから人や土地を守る歴史の中で身近な農具を手に取ったことに起源を持つ独特な武器も世に多く伝わっている。

 だが、所詮しょせん命を育む生産の道具が命を刈り取ることに特化し発達した凄惨な道具に人殺しの機能で勝るはずもない。実戦においては採用され難い武器である。


 最強の一角に名を連ねるヒルドヴィズルが、そのような武器を……それも取り回しの悪い超重量武器として用いるなど、悪ふざけとしか思えない。


「世界に散らばる伝説の武器の一群、蠱王こおう聖骸せいがいのうちの一つ。蠱王ノ腕だ。」


 エルムがそう語る間に、ラタムはその巨大な武器を指先で回転させた。刃が風を捉える音が重々しく響いた。


「特殊な武器、ということか?」


 どこからともなく出現したことも念頭に置いて、イオストラは警戒を示す。


「なに、問題はないさ。手の内は知り尽くしている。」


 エルムは虚空に手をかざす。光が集まって形を成したのはいつもの純白の剣ではなく、白い蔦が絡まり合って二重の螺旋を成す、細く長い杖だった。


「……お互いに。」


 言葉と共にラタムは何かを投げた。緩やかな放物線を描いて、それはイオストラの手の中に納まった。封珠だった。イオストラは目を見開いて首元を探る。首から下げていた封珠は当然のように消えていた。


「世界で最も貴重な宝です。もう少し取り扱いに気を配ることですな、姫。」

「お、大きなお世話だ!」


 イオストラは頬を赤く染めた。呼び方を変えたラタムのささやかな気遣いには気が付かなかった。彼女の頭はラタムの気遣いよりも企みを見抜くことに傾いている。


「これがなんだか知っているなら、何故私に返す?」

「やることは何も変わらないので。」


 ラタムは冷ややかに答えた。


「うん、お前の言う通りだ。」


 エルムがひらりと杖を振る。瞬間、ラタムの足元の砂が隆起し巨大な棘の山を形成した。卑怯卑劣な不意打ちである。

 まるで予測していたかのように、ラタムはひらりとかわす。その軌道を狙いすまして尖った砂の塊が降り注ぐ。黒霞の鎌が砂の塊のことごとくを払い落とす。

 足を止めたラタムに猛火の塊が迫る。同時に彼の足元に流砂が生じ、足を絡め取った。炎が彼の姿を包む。


「そ、創世術で闘う気か……?」

「近づかれたら敗色濃厚だぞ。」


 エルムは気楽な調子で答えた。


 獄炎が嘗め尽くした熱砂の渦の中に、ラタムの姿はない。視線を泳がせるイオストラの耳が風を裂く音を捕らえるよりも前に、エルムが手を空に掲げた。

 高い衝突音が響く。エルムの前に形成された透明の壁に、黒い鎌が突き刺さる。鎌の柄からは黒い霞が緒を引いていた。鎖鎌くさりがま、とイオストラは呟いた。緒に鎌が引き戻されるのを追って動いた視線と交差して、ラタムはエルムに肉薄していた。

 ラタムの手に戻った黒霞の大鎌は、ひびの走る障壁を一薙ぎで粉砕した。咄嗟に杖で鎌を受けたエルムは力負けして大きく後退する。ヒルドヴィズルが傍らを駆け抜けた勢いで生じた風が砂塵を巻き上げ、イオストラを襲う。

 顔を守り、思わず目を閉じた僅か一瞬で、ラタムはエルムの首をねていた。


「え……?」


 イオストラが幾度となく目を瞬かせるうち、エルムの頭部は再び胴体に繋がっていた。


「エルム!」


 イオストラが自失から立ち直った頃には、エルムは何事もなかったかのように戦闘を続行していた。


「痛いじゃないか。」


 エルムは苦笑いを浮かべて杖を振るう。棒術の動きに則した流麗な杖捌きだった。高度に洗練された熟練の技であることは疑いない。


 だがラタムの動きはさらにその上を行く。その動きもまた棒術の基本を踏襲しているが、練度が段違いだった。

 これまで闘ってきたヒルドヴィズルは力の強さに任せて暴れるばかりであって、技術面に於いてはイオストラよりも下の者が大半だった。

 だが、ラタムの戦闘技術は圧倒的だった。基本を修め、経験と熟練を重ね、変幻を自在にこなす姿は正に武術の極み。キレと速度と重さを兼ね備えた斬撃の結界を前に、エルムは防戦一方になっている。斬撃を受け損なう度に、エルムの身体は欠損と再生を繰り返す。


「この体を傷つけても無駄だと知ってるくせに。虚しくならないか?」


 嘲るようなエルムの言葉に、ラタムは眉一つ動かさなかった。表に出ないエルムの危機感を看破しているのである。


「存じております。故に、」


 冷たく言って、ラタムは鎌を振るう。


「元より削り殺すつもりです。」


 エルムの首が、ぽろりと落ちた。

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