14. でも嫌い。

「初めまして、イオストラ・・レイカディア殿。私はテルセラ。馴れ馴れしくテルと呼んで下さると嬉しいわ。」


 累々るいるいと横たわる人々の中心で、テルは柔らかく微笑み、優雅に膝を折った。イオストラは返答できなかった。人々が生きているというあかしを求めて、祈る心地で広場を見回していた。その視線の動きを目で追って、テルは柔らかく目を細める。


「殺してはいないわ。ここに呼んで、眠ってもらっただけ。」


 テルが頭を揺らすと、柔らかそうな髪がさらりと音を立てた。


「呼んで、眠ってもらった?」


 違和感を孕んだその言葉を、イオストラは慎重に繰り返した。


「ええ、そうよ。暴力も脅迫もないわ。安心して。」


 テルはからりと笑うと背中側で手を組む。構えたところのない様子がイオストラをますます戸惑わせた。


「それで、私はあなたを何と呼べばいいの?」


 テルの問いはイオストラに向けられたものではなかった。澄んだ青い目は、戸惑いっぱなしのイオストラのすぐ横を見つめていた。


「エルムだ。」


 思いのほか近い場所でエルムの声がした。イオストラが驚いて振り返ると、いつの間にかエルムは肩に触れるほどの位置に移動していた。


「エルム……。エルム、エルム、エルム……」


 テルセラはあごわずかに上げて、何度も何度もその名前を繰り返す。


「女の子みたいな名前ね。メルヘンチックで、柔らかくて、なんだか子供っぽい。うん、あなたをよく捉えているとは思うし、似合っているわ。……でも嫌い。」


 突然テルの声が低く変じた。明るい青い目は一瞬にして極寒の冷気を宿し、イオストラの肝を冷やした。テルはすぐさま表情と空気を和らげて、イオストラに視線を戻した。


「ねえ、イオストラ殿下。取引しましょうよ。彼を譲ってちょうだい。そうしたら、この場は見逃してあげる。」


 イオストラはテルを睨みつけた。テルはぐずる子供を待つような表情でイオストラを見つめていた。


「……私はイオストラ・・レイカディア。付けるべき敬称は、だ。」


 イオストラは固い声で言い放った。テルは虚を突かれたように二度三度と瞬きをした。


「ええ、あなたがそう思っているのは知っているわ。でもね、世間的にはそうではないの。皇帝陛下は玉座にいらっしゃる。あなたは反逆者よ。」

「奴は簒奪者さんだつしゃだ。」


 イオストラの強硬な態度を前にして、テルは呆れたように溜息を吐いた。


「ええ、解るわ。自分の物が無くなるのはまだ許せる。でも、他人がさも占有物のように扱っているのって、許せないわよね。その気持ち、すごく解る。」


 テルセラの笑みが歪む。得体の知れない感情が、顔の皮を透過してイオストラに降りかかる。


「おお、怖い怖い。」


 エルムが揶揄やゆの響きを込めて呟いた。瞬間、空間に電流が走った。ひりつく空気と裏腹に、テルの表情は和らいだ。


「交渉決裂ね。」


 明るい声でテルが言った瞬間、教会のドアを吹き飛ばして何かが飛び出した。


「あきゃきゃきゃきゃきゃきゃきゃ!」


 奇声を発して突っ込んで来た影は、イオストラに衝突する寸前でエルムに阻まれた。生じた風圧がイオストラの髪を後ろに流す。エルムの白い剣が受け止めたのは、四本の刃が並列する奇怪な武器だった。両手の甲に装備したそれは、さながら鋭利な爪。

 珍妙な武器を扱う本人の姿もまた珍妙だった。髪は先端だけが異様に赤く、根元は黒い。口が裂けそうなほどに吊り上がった凄絶な笑顔は、それなりに整っているであろう顔立ちを異常なものへと変えている。視線は安定せず、眼球がひっきりなしに動き回っていた。噛み合わさった歯の隙間からは奇声が零れ続けている。


「あ、れ?」


 カレンタルが困惑した声を上げた。くるくる回っていた男の目がカレンタルを捉え、喜色を満面に浮かべる。


「僕の顔が面白いカナ? 俺っちも楽しい! うげえ!」


 エルムの膝が男の鳩尾に喰い込んだ。もんどりうって宙に浮いた男は、しなやかに体勢を立て直して着地する。


「こ、この人、どこかで……会ったような? あれ?」


 カレンタルは男を見つめて、何度も目を瞬かせた。意識的にか無意識にか、自分を抱えるようにして腕をさする。


「この人この人って、オイちゃんにはデスガラルって名前があるのよ! 名前で呼んでくれなくっちゃあ、オイラ悲しいよよよよよ!」


 デスガラルは嘆きながら上半身を不気味にしならせ、一瞬の溜めを挟んだ後に、一直線に跳んだ。弦から放たれた矢のような速度に、イオストラの全身が総毛立つ。


「エルム!」


 迎撃しろ、という言葉をイオストラが発する前に、エルムは剣を放り出し、イオストラとカレンタルを担いで脱兎の如き逃走を開始していた。イオストラは身を捩って背後を確認する。


「待ってぇ! 仲良くしてぇ! 逃げないでよぉ! お兄さんとイイコトしよおおお!」


 デスガラルは嬉々として追走していた。狂気的な笑みがすぐそこまで迫っている。敵の動きは速く、機動力も高い。それに対してエルムは人間を二人抱えている。当然追いつかれるし、反撃の手段もない。

 この逃走は悪手だ。


「馬鹿! 降ろせ! 迎撃しろ!」

「喋るな。危ないから。」


 直後、エルムは加速した。空気の圧がイオストラを直撃し、耐えきれずに目を閉じる。まぶたに覆われた視界の中で、イオストラはエルムの動きを感じた。上下に、左右に、高速運動の中でしっちゃかめっちゃかに振り回されて、三半規管が悲鳴を上げる。

 動きは唐突に止まった。体が地面に下ろされる。冷たい床の感触を全身に感じながら視線を彷徨わせていると、エルムと目が合った。抗議の言葉が脳内を駆け巡ったが、口から零れたのは形容しがたい呻き声だった。


「おえええ!」


 カレンタルも似たような音を喉から漏らしていた。自分の身体が掴めない。平衡感覚が戻るまで、しばらくかかった。


「な、何故いきなり逃げ出した……?」


 ようやく言葉が発せられるようになると、イオストラは弱々しく問いかけた。


「いや、だって。あの場で闘ったら広場でお休み中の住人がひどいことになっただろう?」


 イオストラはハッとした。エルムの言う通りだ。イオストラ自身で気が付いて然るべきだった。


「まさかお前がそれを気にするとは……」

「いや、全く気にしない。何となればミンチ製造機になるのもやぶさかではない。ただ、お前に怒られるのが嫌だから先にもっともらしいことを言っただけだ。」

「は?」


 イオストラの声が一気に低くなった。


「この街の住人の安否など、俺にとってはどうでもいいことさ。あの場から退いた理由は二つだ。まず、テルを見失った。」

「あ……!」


 そういえばそうだ。あの男の異様な存在感に気を取られて、彼女の存在があっさり意識から外れてしまった。


「あ、あの女、どこへ行った?」

「テルは支援戦闘の専門家だからな。潜伏は基本さ。」

「し、支援? なんだそれは?」

「強化の創世術をかけたり、援護射撃をしたり。」


 ヒルドヴィズルの西方師団は四つの兵科に分かれている、とエルムは語る。そのうちの一つが味方の支援・援護に長けた者たちによって構成される支援兵科。テルはその長なのだという。


「支援兵科がいるだけで戦闘難易度は跳ね上がる。増してテルだ。支援の強烈さは段違い。先にあいつを叩かないと、今の俺では正面戦闘は厳しいなあ。」


 エルムはのんびりとした声で言った。


「なら……!」


 先にテルを叩け、と言いかけて、イオストラは言葉を切った。


「お前と彼女は知り合いなのか?」


 先の二人のやり取りを、イオストラは思い出していた。


「ああ。恋人関係ってやつだったよ。」


 さらりと語られた言葉に、イオストラは目を丸くした。


「こ、恋っ?」


 イオストラの声がひっくり返った。そんな世俗的な言葉がこの男の口から出るのが意外だった。


「昔の話さ……」


 エルムの声にはどこか懐かしむような響きが含まれている。少なくとも、イオストラにはそう思われた。


「し、真剣だったのか?」


 思わずイオストラは一歩踏み込んでいた。


「あっちは真剣だったみたいだが、こちらはどうだろうな。真剣になるとは思えないが。」


 まるで他人事のようにエルムは言った。イオストラは鼻白む。この男、最悪だ。ふと、リャナがエルムを評して発した言葉を思い出す。どれほど見た目が良くても恋人にはしたくない男だ、と。彼女の見立ては正しかった。イオストラはリャナを再評価した。


「つまり、何か? 貴様のそういうだらしのない話に私は巻き込まれたわけか?」


 彼を譲ってちょうだい、とテルは言っていた。つまりはそういうことだったのだ。


「即座に断ったなあ。そんなに俺と離れるのが嫌だったのか? 可愛いイオストラ。」

「できれば今すぐ離れたい。」


 イオストラは苦々しい思いで呟いた。


「そう言うな。色恋沙汰がなくてもあいつは立ち塞がっただろう。大体、ヒルドヴィズルに恋愛感情など無用の長物だ。いずれにせよ娯楽の範囲を出ないさ。あいつがこの場にいるのは純粋に仕事だからだ。仕事ぶりが不機嫌になったのは俺のせいだけれども。」


 イオストラは口をへの字に曲げてエルムを見る。


「テルを殺……倒せるのか?」


「問題ない、と言いたいが、実はもっと厄介なのが一人いてな。」


 エルムはもったいぶった溜息を零し、一拍置いて、女性の名を口にした。


 フルミナ、と。

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