13. もう手遅れだと
何と言ってカレンタルに謝ればいいのか。
余裕のない思考の中、怪訝そうなカレンタルの顔ばかりが渦を巻く。謝罪しようと思っていたはずなのに、彼が事実を覚えていないと解って、思わず逃げを打ってしまった。イオストラは自己嫌悪に深く沈んだ。
心理的にも体力的にも、イオストラには余裕がなさ過ぎた。幾度となく
「ぼんやりしてると危ないぞ、お嬢さん。」
「あ、ああ。すまない。」
精彩を欠くイオストラを見て何を思ったのか、エルムはそっとイオストラの耳に唇を寄せて、嘲るように問いかけた。
「さて、一体どうするつもりなんだい? あんな嘘をついて。」
「それは……」
イオストラは視線を逸らした。エルムの顔をまともに見られなかった。
「一生誤魔化し続けるのならば、それは優しい嘘かもしれない。お前になら簡単なことだ。俺にそう願いたまえ。あいつの記憶と意識を
「それのどこが優しい嘘だ!」
「一生気付かずに済めば、悲劇などなかったも同然だ。」
「そんなの、ただの現実逃避じゃないか……!」
「いけないか?」
強い反発がイオストラの視線をエルムに向けさせた。氷のような薄青の目が、イオストラを見下ろしていた。イオストラは思わず身を縮めた。
「お前から言いにくいのなら、俺から言ってやろうか? 魔法も奇跡も含まない、ただの言葉さ。何の問題もないだろう?」
冷たい視線と不釣り合いに優しい声でエルムは言う。イオストラは顔を伏せた。エルムと自分との間に、前髪が幕を作る。
「……自分で言う。」
「そうかい。」
エルムはそれ以上何も言わなかった。イオストラはエルムの肩越しにそっとカレンタルを覗き見た。怪訝そうなカレンタルの目がイオストラを見つめ返してきた。イオストラはさっと頭を引っ込める。心臓の音が耳の奥で響いている。心臓が脈打つほどに、頭から血液を奪い去って行くようだった。
イオストラはもう一度エルムの肩から目だけを出してカレンタルの様子を確認する。カレンタルはイオストラを横目で見て、気まずそうに視線を逸らした。
一体、何故?
「お、降ろせ! 自分で歩く。」
イオストラはエルムの胸を叩いて主張する。
「こんなところで無茶をしても仕方がないだろう、お馬鹿さん。」
エルムは愉快そうに目を細めた。
「歩くくらいできる……!」
「ああ、十分な休憩を摂れば、ね。今は無理さ。休むか運ばれるか。どちらかを選ぶと良い。」
エルムの言葉はどうしようもないくらいに正しかった。一人では歩くことすらできないのだ。そんな事実がイオストラの鼻の奥で膨らんで、眼球に熱を持たせた。
「分かった、任せる。今は……先を急ごう。」
イオストラは渋々頷いた。しつこいくらいに瞬きを繰り返して、眼球表面に厚く広がる水気を振り払う。
「お前が思っているほど、急ぐことに意味はないがねえ。」
エルムはのんびりとそう言って、背後を振り返る。追手との距離にはまだ余裕があると、エルムは言っているのだろう。少なくともイオストラは彼の言葉をそういう意味に捉えた。
彼女が自分の勘違いを知るのは、その日の夕方のことである。
*****
ふと気を抜くと、視線は隣を歩く人物に向けられていた。それに気が付く度にカレンタルは頬を赤らめて視線を逸らした。
いつの間にか、イオは目を閉じて規則正しい寝息を立てていた。安心しきった表情で眠る彼女を見るエルムの目は優しい。彼女のことを宝物のように両手で包んで、丁寧に運んでいる。
そんな二人の様子を見るにつけ、カレンタルは落ち着かない気分になった。自分はお邪魔虫なのではないかという思いが彼を平静にさせなかった。
「あ、あのぅ。」
「なんだい?」
エルムは神秘的な笑みを浮かべてカレンタルを見た。
「その、インドゥスへの道、もしかしてご存知なのかな、と思いまして。」
「まあ、ここまで来れば道なりだよね。」
「はい。ですので、僕はこれで失礼しようかと……」
「いや、すまない。やはり自信がないから、一緒に来てくれないかな?」
自信満々の声音でエルムは言った。
「は、はあ。解りました。」
カレンタルは素直に頷いた。体が妙に怠く、足が鉛のように重い。斜面を一歩下る度、体重をかけた足が崩れそうになった。
エルムの足取りは些かも崩れなかった。人一人を抱えて、淡々と山道を進んでいく。屈強とは言い難いカレンタルよりもなお華奢なのに、彼は人間離れした力を持っている。腕も足も疲労を知らず、どんな難路に差し掛かっても、決してイオを揺らすことはない。
「イオさん、エルムさんのことを信頼しておられるんですね。」
エルムが驚いたようにカレンタルを振り返った。
「君にはそんな風に見えるのか。」
「はい。」
エルムはイオに視線を落として、小さく息を吐いた。
「そうか……。良くないな。」
「え?」
カレンタルはまじまじとエルムを見つめた。
「俺に慣れてしまうのは、良くない。」
エルムの顔を覆う神秘の笑みの向こう側に、愁いの感情が覗いた気がした。それきり会話は途絶えた。三人の間で生じるのは足音と息づかいの音だけだった。
山道は曲がりくねり、下降と上昇を繰り返して延々と続く。足が痛んだ。自身が山登りに相応しいとは言い難い靴を履いてきていることに気が付いて、カレンタルは首を傾げた。インドゥスまで案内すると言いつつこんな靴を履いて出るなんて、昨日の自分は何を考えていたのだろう?
足の裏の感覚を失い始めた頃になって、カレンタルとエルムは眼下にインドゥスを望んだ。中央連峰と砂漠との間に、魔物除けの防壁に覆われた街が鎮座している。
目的地が見えて安堵する一方で、何かざらりとした違和感がカレンタルを捉えた。カレンタルはそわそわとエルムを見る。エルムはいつも通りの不透明な笑みを浮かべていた。
「あの、エルムさん?」
「君は妙に鋭いところがあるね、カレンタル。」
言って、エルムはイオを乱暴に揺さぶった。イオは妙な声を上げて目を開けた。見開かれた黒い目がカレンタルとエルムとの間を行ったり来たりした後に、気まずそうに伏せられる。長い髪から覗く耳は、赤くなっていた。
「眠っていたのか……」
「ああ、疲れていたんだろう。」
イオがエルムの肩を叩くと、エルムは心得たようにイオを地面に下ろした。イオは地面を注視しながら長い黒髪を手櫛で整え、また視線をくるくると動かし、視界にインドゥスを収めてほっと息を吐いた。
「よ、よし。行こう!」
気恥ずかしさを誤魔化すように言って、イオは勢いよく歩き出す。
「街は見たのか、イオストラ?」
エルムは静かに問いかけた。
「ああ、もうすぐそこだ。ね、眠ってしまって悪かった。」
イオは早口で謝罪すると、ぎくしゃくした足取りで斜面を下り始めた。目を細くして彼女の歩く姿を見送っていたエルムは、やがて静かに呟いた。
「実に安定した節穴ぶりだ。そこが可愛いところだが。」
カレンタルは横目でエルムの表情を
「付いて来なくても構わないぞ。」
その言葉は奇妙な重みをもってカレンタルの耳に届いた。唐突に、カレンタルは一人で村に帰るのが怖くなった。最終的には一人で帰らざるを得ないのだけれど、今はエルムの傍から離れたくなかった。
「あの……ご一緒します。」
「そうかい。君はなかなか勘が良いな。」
どういう意味なのだろう。問うかどうか、カレンタルは迷った。
「何をしている、二人とも。ほら、早く行こう。」
イオの急かす声が、カレンタルの疑問を喉の奥へと押し戻した。困惑するカレンタルを残してエルムがイオの後を追う。
「お前が望むのならそうしよう。」
その声に含まれる何かが、カレンタルの足を竦ませた。付いて行って良いのだろうか。逡巡の後、カレンタルは思い切って足を前に踏み出した。選択を間違えたのではないかという不安は歩数に比例して薄まって行く。
ただ、零になることはなかった。
*****
インドゥスは中央連山とデセルティコ砂漠との間にある都市だった。砂を固めて作った建造物が、道に沿って並んでいる。街は静まり返っていた。
「閑静な街なのだな。」
イオストラは疲労を訴える足を励まして街の奥へと進む。数歩で足を止め、顔に怪訝を浮かべて振り返った。カレンタルとエルムが付いて来ない。
「お……おかしいな。もっと賑やかな街のはず、なんですけど……」
カレンタルはおどおどと視線を
テーブルの上に残された料理は冷めていた。スープを口に運ぶ途上で手から零れ落ちたかのように、先の汚れたスプーンが転がっている。
道の真ん中に放置された馬車の馬が、不安げに
活気の名残は窺える。だが人だけがいない。
「どういうことだ?」
イオストラの問いに答える者はいない。カレンタルはやたらに怯えてエルムに引っ付いていた。エルムは無言でイオストラを見つめている。行動を促しているのだ。イオストラは喉を鳴らしてさらに奥を目指す。
無人の街に、イオストラの身体が立てるざわめきが異様なほどに大きく響く。イオストラは知らず深い呼吸を繰り返した。砂で固められた道を延々と歩き続ける。嫌な汗が滲んで服を汚した。
神聖帝国の街の多くは一定の規則性に基づいた構造をしていた。まず街と外とを隔てる防壁があり、一か所から四か所に門が開いている。門を潜ると大きな道が街の中央に向けて走っている。この道に沿って商店街が広がっていることが多い。街の中心には広場があり、それに隣接して教会と行政府が軒を連ねている。インドゥスは基本に忠実な構造の街だった。
商店街を抜けた先で、イオストラは足を止めた。広場もまた静まり返っていた。無音の広場には折り重なるようにして沢山の人が倒れている。
その異様な光景の中、教会の入り口に続く階段に、少女が一人腰掛けていた。少女はイオストラに気が付くと、顔にかかった亜麻色の髪をついと耳にかけ、にっこり笑って手を振った。
「やっと来た! 待ってたのよ。」
急ぐことに意味はないとエルムは言った。それは状況が切迫していないという意味ではなかった。
もう手遅れだと、エルムは言っていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます