56. 人の海を割って ※

 敵陣の只中で力を失ったヒルドヴィズルを待っていたのは凄惨な最期だった。

 前後左右、四方八方から攻撃され、傷付き、倒れる。ヒルドヴィズル故に、死はなかなか訪れず、断末魔が途切れてなお刃を突き立てられる。


 仲間たちの断末魔が途切れ行く戦場で、ラタムは進撃を止めなかった。


 逃げ場のない場所で逃げ腰になれば死ぬ。

 身体強化式が励起しなくとも大鎌・蟲王ノ腕は吸い付くように手に馴染み、使用に負担がない。変幻自在な動きと圧倒的な切れ味をもって、敵の肉体を易々と破壊する。

 鎌が回転する度に人体の一部が濡れた音を立てて地面に落ち、悲鳴が上がる。血の霧が立ち込め、生々しい臭いを振り撒いた。戦意を喪失して距離をとろうとする者もいたが、仲間の隊列が邪魔をして果たせず、互いの動きを阻害するうちに死に囚われた。


 生きてラタムの背後に回った者は彼の背に銃口を向けて瞠目した。標的の周囲を黒い霧が囲い、死角からの攻撃を受け付けない。


 人の海を割って、ラタムは敵陣の奥へと進む。


 耳に装着した創具そうぐに触れる。遠話の創世式を宿した石は何の反応も示さない。壊しただろうか、とラタムは一抹の不安を覚えた。一瞬にして浮かんだテルセラからの小言を一度脇に置く。


 自分が原因で壊れたならそれはそれで問題だが、より重大な懸念は他にある。身体強化式が励起しなくなった原因と繋がっている可能性。即ち、敵の妨害である。


 特定の強化式を妨害して力を喪失させる従来のジャマーは想定していたが、対応策が動いた様子はない。敵の準備した罠が想定と異なっていたのだろう。


 嫌な予感が頭をよぎった。式に干渉しているのではなく、式を動かす大本、根源ノ力への干渉ではないか? 根源ノ力の動きそのものを押さえる装置。何の証拠もないが、その存在を仮定すれば妙に辻褄が合ってしまう。ヒルドヴィズル同士の闘いに於いては不毛に尽きる仕掛けだし、壮大に過ぎて馬鹿馬鹿しいが……。


「非常識だ。」


 ぽつりと呟いて、ラタムは自身の思考を白紙に戻す。

 嫌な想像に遊んでいる場合ではないのだ。原因を推測するには情報が不足していた。仮説はいくらでも立つのだが、考えるだけ無駄だ。何しろ仲間と連絡が取れず、敵陣の中に孤立しているのである。妨害を取り払う手段はテルセラに丸投げするしかない。


 では、ラタムに何ができるのか。


 ことが起きる寸前に発見された、いかにも怪しい機械の位置はラタムの現在位置から辿り着けるものではない。


 だが、もっと根本的な問題の原因の排除ならば可能だ。


 このまま奥へと進めばいい。


 そこにイオストラがいる。




 マッドパピーが発明した奇妙な装置が支配する戦場で、戦闘力を封じられたヒルドヴィズルは追い立てられる獲物に堕した。


 何事も人を超えた力を前提としているヒルドヴィズルは、その力を失えばもろい。作戦は実現不可能となり、陣形も装備も個々の武勇も意味を失う。出来たことが出来なくなる。その落差が、ヒルドヴィズル達の状況を不利にする。


 反乱軍の勝利は時間の問題だと思われた。


「報告、ヒルドヴィズルが一騎、こちらに接近!」


 突然もたらされた報告に、イオストラは耳を疑った。


「なんだと? そんな馬鹿なことがあるか。ヒルドヴィズルも奴らの扱う兵器も、全て無力化されている。一騎が突っ込んで……? と、止めろ!」

「我が軍も応戦しておりますが、止まりません! 巨大な鎌のような武器で兵を殺傷しつつ、周囲を黒い霧のようなもので覆って攻撃を寄せ付けないのです!」

「……鎌と、霧。ラタムか。」


 蟲王ノ腕は特別な武器だとエルムが言っていたのを思い出す。この状況でも何かしら特別な力が使えるのかもしれない。だが、しかし、いくら何でも……


「非常識だ。」


 個人の武勇が軍を凌駕するなど、あるはずがない。ヒルドヴィズルになら有り得るのだと再三聞かされてはいたが、無力化したではないか。


「裏目に出たか……?」


 イオストラは封珠ふうじゅを握る。効果範囲内の根源ノ力の動きを全て押さえるマッドパピーの兵器。それは封珠の動きも例外なく抑えている。この範囲内では、エルムは顕現することが出来ない。


 ラタムの接近を許してはならない。


「陣形を再編する。」


 汗の浮かぶ掌を、イオストラはぐっと握った。




 兵士は訓練されている。どこまでの事態に冷静に対処できるかが生存率を左右するとさえ言えるだろう。

 イオストラに仕える兵たちは皆よく訓練されている。あらゆる状況を冷静に乗り越える自信があった。


 その自信は瓦解した。


 迫りくるヒルドヴィズルを前に、人は全くの無力だった。巨大な鎌は何の抵抗もなく人体を通過し、血液を撒き散らす。鎌を持つヒルドヴィズルの表情には恐怖も怒りもなく、ただ冷静に、淡々と、的確に、戦場に人体をばら撒いて歩く。枯れ谷に血が小さな川を生む。


 動揺が広がる。


 ヒルドヴィズルを無力化する作戦だったはずではないか。

 無力化したヒルドヴィズルは人間と大して変わらないと言ったではないか。

 ならばこの有り得ない強さは何なのか。


 ……無力化は失敗しているのではないか?


 不安は共鳴し、増幅される。恐怖がじりじりと兵たちの心を焼いた。


「ひぃ……」


 誰かのひりついた悲鳴が異様に大きく響いた。


 兵たちは強い後悔に苛まれた。ヒルドヴィズルに戦いを挑むなど、無謀だったのだ。

 それは雷のようなもの。天から落ちて、落ちる頃にはすでに終わっている。まつろわぬ者に落とされる神の怒りである。

 神聖帝国はヒルドヴィズルによって守られてきた。その牙が自分たちに向けられることが恐ろしくないことなどあろうか。


 兵たちはヒルドヴィズルに無知だった。ヒルドヴィズルを無力化する方法も、理解しているとは言い難い。

 無力化されたはずのヒルドヴィズルの大立ち回りを目撃して、作戦の有効性に疑問を覚えるのも仕方がなかった。


 一人が一歩後ずさり、一人がぺたりと座り込み、一人が身を翻すと、兵士たちの恐怖をき止めていた何かが壊れた。雪崩れるように、兵士たちは逃げ出した。


 立ち向かった兵を切り裂きながら、ラタムは悠々と戦場を進む。


 ひしめく兵士たちは抵抗を放棄しても十分にラタムの進攻を遅らせる。一方で距離を保った反乱軍の銃撃からラタムを守る盾にもなっていた。


 その盾が、唐突にラタムの周囲から消えた。


 ぽっかりと空いた空間を挟んで、無数の銃口がこちらを見つめていた。ラタムは足を止める。


 無数の銃口の向こう。他より一段高く取った台の上に、見せつけるように、イオストラが立っていた。


 あからさまな罠を前に、ラタムは思考した。ヒルドヴィズルの身体能力を封じた時点で勝敗はほぼ決した。ラタムは捨て身の特攻をせねばならなくなり、結果として銃口の前に立たされている。


 こうなればラタムは背を向けて去るしかない。

 そんな場面で、敵のあるじが立っている。

 明らかにラタムを誘っていた。ラタムを逃がすまいという考えか。


 ぶら下げられた餌は大きい。ここから退いたとして、身体強化式が励起不能な状況が続く限り敗北は覆らない。だがここでイオストラを討ち取ればそれだけで勝利が確定する。


 一歩、ラタムは踏み出した。


 蟲王ノ腕にまといつく黒い霧の総量は決まっている。そしてイオストラはそれを理解しているのだろう。防御に用いている霧を攻撃に使わせようと目論んでいるのだろう。


 乗った。ラタムは鎌をかざして前に踏み出す。兵士たちに緊張が走った。


 その緊張を、イオストラはより近くに感じていた。

 兵に任せて引っ込んでおくべきだったのだろう。だが、ラタムの脅威は大きすぎた。兵士たちを支配した恐怖をなだめるにはイオストラが立たねばならなかった。


 兵は主君を背後に庇い、主は麾下きかに庇われている。

 そうでなければどうしてこの場に立っていられるだろう。

 近付いてくるヒルドヴィズルは、それほどの圧を放っていた。


 ラタムが手にした鎌の周囲で霞が揺れる。黒い霞が渦を為し、鋭くしなった。


「撃て!」


 イオストラの掛け声と兵の実動との一瞬の差が、最前列の兵士の生命を薙ぎ払った。鎌に絡みついた黒い霧が鞭のように走り、人体を切り裂く。

 噴き上がる血柱を乗り越えた弾丸がラタムの身体に吸い込まれてゆく。急所を庇った腕に穴が開いた直後、形を変えた霞が盾となってその体を覆い隠した。


「……そのまま待機。狙いを逸らすな。盾から出たら容赦なく撃て。」


 イオストラの言葉が無慈悲に響く。


 渦を巻く黒い盾の向こうで、ラタムは沈黙している。盾が力を失う気配はない。イオストラは舌打ちをした。前列が一瞬で殺傷されたために弾数は絞られ、動揺で狙いも逸れてしまった。殺しきれなかったのは手痛い。


「この状況であってもヒルドヴィズルの頑健さは損なわれていないというが、今の傷はどうなのだろうな、ラタム? そのまま隠れてこの場をやり過ごすことが出来るのか?」


 イオストラの挑発を、ラタムは冷ややかに聞いていた。自分が口達者でないことは昔から解っている。敢えて彼女と語り合おうとは思わなかった。


 穿たれた銃創から血が溢れて流れ落ちる。


 餌につられて前に出たのがそもそもの間違いだ。だがラタムの後悔は、自身の身体能力が想定を下回っていたことに尽きる。人の一生を超えた時間を費やして高めて来た技術は、強化式がなければこの程度か。


「ラタム、聞こえているのか? 投降しろ。悪いようにはしない。ヒルドヴィズルに武装解除させ、縛に着くよう促して欲しい。」

「……折角だが、断らせていただく。」


 ラタムは沈黙を破った。


「何故だ?」


 イオストラの戸惑いが声に現れた。


「反乱軍を鎮圧せよと命令を受けている。」


 果たして法王は、本気でそれを望んだのだろうか。ヒルドヴィズルが返り討ちに遭う過程を観察することこそ、あの超越者の望みだったのではないか。お気に入りのマッドパピーが発明した兵器の活躍を、さぞや楽しく眺めているのだろう。

 シスルの怒りが目に浮かぶようだった。


「その命令は遂行不可能だ。早いうちに放棄するのがお前自身や部下の生命を守ることに繋がる。」

「……それを守ることに、何の意味がある?」


 自嘲するようなラタムの声に、イオストラは虚を突かれた。


「え?」


 瞬間、ラタムを守っていた盾が解けた。黒い霞の奥から飛び出した鎌が目前にいた兵卒を切り裂き、黒い霞が鎌に巻き付く。


「撃て!」


 イオストラの指示よりも前に、引き金は引かれていた。


 狭い谷間に、複数の銃声が轟いた。

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