55. 砕ける時を、楽しみに

 まるで神がこの場所を国境とすべく地形を作ったかのように、中央連峰は険しく切り立っている。

 この山々を東西に貫く谷によって、連峰をまたいだ人の移動は辛うじて許されてきた。


 谷に蓋をするビクティム要塞は、ここ数日の間に異様な外観へと変貌を遂げていた。

 壁という壁、天井という天井、床という床に綿密な模様が刻み込まれているのである。模様は家具や装飾品、あるいは瓦礫を積み重ねて作られた物体にも彫り込まれ、時には壁を破り、柱に穴を空け、建物全体に壮大な立体模様を刻んでいた。張り巡らされた溝の内側を緑色の光が液体のように這うさまは、どこか人の全身を血液が流れる様子に似ている。


 緊迫をはらんだ風が要塞外壁に沿って吹き上がり、遠く谷の向こうに視線を向ける女性の髪を巻き上げた。暴れる髪を指に巻き取って、テルセラは唇を引き結ぶ。


 要塞を走る緑の光が強くなる。同時に、彼女の耳元に光の輪が幾重にも浮かび、男の声を発した。


『間もなく戦闘状況を開始する。』

「了解したわ。」


 テルセラは答えて、遠視えんし創世式そうせいしきを展開する。


 枯れ谷に布陣したヒルドヴィズルと、それに向けて進む反乱軍を上空から捉えた映像が、光の輪に縁どられてテルセラの眼前に浮かぶ。要塞を覆う模様の一部が脈打つ輝きを増した。


 テルセラの得意とする支援系の創世術そうせいじゅつは味方の身体能力を高めるものとして認識されがちだが、最重要の役割は遠話えんわ網の中継と戦況のナビゲートである。

 広範囲にわたって遠話創世式と遠視創世式、そして根源ノ力の濃度分布図を作成するための感知フィールド等を、ビクティム要塞を中心軸として展開し、維持管理するのである。


「馬鹿正直な陣形ね……。まとまった伏兵も確認できないわ。」


 兵の数は反乱軍が勝る。だが、兵を広く展開できないこの場所ではヒルドヴィズルの突破力で容易に補える。


「何を考えているのやら……」

『ジャマーキャンセラーの準備はできているか?』

「一応ね。でも、そんな化石、今更使う?」


 ヒルドヴィズルは人間を改造し、存在として保持できる根源ノ力の量を増加させた生物兵器である。

 もっとも、根源ノ力はそのままではただの力に過ぎない。活用するためには創世式が必要だ。体内に持つ根源ノ力を身体の強さに繋げるために、ヒルドヴィズルの身体には数種類の創世式が刻まれている。

 うちの一つが俗に身体強化式と呼ばれる創世式である。これを励起れいきすることでヒルドヴィズルは人外の膂力りょりょくを得ている。

 この式に働きかけて無効化する装置が、百年ほど前に流行した。これがラタムの懸念するジャマーである。

 ジャマーは登場直後こそ猛威を振るったが、複数の対応策の登場により徐々に脅威度を落とし、汎用の強化式にランダム配列が加えられるようになると完璧に過去の遺物となった。


『念のためだ。マッドパピー博士があちらに移動したことを忘れるな。』

「……マッドパピー博士、ね。」


 テルセラは釈然としない心地でその名前を復唱する。あまり詳しくはないものの、悪評ばかりはしばしば耳にする。


「とりあえず、一通りの化石は準備してあるわ。ジャマー展開時には私が全体を強化してキャンセラーの発動まで補助するし、安心して無力化されてちょうだい。」

『任せる。』


 軽口に対して、至極真面目な声だった。少しは笑うとかすれば、という悪態は言わないことにする。


『……言うまでもないが、イオストラ皇女の場所を早めに割り出しておけ。』

「解ってるわ。レムレス平野と同じ失敗はしないわよ。」


 テルセラは兵士たちが蠢く戦場へと視線を向ける。この点の群れのどこかにイオストラはいるのか。根源ノ力の濃度分布図には封珠ふうじゅの反応はない。


 地道に探すしかないか。


 テルセラは溜息を零して、空の目が送る映像を端から確認し始めた。




 切り立った崖に左右を挟まれた枯れ谷に、ラタムは微動だにせず佇んでいた。目の前には遠視の式、耳元には遠話用の式がそれぞれ展開していて、ここからでは見えない情報を感覚神経に送り込んでいる。

 副官権限で空の目と視界を共有すれば、シスルにも敵兵の姿を確認できた。


 シスルは平静を装いつつ、不安を隠しきれなかった。まだリニョン王国の軍人だった時代、まさにこの場所で、シスルは敵に落石攻撃を食らわせたのである。あの時敵が立っていた位置に自分が立っていると思うと落ち着かない。

 人間が中央連峰の山中を進むのがどれほど困難なのか知っている。上空から監視していることも解っている。森の中に伏せているヒルドヴィズルもいる。崖の上には味方の中距離部隊が布陣している。


 だがどうしても、崖に挟まれた戦場は好きになれなかった。


「……上を気にする必要はない。懸念すべきはマッドパピー博士と白の魔法使いだ。」


 ラタムがぼそりと言った。不安を見透かされたシスルは赤面した。


「ああ、解っている。」


 ヒルドヴィズルが絡んだ戦術は人間の常識とは全く異なっている。彼らは基本的に平均的な強さのヒルドヴィズルを状況の一部としか見ない。雑魚に後ろから襲われるのは、ぬかるみに足をとられるだとか砂塵が目に入るだとか、その程度のものなのだ。


 そんな荒唐無稽な個体差がヒルドヴィズルにはある。


「白の魔法使いの残存魔力は我々を壊滅させるに十分だ。あの方が参戦されるよりも前に乱戦に持ち込む必要がある。……シスルは中距離部隊と合流しろ。」

「近接戦もできる。乱戦になったとしても、遅れは取らない。」

「適材適所だ。」


 ラタムの声には有無を言わさぬ響きがあった。シスルは立ち尽くす。傍を離れるのがたまらなく不安だった。


「……わかった。武運を、祈っている。」


 不安を宥めながら、シスルはきびすを返す。身体を強化し、絶壁に打たれた杭を足場に崖を上ると、攻撃系の創世術を得意とする者たちが居並んでいた。少し肩身の狭い思いで銃を持つ。


 ヒルドヴィズルの部隊が真価を発揮するのは近接戦だ。特に白の魔法使いの脅威があるからにはラタムの言う通り乱戦に持ち込むべきなのだ。

 一方の反乱軍は数的有利を活かすことのできる平地まで西方師団を引きずり出したい。弾幕を張って距離を保ちつつ後退していくはずだ。

 テルセラ率いる支援兵科によって整えられたこの場所から離れるほどに西方師団は不利になる。どれだけ迅速に接近できるかが損耗率を左右するだろう。ヒルドヴィズルの接近を拒む弾幕を薄くするのが中距離部隊の仕事だ。責任重大、とシスルは自分に言い聞かせた。


 やがて揃って動く軍靴の音が聞こえ始めた。兵装の鳴らす音は規則正しく、それだけで兵の練度をうかがわせる。


 見事な統率で進行してきた反乱軍は、装備した銃の射程内にヒルドヴィズルの先陣を捉えるや否や、足を止めて発砲を開始した。やはり、ヒルドヴィズルを近付けないことを第一とするか。


 シスルが狙いをつけて引き金を半ばまで引いた、その時。


 黒い影が一足で反乱軍と西方師団との間の距離を駆け抜けた。反乱軍の先陣を務めた兵士たちがバラバラになって宙を舞い、血煙を立ち昇らせる。


 瞬時に敵陣に切り込んだラタムは、いっそゆったりとして見える動きで黒い霞に覆われた不気味な鎌を振るった。


 降り注ぐ鮮血が反乱軍の兵士たちのたかぶりりを凍らせる。誰もが引き金を引くことを忘れた空白の中に、ヒルドヴィズルの軍勢がなだれ込む。


 拍子抜けするほどあっさりと、近接戦闘が始まった。拡散できない狭い枯れ谷で、逃げることも叶わずに殺されてゆく。ヒルドヴィズルは崖を足場に縦横無尽に斬り駆ける。あまりにも一方的な展開はシスルの憐れみを誘った。


「まさか、無策なのか?」


 シスルは半信半疑で呟いた。デセルティコで見たイオストラ皇女は責任感が強く、他者に優しい人だった。配下の者たちを無為に死なせるのを善しとする性格ではないはずだ。


『イオストラ皇女を発見!』


 テルセラの声が耳元で聞こえた。同時に彼女の捉えたイオストラの姿が視界の片側に映し出される。短かったはずの髪は長く伸び、この劣勢を前にして何の動揺も示さない。


『それから、これを……!』


 視界が一度上空に戻り、移動して、アップになる。草陰に巨大な杭のような、奇妙な機械が設置されているのが映った。ラタムの緊張が耳に伝わった。


『……ジャマーキャンセラーを――』


 巨大な杭が不気味に光る。光が空に上り、傘のように周辺を覆う。ラタムの声がぷつりと途絶えた。空の目からの映像も暗転する。直後、銃が強く地面に引かれた。


 シスルの腕力が銃を支えきれなくなったのである。


「これが、強化式ジャマー……?」


 シスルは戦慄する。


 ヒルドヴィズルの殆どがその身体能力を前提として経験を積んできたが故に、純粋な戦闘技術が高いとは言い難い。さらに身体能力の減退は、ヒルドヴィズルから武器さえ奪う。ヒルドヴィズルの使用に耐える丈夫で高威力で、そして重い武器。怪力でなければ到底扱える代物ではなかった。このままでは一方的な展開が逆方向になるだろう。


 もしも対応していなかったなら、という仮定の話に過ぎないのだが。


 再び訪れるはずの逆転の時に備えて、シスルは重たい銃に手をかける。混乱は一瞬のことだ。呼吸を合わせて反撃に備えれば問題ない。


 だが、そのタイミングは訪れない。シスルの中で不安が増大する。身体能力を失ったヒルドヴィズルの先鋒は敵軍の中で孤立する形となり、その脇を通り抜けた反乱軍が西方師団の後続へと迫る。


「テルセラ様ッ?」


 シスルは必死に呼びかける。ジャマーは特定の創世式に働きかけて妨害するもの。それ故に標的はもっぱら汎用の身体強化式であり、自分用にカスタマイズした式が施されたテルセラの行動を妨げるものではない。ジャマーキャンセラー発動までの時間は、彼女が全軍を強化して耐えるはずだった。


 だが、強化は働いていない。それどころか、連絡すら取れない。


「……ち!」


 シスルは舌打ちして崖の下を駆け抜けてゆく反乱軍を見下ろした。ラタムの姿はもう見えない。


「何が、起きている?」




「あっはっはっは!」


 ヒルドヴィズル達が混乱に陥る戦場からほど近い山中、地面に深々と突き刺さった巨大な杭のような装置――出る杭打ち――の傍らで、マッドパピーは笑い転げていた。


 理論を完成させ、組み立ても試験も済ませたというのに実戦で日の目を見ることのなかった発明品の一つ。従来のジャマーが身体強化式に働きかけるのに対し、こちらは領域範囲内の根源ノ力の動きを制限する。


 つまりこの領域内では一定以上の根源ノ力を利用する挙動が不可能になる。


 ヒルドヴィズルはただの人のように脆弱なものとなり、創世術も使えず、根源ノ力を動力源とする装置は全て作動しなくなる。


 イメージとしては激しく波打つ水面に蓋を落としたようなものだ。波になろうとする水の動きがこの装置の動力源となる。


 画期的な発明だというのに、聖教会にとってこの装置は無用の長物だった。自軍の主要装備をことごとく利用不可能にする発明など無用を通り越して有害である。マッドパピーの抗議を押しのけて、出る杭打ちは秘匿される運びとなった。


 それから長い時を経て、この装置は表舞台に姿を現した。ヒルドヴィズルと人間が闘うに当たってこれほど都合の良い兵器もない。


「いやっほほおおお! たぁのしぃ! うれしい! ……ふぅ、さてさて。」


 押したくても押せなかったスイッチを押した感動に浸り、さんざんに喜びを発散させて、ようやくマッドパピーは正気に返った。今のところ、マッドパピーは発明品の働きを何ひとつとして確認していないのである。


「さてさてさて。僕ちゃんの可愛い発明品くんの戦果を見てみようじゃないか。えいや!」


 マッドパピーはワクワクと観測装置を空に向けて投げ上げた。観測装置は見事な放物線を描いて地に落ちた。


「……あれ? 故障かなあ?」


 観測装置も根源ノ力を動力源に動いているという事実にマッドパピーが気付くまで、しばらくの時間を要した。




「もう!」


 マッドパピーがまだ笑い転げている頃、テルセラはひとしきり舌打ちと悪態を吐き出していた。


 これは身体強化式ジャマーではない。特殊な強化式を使っているテルセラも含め、ヒルドヴィズルが一様に強化不能に陥っている。さらにはテルセラが苦心して戦場に張り巡らせたあらゆる創世式が機能を失っている。ジャマーキャンセラーも起動しない。


「まずいわねえ。」


 ねっとりとした声が耳元で聞こえた。ギョッとして振り返ると、真っ赤な唇が笑みを形作っている。


「フ、フルミナ……。あんたも?」

「ええ、強化式が励起しないわ。創世術も使えない。」


 フルミナはテルセラに顔を寄せ、情感たっぷりに言葉を紡ぐ。


「戦況もまるで把握できなくなっちゃったし……今頃前線はどうなっているのかしら?」


 彼女の声が不安を無闇に膨らませる。視界に靄がかかり、周囲の騒音が心をチクチク突き回す。


「さ、幸い、怪しい装置を発見はしているわ。何人か選んで止めに行かせましょう。」

「当然、敵も守りを固めていると思うけれど? すぐに動かせる連中は後方支援担当ばかりじゃない。」

「腹をくくるしかないわ。」


 テルセラは頭の中で手順を組み立てる。連絡網は動かない。枯れ谷の中にいるヒルドヴィズルは崖を上れない。装置は崖の上にある。身体能力が制限されたヒルドヴィズルは人間も同然。通ることのできる地形は限定され、時間もかかる。


「ぐずぐずしてられない。使える武器と人材を集めてくれる?」

「……私とデスガラルで行きましょう。」


 フルミナの言葉に、テルセラはギョッとした。


「自分で言ってたんだから解ってるでしょうけれど、危険よ?」


 フルミナは経験豊富なヒルドヴィズルだが、直接的な戦闘技術には優れていない。デスガラルはヒルドヴィズルとしては強力だが、力任せに暴れているだけの印象がぬぐえない。


「勿論、不向きだけれどね。統率役は必要でしょう?」


 テルセラは素早く考えを巡らせる。

 ヒルドヴィズルは戦闘能力と上下関係を結びつけてしまう傾向がある。この場で戦闘を行える者を選抜するとなると、それを統率するにはかなりの権威が必要だ。後方支援の責任者であるテルセラはここから動けない。確かにフルミナは手っ取り早い人選ではある。


「死なないでね。」

「約束はできないわね。それじゃ、適当に人を借りるわね。」


 フルミナは冗談めかしてそう言うと、踵を返した。彼女が最後に振り返った時、赤く塗られた唇は確かに笑っていた。



*****



「全く、あの子は素直なのだから……」


 手のひらほどの大きさの球体が整然と収められた棚の並ぶ静かな部屋に、気だるげな声が緩やかに響く。爪を赤く塗ったしなやかな手が、球の一つを拾い上げ、床に叩きつけた。


 球が砕け散る音を聞いて、赤い唇が愉快そうに歪む。


 棚に手を差し入れて水平に手を動かせば、球は重力に従って、次々と床に落ちて砕け散る。石壁の部屋に、高い音が反響した。


「どうせ砕けるのだもの。今壊しても、同じよね。」


 部屋をぐるりと回ってひとしきり球を落とした後、とりわけ目立つ場所に置かれた三つの球に、彼女はゆっくり近づいた。


 一つを落とし、一つを壁に叩きつけ、最後の一つを手に取る。投げつけようとしたところで気が変わり、懐に忍ばせた。


 砕ける時を、楽しみに。

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