54. 自分で立てる
カレンタルの部屋までが、限りなく遠かった。
足が重い。心臓が暴れている。今すぐ
部屋を訪ねると、カレンタルは不思議そうに振り返り、気遣うような笑顔を浮かべる。その笑顔が怖い。
どう振る舞えば良いのだろう。申し訳なさそうにするのか。泣きながら謝るのか。どうすればカレンタルの気が晴れる?
結局イオストラは、無表情に、無感動に、ただ淡々と事実を告げた。
カレンタルはきょとんとした表情でイオストラを見つめていた。時間が通り過ぎてゆく。カレンタルの表情がくしゃりと崩れる。胸の痛みを隠して、イオストラは冷たい無表情を貫いた。
泣いて謝って何になる。カレンタルから怒りの矛先を奪うだけではないか。誤解されたり憎まれたりするのは耐えがたい。けれど、カレンタルに我慢を強いるよりずっといい。
指を組む。冷たい。嫌な汗が流れた。体が震えた。気弱な様子を見せてはならないと指を解いた。
カレンタルは深呼吸をして、顔の皮を無理に引っぱったような笑顔を浮かべた。
「教えて下さって……ありがとうございます……」
責めることも罵ることもなく、負の感情を自分の内側に押し込めて、か細い声でカレンタルは言う。その姿があまりにも痛々しくて、辛そうで、けれど慰めることはできなかった。
カレンタルが無理をしている意味を奪ってはいけない。
憎しみや怒りを受け止めることもできず、慰めることもできない。彼が素直に泣くために、イオストラはただ邪魔なだけだった。
引き続き彼を客人として
部屋に戻るなり、イオストラは崩れるように座り込んだ。
カレンタルの表情が頭から離れない。
イオストラはカレンタルに何もできなかった。どう償っていいのか解らない。
カレンタルを一生養うことはできる。この政争に敗れなければ。いよいよとなれば金銭を持たせて逃がすこともできる。だが職も家族もないカレンタルに金だけ渡して万事が上手くいくほど神聖帝国の社会構造は簡単ではない。
償う道などどこにもない。
最もイオストラを打ちのめしたのは、カレンタルが何ひとつとして特別ではないということだった。イオストラのために家族を失った者など、数え上げればきりがないはずだ。カレンタルに特別なことがあるとすればただ一つ。イオストラの認識下にいるという、この一点だけ。イオストラが送り出して散らせた全てが、誰かの特別だった。
イオストラの
ビクティム要塞を奪い取った戦いでも少数の犠牲は出た。大勝利に湧きかえる中で、彼らは密やかに葬られた。イオストラは大して気に留めなかった。
ライフィスとの消耗戦の中でも大勢が死んでいた。イオストラは損耗率としてしか把握していない。
そしてヒルドヴィズルが乱入して以降、軍は壊滅した。イオストラは自分のことで精いっぱいだった。
あの戦いのどこかにいた名も知らなかった誰かが、カレンタルの兄になった途端に悲壮感を増してゆく。
人の命を背負う責任を自覚しているつもりだった。その認識が不十分だと知らぬままに突き進んだ。もはやイオストラが自失したところで状況は止まらない。フロルに駐屯していた
止まれないからには勝つしかない。もう引き返す道など残っていない。それなのに、力が抜けてしまって動けない。
「また悩んでいるのか?」
ひやりと冷たい手が髪にかかった。イオストラはハッとして顔をあげる。
「……エルム……」
「久しぶりだな、イオストラ。」
エルムはゆったりと微笑んだ。ひどく懐かしい心地がして、目頭が熱くなった。
「で、出てこないつもりだとばかり思っていたが?」
「出てくるとも。こういう時のために節約しているのだから。」
エルムはイオストラの前にしゃがんで、視線の高さを合わせた。目が鮮やかに色を変える。
「ほら、何を悩んでいるのか話してごらん。口に出すと楽になると言うぞ。」
「私はそれほど深刻に愚痴をこぼす相手を求めていたのか?」
「そういう日もあるだろう。悪いことじゃない。」
エルムはイオストラに対してどこまでも甘い。白の魔法使いの欠片にイオストラの願望が混ざり込んで生まれた人格が彼だから。
「情けないな、私……」
「それを情けないなんて言うところが、お前の駄目なところだよ。」
エルムはするりと場所を移動して、イオストラの隣に腰掛ける。イオストラは少し体をずらして、エルムの傍に寄った。
「私は……自分が皇帝になるのが当然だと思っていた。それが正統な権利だと。何も知らなかったから。でも、それが勘違いだと気付いてしまった。私が思っていたほど世界は単純ではなく、私には私の思っていたような特別さはなかった。」
イオストラは独白する。エルムは何も言わずにイオストラの言葉に耳を傾けていた。
「だけど後には引けなかった。土台が勘違いだったとしても、崩したくないものをその上に作ってしまっていたから……。共に歩んだ仲間たち、手を取ってくれた友人たち。彼らに報いるために皇帝になろうと思った。彼らの期待通りの私になりたかったんだ。」
「でも私は、仲間を、カレンタルを、助けてやれない。彼は私のせいで多くを失った。せめて兄と再会させたかったのに……兄も私のせいでいなくなっていた……。私の思い上がりが、カレンタルから家族を奪ったんだ……」
もう何を頼りにしていいのか解らない。けれど賭けたものと失ったものが多すぎて止まれない。
「イオストラ……」
エルムは諭すように呟いた。
「お前は優しいが、間違っている。欲望は自分のためだけに持つべきものだ。」
イオストラは顔を上げた。
「己が誠実でありたいならばそうであるために他者を傷付ければいい。清く正しくありたいならそのために他者の尊厳を踏みにじったって良い。」
「利己的だな……」
イオストラは苦く笑う。
「生命は元来、利己的なものだ。」
エルムの声はどこか諦観を含んでいた。
「望むなら全ての責任からお前を解放してやれる。敵からも味方からも逃げ出して、お前だけの人生を送れるようにしてやれる。気が
エルムの声が耳に甘い。
「辛かったら逃げればいい……」
雁字搦めに体を締め上げていたものが緩んだ。崩れてゆく足場で爪先立っていた時に、ふと飛び移る先を見つけたような、僅かな余裕が心に生まれる。
「……今は、逃げない。」
ごく自然に、イオストラは答えていた。
「私は……当然でなくとも資格がなくとも、やはり皇帝になりたい。」
「皇帝になって、何を為す?」
それはゴート族のオヴィスにも問われたことだった。あの時、イオストラは答えられなかった。今も確固たる答えを持っているわけではない。だが。
「私はカレンタルのことを知った。皇宮からでは見えない景色を見た。沢山の理不尽を感じた。だからこれを変えたい。」
力が及ばないかもしれない。人に迷惑をかけるかもしれない。周りの期待を裏切るかもしれない。それでも……
「私は私の感じた理不尽を、全て叩き潰したい。」
だから逃げるわけにはいかない。イオストラの答えに、エルムは優しく笑みをこぼすと、立ち上がる。
「立てるか?」
イオストラは頷いた。いつだってエルムはイオストラに逃げ道を用意してくれている。いつでも逃げて良いと言ってくれるから、ギリギリまで耐えることができる。
思えばエルムはずっとそうやってイオストラを支えてくれていた。
「ああ、自分で立てる。」
答えたイオストラの頭を優しく撫でて、エルムは再び姿を消した。白昼夢だったかのように。
イオストラは封珠に伸びかけた手を止めて、立ち上がる。
出陣の時が迫っている。
*****
イオストラ皇女が再びアンビシオンを出発し、ビクティム要塞へと向かう。
状況は全て整った。後は演者たちの自由にさせれば良い。
世界を示した地図を眺めやって、法王は退屈そうに息を吐く。
「楽しそうじゃないか。」
嫌味たらしい声がした。法王は眉を
「何か御用かな?」
法王もまた嫌味たっぷりに応じる。
「いや、なに。マッドパピーまでが参戦して、大したバカ騒ぎじゃないか。奴に何をさせる気だ?」
法王は溜息を吐く。封珠の発明によって白の魔法使いの乱用を招いた一件以来、ティエラはマッドパピーの行動に敏感なのである。
「さて、あれは勝手に出て行ったのでね。何を考えているのやら、私の知るところではない。」
「嘘を言うな。」
緑色に光る眼が、すっと細くなる。法王は肩を竦めた。根源ノ力の流れを見るその目を前に、嘘もごまかしも通用しない。直に会ってしまった時点で腹を割るしかなかった。
「……マッドパピーは需要と無関係に才能を爆発させる奴だ。なら需要のある所に放り込んで成果を見てみたいではないか。」
あの異常な天才は常に根源ノ渦をかき回す。攪拌された渦は勢いと強さを増し、嵩も増す。だが味方としている時にその天才ぶりを発揮されればいかに法王と言えど無視しかねる損害を聖教会に与えることになりかねない。
ならば敵として自由に振る舞ってもらった方がよいだろう。
「呑気だな。マッドパピーのせいで今上帝側は敗色濃厚だぞ。」
「ああ、構わない。どちらが勝とうが負けようが、私は多少振る舞いを変えるだけだ。今上帝が勝てば私の育てた強く大きな神聖帝国が残り、根源ノ渦の糧となる。イオストラが勝ったとしても、これまでと異なる治政で神聖帝国を変えるだろう。それもまた根源ノ渦の糧だ。どちらにせよ、この戦いによって失われるものはない。」
「そうだな。人命くらいかな。」
「何の問題もなかろう。死んだ分だけまた生まれる。不都合なことなど何もない。」
「どう転んでもお前は負けないというわけか。」
「負ける可能性を残した戦いなど、そもそもするべきではないのだ……」
そう言って、法王は地図を指で払った。
「この上もしもエルムを根源ノ渦に還すことができたら、これ以上のことはない。さて、あなたの助力を仰ぎたいところだが……?」
「そうまでして急ぎ帰還させる意味が解らない。どうせ封珠は摩耗しているのだろう? 十年や二十年、待てばどうだ。そのくらいの余裕はあるだろう。」
「一つ試したいことがある。早くやってみたくてうずうずしている。あなたにとっても興味深い試みのはずだ。」
ティエラは片眉を上げた。
「世界に散りばめられた白の魔法使いの欠片を全て集め、彼の情報を基に作り出した肉の器を封珠とする。即ち、白の魔法使いの完全復活。……他人の願望に侵された紛い物ではない、本物の兄に会いたくはないか?」
ティエラの目が揺らいだ。嘘を探そうとするように、法王の顔をまじまじと見つめる。時間の経過とともに、彼女の表情に動揺が濃くなる。
「ば、馬鹿馬鹿しい! 白の魔法使いは二度と元には戻らない!」
「そう納得するのに随分と長く探し回っていたものだ。現在に至るも、封珠に宿る人格に付きまとっているではないか。」
法王は涼しい目で煮え
「本当、に?」
「確実、とは言えない。だが千に一つも奇跡が想定できるなら、あんな
ティエラの目が泳ぐ。虹彩が不安定に明滅し、やがて不意に、輝きを失った。
「……私はお前が嫌いだ。」
「奇遇だな。私もあなたが嫌いだ。」
ティエラは鼻を鳴らして踵を返した。法王は一つ、小さな息を吐き出した。
ふと、先代の白の魔法使いのことを思い出す。あれも同じく紛い物だった。
「……感情とは非効率なものだな……」
軽く息を吐いて、法王はこの戦いで得られる可能性のある大小さまざまなものを数え始めたが、やがて面倒になって、やめた。
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