第一章 泥の姫
01. ヴァルハラの開門※
神聖帝国は常に貪欲に外敵を求め、勢力を拡大してきた。
二百年前には第一大陸および第二大陸の覇権を確かなものとし、周辺の小国全てを勢力下に収めた。平和な時代の到来を予見した者も多かっただろう。
そこで突如起こったのがリニョン王国の分離独立。神聖帝国の領土の半分をもぎ取って生まれたリニョン王国は、百五十年の栄華の末、再び神聖帝国に併合された。
多くの火種を残したままに……。
*****
「先帝より正当なる皇位を受け継ぎしイオストラ・ミュトラウス・レイカディアより偽帝へ告げる。直ちに玉座を真なる皇帝に明け渡せ。」
先帝ミュトラウス十五世の遺児であるイオストラ・オーネ・レイカディアが西の都アンビシオンで挙兵したとの一報が届いた時、皇宮を満たした空気は驚愕よりも納得の色を帯びていた。
帝位の返還を求めて聖都カテドラルを訪ったイオストラが望みを果たせないままアンビシオンに帰ってから、半年が経過していた。
アンビシオンはかつてのリニョン王国の都。そしてイオストラはリニョン王国併合の際に神聖皇帝に嫁いだ王女の孫に当たる。
五十年前に撒き散らされた火種の一つが
ところが小火では収まらなかった。反乱軍は
皇帝ミュトラウス十六世より迎撃を命じられた第二皇子ライフィスは
両軍は拮抗した。反乱軍は思いのほかに規模が大きく、また高度に組織化され、訓練も行き届いていた。どうやら現地の正規兵が反乱に加わっているらしい。かつてリニョン王国であった地域が丸ごと反旗を翻したようなものだった。
反乱軍の討滅を容易いことと見て功に
想定外の事態に動揺する両軍の中を、ヴァルハラより
ヒルドヴィズル、神の兵、あるいは
戦線は瞬く間に瓦解。反乱軍は潰走した。
指揮系統を失って要塞へと逃げ帰る反乱軍を、ヒルドヴィズル達は容赦なく追撃した。
ビクティム要塞は突然のことに対応しきれなかった。敗走の報が届く頃には
「門を閉めろ!」
追撃する敵と混然一体となった味方を受け入れることはできない。激しい
敗走する兵士たちに、それがどれほど残酷な光景に映ったことか。
しかし敗走者たちの絶望を汲む余裕は要塞内の誰にもなかった。逃げ散る兵士を
「踏み砕けぇ!」
獣の
防壁の上からその様子に
遠距離狙撃銃でも射程の外となる遥か遠方。ごく常識的な体格の女性が自分の背丈を超える銃を肩に担ぎ、片手で握った引き金を無造作に引く。巨大な光弾が撃ち出された際に生じる
放たれた巨大な光弾は
後に残ったのは熱せられた石の防壁と、
「北側
巨大銃の女は誰にともなく呟いた。
「了解した。味方の支援砲撃に移行せよ。」
奇妙な幾何学模様を内包する光の円が、女の耳元に浮かんでいた。そこから届いた低い声に了解の意を伝え、女は再び銃を構える。
恐るべき威力の砲撃に晒されて冷静さを失った狙撃兵たちにヒルドヴィズルの接近を阻むのは困難だった。怪物の群れは騎乗動物を
「豆鉄砲ね。」
ヒルドヴィズルの群れの先頭が到達する寸前に、門は運動を終えた。兵士たちは歓喜の声を上げる。誰の指示を待つこともなく、先を争うように
門全体が不吉に揺れた。兵士たちの歓声は即座に遠ざかり、不気味な沈黙が下りる。門に何かがぶつかる音が、
「早く閂をかけろよ。」
引き
「焦るなよ。この門はリュウガメの突進にだって耐えられるんだぜ……」
兵士たちは互いに強張った笑顔を向け合った。閂をかけるために門に近付いた兵士もまた笑っていたが、全身が細かく震え、
「死ぬの……死ぬの……。みんな、死ぬの……」
どこからともなく響く女の声が兵士たちの恐怖心を異様に
「やめろよ……。誰だよ!」
一人の兵士が泣き崩れる。周囲の兵士たちの反応は様々だった。同調して叫び出す者、大声で彼らを責める者、奇異な視線を向ける者……。奇妙なことに、この声には聞こえる者と聞こえない者がおり、内容も人によって様々だった。
「門を開けば助かるわ……。あなたはただの兵卒じゃない。」
「ねえ、何をしているの? そいつ門を開けるわよ。敵の回し者ではないかしら?」
「開けましょうよ。降伏するの。」
「ほら、閂をかけるふりをして、今にも門を開くわよ……」
「どうせ、門はすぐに壊されるわ。」
「徹底抗戦に決まっているでしょう? 皆殺しにされるわよ。」
笑みを含んだ女の声が、一人一人の兵士に違う言葉を囁きかける。一人が門を開けようとしたのを皮切りに、門の前は疑心暗鬼の
「やめろ! 門に近付くんじゃない!」
「早く閂をかけろ! 早く!」
「俺がやる。」
「開ける気だ! 押さえろ!」
メキリ、という小さな音が、惑乱を切り裂いて響いた。兵士たちは一様に沈黙した。門を閉ざし続けようとする絡繰りの破壊音を響かせて、ゆっくりとした開門が始まった。門の隙間から、巨大な手が滑り込む。
「押せ! 門を開かせるな!」
「槍だ! 隙間から槍を差し込んで殺せ!」
皆が皆、思いつくままに叫んでは実行する混乱の中、晴天の空から雨が注いだ。額から流れ落ちる液体を拭った兵士はその赤さと鉄臭さに驚いて空を見上げた。落ちてくる男の姿を目の表面に映したまま、兵士の首が宙を舞う。
世界から再び音が消えた。男の靴が地面を打つ音が、妙に高く響いた。頭頂部付近で結った長い黒髪が遅れて揺れる。
男は無言で
「死神……ラタム……」
恐怖に縛られた兵士の目に、降り注ぐ血の雨はより一層鮮やかな赤を帯び、濃厚な死の香りを立ち昇らせた。
死に彩られた空間に
膨れ上がった筋肉に覆われた肉体と、その上に乗った恐ろしげな顔、そして怪物めいた登場の仕方は、兵士たちの士気を根こそぎにした。諦めがしめやかに要塞を覆いつくした。
ビクティム要塞は異様な静けさの中で陥落した。
反乱軍はさらに西へと後退、フロルに本拠地を移した。
敗走する反乱軍の中に、その
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます